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郡中学校の校章・校旗(記章)
(写真1) 郡中学校同窓会より1971(昭和46)年12月6日贈呈の郡中学校の校旗
郡中学校の校章・校旗(記章)について
 
注1:校章とは、「学校の記章のこと」(広辞苑の解説より)
 注2:このページ内容(文章・写真・図など)は、「大村市立郡中学校創立五十周年記念誌(1995年11月29日発行、編集者:大村市立郡中学校創立五十周年記念実行委員会)を引用・参照・複写して作成している。(この記念誌を以降「創立五十周年記念誌」と称する)

 注3:上野も郡中学校の卒業生で、しかも在校当時は帽子(制帽)に、この記章を付けていた。そのため、この記章
は本当に身近な物だったので、そのような思い出も含めて書いている。

(写真2) 体育館・壇上上部の横幕(布地)の校章
郡中学校の創立と校章の制定について
・学校の創立
 大村市立郡中学校は、国の
学校改革により、1947(昭和22)年4月1日、郡高等実業青年学校に新設(創立)されました。

校章の制定年月日
 今回紹介の「郡中校の校章(記章)の制定」について、正式な年月日は、「学校沿革」や同校ホームページを閲覧しても見当たらないようです。ただし、「創立五十周年記念誌」の口絵写真説明文=「校旗の由来」(初代教頭・渡海涼 氏)によりますと、概要で「校章の図案が決まったのは昭和24年(1949)11月。その後、旗店に校旗作成を注文。そして昭和25年(1950)1月、三学期の始業式で初披露」となったようです。もしも、この初披露の始業式日を正式制定日とするならば、その日も後で調べれば分かってくるかもしれません。

 また、この校章を図案化
(デザイン)された方が、「創立五十周年記念誌」の「旧職員寄稿」ページに様々な事柄を詳細に記述されています。なお、この校章図案の意図と解説や制定年月日の件は、後の項目に詳細に書いていきます。

校旗について
 (写真1を参照) この 郡中学校の校旗写真は、標題に「祝 創立50周年記念 大村市立郡中学校 
記念式典 平成9年11月29日」と書かれた(プラスチック製)下敷きの表面写真からです。同校ホームページの「学校沿革」によれば「昭和46年(1971)12月6日 校旗寄贈(25周年記念として郡中同窓会より)」と書いてあります。

  あと、ご参考までに、(写真1)の校旗と、(写真2)の体育館・壇上の上部にある横幕の校章は、デザインは同様です。しかし、色合いが少し違って見えるのは、(写真1の)校旗は刺繍
(ししゅう)仕上げ、(写真2)の横幕の校章は、それぞれ違った色の布地を重ね合わせて作られた違いからと思われます。

校章図案の意図や解説について
 この項目の文章や図などは、「大村市立郡中学校創立五十周年記念誌」(1995年11月29日発行、編集者:大村市立郡中学校創立五十周年記念実行委員会)31~32ページの「校章校旗について」(本田勲 氏の執筆)を引用・参照して書いています。引用部分は、下記の
青色文章です。引用文が長文なのは、短縮するとデザイン上の主旨を損ねる可能性もあったからですので、その点ご了承願います。

 なお、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、太文字、改行や送り仮名などは、一部変えています。そのようなことから、閲覧者の方で引用などをされる場合は、必ず原本からお願いします。


作成開始
 校章、校旗の作成は未経験のため、先ず、参考資料の蒐集と分析検討から始めた。作業は家庭持込みで深夜に及び、形態構成、基礎図形の試作等繰返し漸く数例の作品としてやっと委員会に提出することが出来た。

図案構成の意図と解説
 、松原、福重、竹松三地区の生徒等が一つの校舎郡中に一元統合された姿を表わすため、三つのペン先型図形(図ABC)を配置した。この図形のACは、生徒の文筆的学習活動を(郡川を)、図Bはスコップや農具にみたて勤労活動を(多良岳〉意味している。

(図A) 郡中学校の校章デザイン
創立五十周年記念誌」の31ページより複写
 、また本校独自なものとして、郡を片仮名で図Aはコ、Bはウ、Cはリと読ませたい。

 、図DEFの葉形の部分は緑豊かな田園の町、郷土郡地区の表徴と共に、若々しく伸び育つ生徒の溌刺発展の姿を表わす。なお、本校章の図形はすべて、直線で構成されているので力強いが硬過ぎる感もあるので幾分柔軟性を出すため緩やかな曲線でまとめた。

 、図形的には最も安定した姿のピラミッド型構図をとり、B図多良岳と碧水の琴海を背景とし、両脚を大地に踏んばって立つ生徒の、終戦後多事多難の世に頑張って貰いたい願を示した。

 、中の図形は、生徒の高い理想に希望をもって飛翔する鳥をシンボル化した。

 、白線二本は昔より学徒の憧の的であった。これは中学生となった喜びと自覚を鉢巻として堅くしめ、更に頑張るぞとの決意を示している。

 作成中最も困惑したことは、もっと時間をかけ立派な作品へと熱中している最中、校長や委員会からは作成を急げと矢の催促、疲れてストレス化して一時はこの作業を放棄したい気になったこともあった。半世紀経って今なお健在する校章は、私個人にとっても栄光と感謝の勲章として輝く。

 五十周年記念の日を節目として、戦禍荒廃の地から逞ましく、みごと立ち上がり努力研鑽を積み上げた過去の輝かしい成果を称え、今後は更に、郡川の清流の如く、尽くることなく永遠の発展を祈念したい。
   (引用は以上)

 ここからは、上記の解説文を見て上野個人の感想です。上記内容は、一つの図案
(デザイン作成)化の趣旨を表現する文章としては、完璧と思えるものです。何回も読みながら、さすが、先生の書かれた文章だなあと、つくづく思いました。

 また、私は戦後生まれですが、郡中学校の開校して間もない頃とか、戦後の混乱期から復興期に向けての情景も浮かんでくる表現もあります。そのため、現在の在校生あるいは若い保護者の方で、やや分かりにくい事柄も上記にはあるかもしれませんが、今回、私の方で補足や注などは書かないことにします。

記章の思い出
 上野も在校当時、出来が悪かった生徒ながら郡中学校卒業生ですので、今回の校章・校旗(記章)については、思い出がいくつかあります。まず、当時は、小学校卒業
(私の場合、福重小学校)前から、男子なら学生服、鞄(かばん)、そして学生帽(制帽)などを両親が買ってくれました。また、当然、教科書や文房具なども、同時に買いそろえてもらいました。

(写真3) 郡中学校の制帽と記章
<上野の通学当時の写真より拡大>
 そして、入学前から新品の制帽と学生服を身に着けてみると、なにかしら今までの小学生とは違う嬉しさもありました。その学生帽と、そこに付いていた記章が、右側の(写真3)です。(この写真は同じ町内の当時在校生3人で写した時のものを、帽子部分だけ拡大したため、ピンボケ写真になっている点は、ご容赦願います。撮影は1968年1月、郡中3年生の時と思います)

 この(写真3)でもお分かりの通り、制帽に今回紹介の郡中学校の記章が付いています。また、この写真には写っていませんが、実物の写真には当時の在校生3人とも、左胸に付けていた名札の最上部にも今回の記章がついていました。そのため、この記章は、当時は本当に身近な感じでした。この印象が、まず第一の事柄です。

 次の思い出が、大村市内で開催されていた中体連や野球大会などで行った応援の時でした。ご参考までに、陸上競技でも野球でも、郡中生は頑張っていたのですが、それにしても当時の西大村中学校(西中)は、「強かったなあ」との印象が、私の中では今でも残っています。

 そのような中でも、同級生から後で聞いた話ですが、「他校生から郡中の記章はカッコウイイなあと言っていたよ」と教えてもらいました。それを聞いた時、私は今まで記章(校章)の図柄などまで考えたこともなかったので、「へー、そうか」みたいな、ちょっと自慢したくなるような感じにもなりました。

 以上二つが私が持っている郡中学校記章の思い出です。いずれにしましても、学校の各種行事でしか見ない校旗よりも、男子生徒ならば誰でも学生帽に付いていた記章の方が、本当に身近なものだったのではないでしょうか。


補足


(この原稿は、現在準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2020年6月19日、第二次掲載日:6月22日、第三次掲載日:6月29日、第四次掲載日: 月 日

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