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福重のあゆみ、江戸時代
定め石
定め石(全景)
定め石(江戸時代、八代将軍吉宗の頃)

 この『定め石』は、郡川(こおりかわ)の支流・佐奈河内川(さながわちがわ=「佐奈川内川」との表記もあり)の上流部(長崎県大村市重井田町)にあります。自然石に綺麗な文字で彫られたものです。この定め=約束事は、佐奈河内川の取水に関するものです。

 ただし、このホームページは、水利権の問題としてではなく、歴史的な事柄として書いていますので、あくまでも、ご参考程度にご覧下さい。また、この文章を書くにあたって、増元義雄氏(『福重のあゆみ』の執筆者)の多大なるご意見ご指導を頂き、作成いたしました。

 後で年代の詳細は書きますが、この石に文字が彫られたのは、徳川八代将軍吉宗(享保年間)の頃です。この石(右写真)は、土に埋まっている部分も相当ありますが、表面に出ている大きさは高さ約110cm、横幅約130cmです。(このページ下部に石まわりの写真があります)

 右写真画像は、メモリーの関係上ほとんど見えませんが、石の右端中央部に大きい文字で「定」と一字あり、次の行から、約束事の本文、補足が続き、石の左端下側に代表者(お侍さん)6人の名前が彫られています。

定め石の字句(部分)
 文字は、一部を除きほぼ全部見えますが、名前部分が判読しにくくなっています。名前を除く、約束事の文字は左図の通りと思われます。

上野注1:※印は、「地」と言う文字に見えます。
上野注2:○印は、「無」の文字のようです。
上野注3:野岳大堤(野岳湖)は、初代深澤儀太夫勝清の私財(献金)によって、築堤が始まり約1年7ヶ月を経て、寛文3年(1663年)3月に完成しました。松原、福重地区などの田畑を潤しています。

 次ぎに、ここに彫られている文字の直接解釈を書きたいと思います。ただし、私は、専門家ではないため、文字解釈に間違いもあるかもしれませんので、あくまでもご参考程度と言うことでご容赦願います。

此溝野岳大堤雨請溝
「このみぞ のだけおおつつみ あめうけこう」の読みと思われます。この意味は <この溝(井手=用水路の取水口は、野岳大堤用の雨水受け溝である>と、解釈されるのではないかと考えられます。

元文五申年出来※
九月正月迄構○之事

 この意味は < 元文5年申(サル)年に(この定め=約束が)出来た >   < (ただし)九月から正月までは(この定め通りでなくても)お構いないしである >と、解釈されると思います。(上野注:元文五年=1740年第8代将軍吉宗時代)

寛保二年七月四日
この意味は、< 寛保二年七月四日(この定め石を建てた あるいは約束事を切り込んだ >と、解釈されます。(上野注:寛保二年=1742年(第8代将軍吉宗時代の晩年、この2年後に9代将軍へ変わる時代)

代表者氏名(部分)
約束事の字句(部分)
重井田町などに伝わっていることのまとめ
 私が、大村市重井田町(及び隣の野田町)に伝わっていることの内容を以下にまとめました。

1)この『定め石』が作られる以前から、これら水の取水についての約束事があったと言われています。野岳大堤の出来る(1663年)以前からの約束事のようです。

 その後も、水不足の時などにぶり返されていたので、再度この『定め石』に約束事が彫りこまれたとの言い伝えがあります。

2)野岳大堤の完成前から、近隣の龍福寺(立福寺)、野田、今富では新田開発が進み、重井田でもその開発中であったが、水不足が原因で途中その新田開発は、中止されたとの伝承が当地にあります。

 実際、佐奈河内川(さながわちがわ)は、郡岳(こおりだけ)にその水源を発しますが、上流、中流域(下流域は野田川と合流し、郡川に流れ下る)とも水量は、豊富ではありません。

3)野田町にある赤似田堤(大村郷村記には「赤似田大堤」と称している。福重地域で最大の堤)は、野岳湖より遅い寛文年間に造成されました。その井手(用水路)の取水口は、現在の重井田橋上流の佐奈河内川にあり、赤似田堤用の水は、ほぼ全部をここから取水しています。

 赤似田堤に貯水された水は、さらに各種の井手を伝って今富町の田んぼにも 引かれています。その関係からか、この『定め石』の関係者としての名前もあるようですし、何か事柄あれば、野田町の人も重井田町に呼ばれたとの伝承もあります。

4)野岳大堤用の取水口は、「柴堰(しばぜき)みたいな使い方をする」との言い伝えもあります。それは、通常、柴の葉っぱを取水口において=柴の葉っぱで堰止めておいて、葉っぱの間から流れる程度の水なら構わないと言うことです。

全体の解釈として
 以上、当地で伝わっていること、ならびに佐奈川内川の水量の関係からして、この『定め石』に書かれている約束事は、「 この溝(井手=用水路の取水口)は、野岳大堤用の雨水受け用である。(雨以外の普通の日には流せない) ただし、九月から正月まで(=田んぼに水が必要としない期間)は、この定め通りでなくても、お構いなしである 」と解釈されると思います。


佐奈川内川の上流域と定め石(中央)
私の感想ついて
 この『定め石』を見られた地元の関係者は多いようでしたが、私は始めて見ました。2004年12月23日、最初一人で行って見た時(山道や川を登ったり下ったりと探すのにちょっと苦労した分もあるのですが)おもわず、「わあー、こんな所にあったのか」、「吉宗の時代に彫られた文字が、ずっと生きているのだなあ」と声が出たり、思ったりしました。

 この『定め石』を見た私の第一印象は、「綺麗な字で分りやすく彫られているなあ」と言うことでした。(石に文字を彫るための道具の専門用語が分っていないのですが)当時は金槌とタガネみたいな物で、コツコツと石工さんが彫られたものでしょうが、デコボコある自然石にこんなに綺麗な文字が彫れるものなんだなあと思いました。全くの素人ながら、石工さんの技術の高さに、まず感心しました。

 あと、米は神代の昔から食べ物と言うだけではなく、その後税金や貨幣価値にもなっていましたし、生活・文化から宗教に至るまで日本人の暮らしになくてはならないものでした。そのためには、米を育てる田んぼや水は、本当に最重要だったのだなあと、再認識しました。

 また、田んぼに取水するための堤(溜池)や井手(用水路)の工事、毎年の整備、さらにはその上流の川や泉の保全は、並大抵の労力ではないと子どもの頃より聞いてはいました。しかし、改めてこの石を見て、口では言い表せない先人たちの苦労の一端を垣間見た思いがしました。(掲載日:2005年2月7日)

(関連関係ページ)・『福重のあゆみ、江戸時代、士農工商』  ・『各町から』の『重井田町から

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