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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

福重小学校にある白馬様

 概要紹介
掲載中
 1)石祠の大きさなど
掲載中
 2)白馬様紹介書籍について
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 3)碑文内容について
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 4)補足とまとめ
掲載中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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概要紹介
名称:福重小学校の白馬様<ふくしげしょうがっこうにある しらうまさま>
所在地:長崎県大村市福重町230番地、福重小学校 (校舎裏側の一段高い畑の端にある)
大きさや碑文など:下記の1)、2)、3)項目などを参照

白馬様(福重小学校・校舎裏側の畑の端にある)

 大村市立福重小学校の敷地内には、長年「子どもたちの守り神様」と言われてきた白馬様(しらうまさま)があります。(右側写真参照) ご神体は、石祠の正面にある銅製の鏡と思われますが、その後方には白木に「白馬守護」と墨で書かれたお札(ふだ)みたいなものがあります。この白馬様は、毎年1月末頃にPTAなどで長年祀っておられます。

 この由緒については、『福重のあゆみ(修正版)』(福重地区町内会長会・2004年3月1日発行、執筆者:増元義雄氏)に詳細に書いてあります。<後の項目、2)白馬様紹介書籍についてを参照> なお、名称の白馬様は、この冊子に書いてある見出し(標題)からで、このページでは統一して用いています。

  白馬様の詳細は、後の項目をご覧頂くこととして、建立年は昭和16(1941)年1月です。建立者名についての記録や碑文はありませんが、たぶんに旧・福重村か福重小学校と推測されます。この当時、本校は、(福重村立の)福重国民学校(福重小学校)でした。この建立者名の推測が正しければ、大村市との合併(1941年2月11日)の前です。つまり、福重村がなくなる前年ということです。

 また、『福重のあゆみ』<後の項目、2)白馬様紹介書籍について>とは、別に上野独自で10年程前から2014年5月まで、この白馬様について撮影、巻尺計測、GPS測定、拓本作業、CG加工などをおこなっていました。

 そして、先の書籍内容(従来説)と基本的に同じですが、石祠
(せきし)の裏側に彫ってある碑文の拓本作業や写真CG加工によって、従来説にない事項も新たに分かりました。 そのようなこともあり、今回、福重小学校にある白馬様についての総合的なまとめが出来ましたので、このページで紹介をします。

 その新たな調査結果も踏まえて、極簡単にまとめて表現しますと、「福重小学校にある白馬様は、教職員・児童の守護神(守り神様)(つまり学校全体の守り神様)として、
昭和16(1941)年1月に建立され、それ以降から現在までPTAなどで長年祀ってこられました」と言えるでしょう。

1)石祠の大きさなど
 まず、
右側1番目写真を参照願います。中央部に写っているのが、福重小学校にある白馬様と、その土台の石垣などです。それらの大きさは、下表を見て頂けないでしょうか。 なお、ご参考までに緯度経度は、次の「 」内の通りです。「緯度: 32度57分57.4秒、経度: 129度57分1.8秒」

福重小学校の白馬様の大きさ
 石祠本体  高さ:約68cm  横幅:約40cm  周囲約160cm
 石祠の土台  高さ:約27cm  横幅:約43.5cm  周囲:約174cm
 土台の石垣  高さ約68cm  横幅約105cm  周囲約420cm

 白馬様が建立されたのは、昭和16(1941)年1月で、場所はまだ福重小学校が皆同郷(現在の皆同町)「城の前」にあった時です。この当時から、現在(上記右側写真参照)のような形に全体なっていたのかどうか、戦前の写真や記録がないので不明です。ただ、石祠だけは、裏側の碑文によって建立年が確認されますので、この形だったと思われます。

 戦争中、福重飛行場が学校敷地内に出来たため、福重小学校が矢上郷(現在の福重町)230番地へ移転したのは、1945(昭和20)年4月(ただし、校舎移転は終戦後の秋頃である)のことでした。ただし、この時期、白馬様は、まだ皆同郷に置かれたままでした。

 そして、白馬様は、昭和31(1956)年に矢上郷の東側校舎の東側に当初移設されました。そして、時期はいつか不明ながら現在地(本館校舎裏側の一段高い畑の端)に再度移設されたようです。上記写真に写っている土台の石垣は、推測ながら、この畑の端に移された時に築かれたのではないかと思います。セメントや石垣自体の状況が、比較的新しい感じにも見えます。

2)白馬様紹介書籍について
 福重小学校の白馬様について詳細に書かれた書籍類は、福重のあゆみ「修正版」(福重地区町内会長会・2004年3月1日発行、執筆者:増元義雄氏、41ページ)と、福重のあゆみ「小学生版」(発行者と執筆者は前と同じ、2004年3月発行、62〜63ページ)です。どちらの内容も、ほぼ同じです。

 下記点線内は、福重のあゆみ「修正版」から引用して書いています。なお、ホームページ用に見やすくするため、改行など一部変えていますが、本文は同じです。また、、右下側の絵は、「小学生版」63ページにある挿絵(さしえ)で、そこから複写して掲載しました。
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白馬さま(しらうまさま)
  福重小学校の校舎裏、一段高い所に「白馬さま」が祭られています。毎年1月の末に先生方やPTAの方々で「白馬まつり」が行われています。福重小学校が皆同にあったころ、小学校では不思議なことがたびたび起こりました。夜になると、廊下や天井を白い馬が走り抜けたり、刀を打ち合わせる音が聞こえたりしたのです。

白馬様の挿絵
(福重のあゆみ「小学生版」より)

 学校の建っていた所は古戦場(合戦のあった所)の跡だとか、馬の墓があった所だといわれていました。  元の小学校跡の近くには「合戦で討ち死にした武士の墓」と言い伝えられる墓が今もあります。馬の幽霊が出ると聞いた福重村の村長さんが「そんなバカなことがあるものか」といって小学校に泊まられたそうです。

 そうしたら、寝ている部屋の天井をパカパカ走り回る馬の足音が聞こえ、村長さんは自宅へ逃げ帰ったそうです。また、先生方の病気が多かったり、亡くなる先生もありました。そういうことが続いたので、この地で亡くなった人や馬の霊を慰めなければと「白馬さま」として祭ることになりました。

 昭和16年(1941年)のことです。そのためかあやしいことは起こらなくなり、「白馬さま」は学校・児童の守護神(しゅごしん、守り神)として祭られていました。その後、校舎は今の場所に移転しました。ところが、新しい学校でもまた馬の亡霊が現れたり、子どもの事故が続いたりしました。

 そこで、学校とPTAが話し合い「やはり白馬さまを祭らなければ」ということになり、前の学校跡に残してきた「白馬さま」の祠(ほこら=神を祭る小さなやしろ)を、昭和31年に今の場所に移して祭るようになりました。そのおかげか、学校は何事も起こらず、順調にいくようになりました。白馬さまには、このようないわれがあるのです。
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 「修正版」からの引用は、以上です。あと、補足ですが、上記内容とは別に、「小学生版」には、昭和31(1956)年に当時の皆同郷(町)から矢上郷(現在の福重町)へ,、白馬様
移転したことが書いてあります。ただし、移転当初の場所は、東側校舎の東側(当時、築山みたいな花壇があった周辺)だったと思われます。その後、時期不明ながら、現在地(本館校舎裏側の一段高い畑の端)に再度移設されようです。

 また、上記にある「古戦場」とか「武士の墓」についてですが、この皆同郷(町)周辺では歴史上、合戦などはなかったと言われています。ただし、合戦かあったか、なかったかは別として、当時の学校敷地(郡川の堤防近く)に「皆同の侍の墓」が、現在もあることは確かです。(先のリンク先ページを参照)

 あと、上記の通り白馬様のいわれはあるのですが、建立後は戦前戦後を経て現在も、<学校・児童の守護神(しゅごしん、守り神)>として、長年祀られてきたことが良く分かる内容です。

白馬様裏側碑文
(黄色文字部分はCG加工)

3)碑文内容について
 これまでも白馬様の石祠裏側に碑文が彫られていることは、直接見られた方ならば誰でも確認できていました。 しかし、一部の文字の欠損や長年の雨などによる汚れにより、全文の視認や解読は難しかったと推測されます。実際、この件についての記述や解釈の伝承は、今まで福重地区にはありませんでした。

 そのようなことから、先の項目で述べた通りの調査結果や右側のCG写真にある碑文の活字化と現代語訳ができましたので、下記を参照願えないでしょうか。なお、原文は、CG写真の通り縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し太文字にしています。また、素人による現代語訳と、その解釈の補足なども書いていますので、参照願います。

 明治廿六年 本校敷地ト
 テ古戦場跡地均ラシノ 際ノ無縁佛ヲ職員児
 童ノ守護神トシテマツル
   紀元二千六百一年 昭和十六年一月


現代語訳
 上記碑文の現代語訳は素人訳ながら、下記「 内の太文字通りです。なお、( )内は、解釈をより分かりやすくするため、上野の方で補足などをしています。なお、現代語訳の前に、福重小学校の移転などの歴史概要を先に少し書いています。

 福重小学校は、1872(明治5)年に寿古郷(寿古町)の「株田」で開校しました。(公立の小学校としては、大村市内最古と思われます) その後の1891(明治24)年9月、水害にあって学校が流失しました。その2年後の1893(明治26)年9月、皆同郷(町)「城の前」に校舎新築し移転しました。上記の碑文は、そのことから書いてあります。

  (皆同郷「城の前」に校舎を新築した)明治二十六(1887)本校(福重小学校)敷地というのは古戦場跡地(だったので、その地)を地ならし(整地)した時に無縁仏があったので、(それ以降は無縁仏を)教職員と児童の守護神 (守り神様)として祀っている。 紀元二六〇一年 昭和一六(1941)年一月 

<この碑文の解釈についての補足>
 白馬さまそのもの由緒や解釈の基本は、先の2)白馬さま紹介書籍について(=従来説)と変わりません。ただし、下記の(1)〜(3)項目は、碑文の調査や解読をするまで分からなかった事柄と思えます。

 (1)無縁仏(佛)を神様とした。(注:無縁仏はあったと思われる。この件は皆同の侍の墓参照)
 (2)従来説=「児童の守り神様」だけでなく、教職員含めた「教職員・児童の守り神様」だった。
 (3)白馬様の建立年は、「昭和16(1946)年1月」と明確に判明した。

 ただし、碑文には皆同郷(皆同町)に「古戦場跡」があったように彫ってありますが、この周辺には合戦した形跡は歴史上ないようです。その結果、碑文にある「古戦場跡」と学校敷地は関係ないと思われます。この点は、同じような内容で、2)白馬様紹介書籍について=従来説にも出てきますが、解釈は先と同様です。

4)補足とまとめ
 先の項目内容と重複しますが、この白馬さまの由来は、2)白馬様紹介書籍についてにある記述内容通り、「児童の守り神様」として長年祀られてきました。さらに、昭和16(1941)年1月建立の碑文を調査、再検証すると、「児童の守り神様」だけでなく、教職員含めた「教職員・児童の守り神様」だったことが、判明しました。(3)碑文内容についてを参照)

 私が思うに、この白馬様は先の由来や歴史的経過からして、強い宗教色のあるものとは違うと思われます。大昔から、日本は八百万(やおよろず)の神仏が存在すると言われています。このような事例と、この白馬様も似たようなことだろうとも考えています。つまり、戦前の皆同郷(町)で「白馬の話」(由来)はあって、元々は「その霊よ安らかに」と言う意味から建立されたのでしょう。

 しかし、込められた願いそのものは、碑文にある通り「教職員・児童の守護神(守り神様)」が主目的です。 このような願いは、何も建立当初だけでなく、その後(2014年現在で)73年以上の長きにわたってPTAなどで祀ってこられた経過からして、ずっと変わらぬことだったといえます。

 あと、補足的なことですが、このような「教職員・児童の守護神(守り神様)」みたいなものが、長崎県下にあるとは聞いたことがないので、その意味からして、この福重小学校にある白馬様は、珍しいことかもしれません。

  また、長崎県内の全部の公立学校では、児童が犠牲に遭った悲惨な事件を契機に、毎年5〜7月のいずれかの1週間「長崎っ子の心を見つめる」教育週間が取り組まれています。このことと福重小学校にある白馬様は、事柄の由来や経過などは全く違うものです。しかし、学校の児童を守りたい」という一点においては、戦前も現在も同じ考えと思えます。

 以上のように、私は石祠の碑文調査などをしてみて、改めて建立された当時を思い起こしました。そして、これからも福重小学校の教職員・児童が、事故や怪我がないように、さらには平穏で順調な学校生活が送れるようにと祈念しています。 最後になりましたが、『福重のあゆみ』執筆者の増元義雄氏から、白馬様の経過や碑文解釈についてのアドバイスを頂きました。このページを借りまして、改めて感謝いたします。

(初回掲載日:2014年5月23日、第2次掲載日:5月26日、第3次掲載日:5月27日、第4次掲載日:5月28日、第5次掲載日:5月29日、第6次掲載日:6月16日)

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