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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 川の中の碑文石
 概要紹介
掲載中
 1)名称と場所について
掲載中
 2)大きさなど
掲載中
  緯度経度、重量など
掲載中
 3)大村郷村記の碑文内容容
掲載中
   大村郷村記
掲載中
   碑文内容の概要紹介
掲載中
 4)川の中の碑文が語りかけていること
掲載中
 まとめ
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中

注:この碑文石は、既に<山田の滝、山田神社周辺の石碑ページ内「川の中の碑文>にて掲載中です。ただし、先のページには、大きな碑文石3基まとめて掲載中ため、参照、その他の理由から単独紹介する必要性が出てきました。そのため、3基とも分けたページで、その内容も一部改訂し、写真の追加などもしています。

川の中の碑文石(拓本作業中。写真手前側が上流)
(この石は大村大水害で滝壺脇から下流10mも流れた)

概要紹介
 この川の中の碑文石は、元々、山田の滝、滝壺脇の左岸側にあった大きな自然石です。それが、1957(昭和32)年7月25日、26日に発生した大村大水害によって下流約10m右岸側の川床へ流されたのでした。この碑文の名称として、江戸時代に編纂(へんさん)された(大村)郷村記に、瀧壺迹驚淵巌壁碑銘<意味は「滝壺(たきつぼ)である迹驚淵(とどろきぶち)の巌壁(がんぺき)にある碑銘=碑文」と思われる>と記述されています。

  現在、この碑文石は、3分の1ほど水面下に埋まっているため、拓本作業をしても一部読めない状態です。また、大村大水害時に流された時に、半回転したためと、その後の損傷、摩耗もあり、一部分を除き現在、目視ではほとんど文字判読が難しい状態です。

 しかし、碑文の記述は一部を除き、先の(大村)郷村記に転記してあります。(後の項目で全文を紹介) ただし、この(大村)郷村記に書かれている碑文内容(全文)は、難しい漢字と難解な漢文体ばかりです。私は、この内容の拾い読みはできても、全体が解読できません。

 この碑文を極簡単に紹介すれば、建立者の日蓮宗・本経寺・日迢上人(にっちょうしょうにん)、建立年や、この周辺の風景が素晴らしいことなどもあります。しかし、その主たる内容は、七面大明神(日蓮宗の守護神)の由来や、ここに七面大明神を建立した目的などが詳細に彫ってあることです。

 この川の中の碑文石は、あの激しい大村大水害によって下流に流されましたが、碑文面だけは奇跡的に(その後の川の濁流によって文字の摩耗はあるものもの)破壊を逃れています。このことは、ある意味、建立された元禄時代の人々の強い願いと、大村大水害のすさまじさを伝える”生き証人”ともいえるのではないでしょうか。


左側上部:七面大明神 、 中央部奥側:山田の滝(落差約11m) 、 右手前側の赤色部分川の中の碑文石が元あった場所
(上記の赤色部分はCG加工)
1)名称と場所について
 私は、現在、川の中の碑文石と呼んでいますが、この碑文石の(本来の)正式名称は、(大村)郷村記の記述通り、瀧壺迹驚淵巌壁碑銘<意味は「滝壺(たきつぼ)である迹驚淵(とどろきぶち)の巌壁(がんぺき)にある碑銘=碑文」と思われる>です。しかし、この名称では長くて分かりにくいし、滝の名称も江戸時代から変わりましたし、しかも下記の通り、大村大水害時に現在地に碑文石が流されて、既に(2017年現在で)約60年も経っていますので、先の名称で現在呼んでいます。

 そして、川の中の碑文石の元あった場所は、建立当初の滝名称「迹驚の瀧(とどろきのたき)」(現在名称:山田の滝)の滝壺(たきつぼ)の左岸前方にありました。(その場所は、上側から2番目写真の赤色部分参照) そして、この碑文石は、1957(昭和32)年7月25日に発生した大村大水害時に流され、今度は右岸側で(元あった場所から)約10m下流の川床にあります。素人の推測ながら、重さ5〜10トンあるような自然石を、水の力だけで運んだということです。

 なぜ、このようなことが言えるのかと言いますと、実は大正時代に山田の滝の全景(当然、この当時、碑文石は元の滝壺左岸側にあった)を撮影した白黒写真が大村には残っています。その写真を見ますと、この碑文石(自然石)が無傷の状態で写っています。この写真では、彫られた碑文までは確認できませんが、現在の川の中にある碑文石の形状から逆算、推測すれば、滝壺奥側にある山田の滝に向かって碑文面は手前側を向いていました。

 つまり、この碑文石が彫られた元禄13(1700)年当時は、「迹驚の瀧(とどろきのたき)」(現在名称:山田の滝)を左側正面に見る位置にありました。また、この碑文石のあった場所からは、上記写真通り(現在、右岸側にある七面大明神)の高い岩壁も見えています。ただし、この七面大明神が、大村大水害前は、どの場所にあったのか、現時点で私は調べていません。

2)大きさなど
  この項目では、川の中の碑文石の大きさなどについて紹介します。先の項目と重複しますが、この石は現在3分の1ほど川床下(水面下)に埋没しているため、正確に計測できません。それで、下表には水面より上の部分を主に測った数値を書いています。一部( )内数値は水面より下部なので、あくまでも私の推測の数字です。そのようなことから、この数値は、ご参考程度に見て頂けないでしょうか。なお、左岸(上流部)から碑文石を見た状態で、横幅とか縦とか下表には書いています。
川の中の碑文石の大きさ
 碑文石  高さ:約110cmプラス水面下(推定で全体160cm位か?)  横幅:約205cm  奥行き:約190cm
 文字部分  横幅:約64cmプラス水面下(推定で全体100cm位か?)  縦行の長さ:約114cm - 

川の中の碑文石 (写真手前側が碑文面)
(この石は大村大水害で滝壺脇から下流10mも流れた)

 上記の計測とは別に、この碑文石の緯度経度も計測しました。ただし、この場所は、間近に(右岸側の)高い岩場、さらには森林などがあり、電波が正確に届きにくい所です。そのため、いつもの表形式はしていません。下記、「」内の緯度経度は、あくまでも参考程度に閲覧願います。

 碑文石の緯度経度:32度55分24.71秒 129度58分54.45秒(ただし、あくまでも参考数値。 標高:地図上で約60m。GPS標高で87m、気圧高度計で81m)

 碑文石の重量は、全くの素人推測ですが、推定5トン〜10トンありそうな感じがします。この自然石は、元々、山田の滝、滝壺脇にあった頃と比べ、現在は碑文面は時計回りで90度傾いた状態です。また、碑文面には関係ありませんが、石の一部分は玉ねぎの皮がむける感じで割れてもいます。右側の上から1番目(拓本作業中)と、3番目写真をご覧頂きますと、写真手前側(上流側)が、碑文面です。

 ただし、碑文面全体に文字があるのではなく、3分の2程度に碑文があります。当時は、全て手彫り(手作業)だったのでしょうが、「よくもまあ、こんなにビッシリ彫れたもんだなあ」と声が出るほどの文字数があります。同時に「自然石に、これだけの文字数を彫るだけでも高い石工技術があったのだなあ」とも思いました。


3)大村郷村記の碑文内容
  この項目は、まず復刻版の大村郷村記・第一巻(編者:藤野保、1982年1月発行)82〜83ページより複写して、下記に掲載しています。通常は、大村郷村記から転記してホームページ用に横書きに直しています。しかし、今回は、複写版画像にしています。その理由は、難解な漢文体文字、ホームページ用漢字に変換できない文字などが多数あるためです。後で難しい漢字をホームページ用に同じ意味の現在使われている漢字へ変換できれば、通常通りに横書き変更も考えてはいます。それまでは、下記の画像をご参照願います。

大村郷村記(編者:藤野保、1982年1月発行)・第一巻82〜83ページより複写:瀧壺迹驚淵巌壁碑銘の記述部分

碑文内容の概要紹介
 上記の碑文の概要紹介の前に、この碑文石の名称、建立者、建立目的、建立年、建立場所などをを箇条書きにまとめて、下記に書いておきます。
  (1)名称---------瀧壺迹驚淵巌壁碑銘<意味は「滝壺(たきつぼ)である迹驚淵(とどろきぶち)の巌壁(がんぺき)にある碑銘=碑文」と思われる>
  (2)建立者-------「願主日
迢」とある通り、(本経寺の第8代住職の)(にっちょう)である。
  (3)建立目的-----(日蓮宗の守護神である)七面大明神を安置したことと思われる。
  (4)建立年-------元緑十三庚辰(かのえたつ、こうしん)(西暦1700年)8月19日である。
  (5)建立場所-----当時「
迹驚の瀧(とどろきのたき)<現在呼称:山田の滝滝壺(たきつぼ)岩壁にあった。(注釈、1957(昭和32)年7月25日に発生した大村大水害時に現在の川の中に流された)

  先に上記の画像に書いてある内容は、当然、江戸時代に大村藩によって編さんされた(大村)郷村記通りに書いてあります。そして、この碑文石は、大村大水害時に流され、現在、元あった滝壺(つぼ)脇の岩壁から
下流側へ約10mの地点にあります。そして、その碑文面が、一部を除き川床の下側になっているため、全体は見えない状態です。つまり、拓本作業しても、全文(判読)調査は不可能です。

そのような状況からして、江戸時代の(大村)郷村記内容は、滝壺(つぼ)脇にあった当時に、書き写されたものですから、全文の転記ではないものの、多くの碑文内容を伝えており、貴重であり意義あることだとも思えます。私の見た範囲内で、碑文全体を100とすれば、そのほぼ98%位は転記されているようです。その大村郷村記の記述分の文字数は、約430文字あります。

山田の滝 (写真右側)七面大明神(写真左上側) 
川の中の碑文石は大村大水害前まで写真右端側にあった)

 この(大村)郷村記に記述されている碑文(全文)は、先にも書いています通り、難しい漢字と難解な漢文体ばかりです。ここで残念なことを書かざるを得ないのですが、私は、この碑文の拾い読みはできても、全体が解読できません。それで、次の<>(青文字)碑文の概要紹介文を書いておきます。

  この碑文の最初の方には、本経寺(第八代)日迢上人(にっちょうしょうにん)が元禄13(1700)年8月19日に建立したことや祈願内容などがある。その中には領主大村家の繁栄や民衆の安らかなことなどが彫られている。その後、この周辺にある拝殿には七面大明神(しちめんだいみょうじん)が安置されていることや、周囲の風景が素晴らしいことが述べられている。さらに、七面大明神の由来(注)が、やや長く書いてある。つまり、前段部分(建立目的、建立者、建立年など)を除けば、それ以降の多くの内容は、七面大明神を安置したことに重きをおいて書かれたものと推測される。


(注)について、かなりの長文で七面大明神について彫られています。山梨県にある七面山や、そこにまつわる七面大明神の由来などについてもあります。この碑文に彫られている内容とほぼ同じ内容が、次のリンク先から閲覧することができます。山梨県にある身延山久遠寺ホームページの「七面山、由緒」の「日蓮大聖人と七面天女」紹介文です。このページから引用して、次の<>内に一部書きます。

 (前略)  この美しい女性はたちまち本来の龍の姿を現じたのです。そして、もとの美女の姿に戻り、「わたくしは七面山に住む七面天女です。身延山の鬼門をおさえて、お山を護る法華経の護法神として、人々に心の安らぎと満足を与え続けましょう」とお誓いになると、雲に乗って七面山に飛び去っていきました。  (後略)

 国語辞典を参照すれば、七面大明神とは、「七面天女のことで日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神」のことです。つまり、七面山の七面大明神は、身延山久遠寺の守護神だと思います。この関係と同じことが、大村の本経寺と(山田の滝周辺の)七面大明神にあったのではないかともと推測できます。そして、このようなことが、当時、滝壺脇にあった碑文に彫り込まれたと思われます。

 以上、この項目は、大村郷村記をもとに碑文の概要紹介をしてきました。たとえ全文でなくても、この種の史料について最も重要と思われる建立年、建立目的、建立者名などは、先の(1)〜(5)や、<>内の碑文の概要紹介文で述べた通り、全部判明しています。なお、川の中の碑文石は、建立年などの最も肝心な部分が水面下になっています。しかし、それ以外の部分では大村郷村記内容と同じですから、この記述の正確さも確認できまます。


4)川の中の碑文が語りかけていること
 この川の中にある碑文石は、先の項目にも既に何回か書きました通り、元緑13年(1700)に七面大明神の安置された時、滝壺の脇の大きな石に彫られたものです。通常の史跡紹介ならば、他の調査内容含めて事実関係を
淡々と書けば終わりです。しかし、私は、これまで独自の事柄も書いてきましたので、今回も幾つか書き足したいと思っています。

(1)元禄時代の人々の強い願いが伝わる
 重複表現になりますが、この大きな碑文石は、1957(昭和32)年7月に発生した大村大水害によって山田の滝、滝壺脇から下流約10mの川床へ流されたものです。他の面は、玉ねぎの皮がむけたみたいに壊れている所もあります。しかし、碑文の彫り込んである面(碑文面)だけは、不思議と破壊を免れています。

川の中の碑文石 (写真手前側が碑文面)
(この石は大村大水害で滝壺脇から下流10mも流れた)

川の中の碑文石(拓本作業中。写真手前側が上流)

 この無傷に近い碑文面を見ますと、中には(建立者が本経寺の第8代住職の日迢上人ですから)宗教的なことを言われる方もおられるかもしれません。私は、私なりに元禄時代の人々が造り、その後も変わらずに続く民衆の強い願いが、大村大水害による強烈な濁流による破壊に打ち勝ったのではないかと思っています。

(2)1957(昭和32)年発生した大村大水害を伝える”生き証人”

 また、ここに行くたびに私は「こんな(推定5トン〜10トンありそうな)大きな石を流す自然の力は、なんと圧倒的で驚異的なのか」、「しかも、10mも流されているのか」など色々と思うことがあります。この河原周辺には、当然この石だけでなく、もっと大きい(車庫位の大きな)何十トン、何百トンもありそうな自然石がゴロゴロしています。その多くが水害で流れたので、「大村大水害後は風景が変わったみたいだった」との話も地元の方からお聞きました。

 そのようなことから、この川の中の碑文石は、大村大水害時に発生した圧倒的な、濁流の驚異的な力を伝える”生き証人”でもあると私は思っています。寺田寅彦の有名な「天災は忘れた頃にやってくる」との格言があります。2017年現在で、1957(昭和32)年に発生した大村大水害から、既に60年経ちました。

 誰も水害も災害も願う方はいらっしゃいませんが、それでも世界でも日本各地でも災害は発生し目を覆うばかりの惨状です。災害後は、どこでも対策がされますが、未来永劫に起こらないと言う保証ではないと思います。この大きな碑文石は、水害の力を再認識させるものだとも思えます。

(3)碑文石の存在にも光を当て後世に伝えて欲しい

 この碑文石の情報提供者の方と初めてお会いした時に、色々と話をしました。その中で私が良く覚えているのが、「今まで、山田神社や七面大明神などの掃除やお参りの時に口づてに他の方にも伝えていた」、 「できれば、この碑文の存在にも光を当て、後世に伝えて欲しい」と言う内容です。このことは私なりに、「元禄時代から続く多くの人々の願いや、大村大水害を今に伝えるものだ。できれば末長く、この教訓を山田の滝や山田神社の観光の機会でもいいから知って欲しい」との内容と理解しました。

 史跡保存活動は、どの地域でも難しい課題です。可能ならばマスコミ報道、書籍類、ホームページ類などで多くの方へ知らせる必要があるのではと考え、その内の数項目は、既に実施済みです。それらをきっかけに、多くの方々に、まずは山田の滝見学ついでも良いので、この川の中の碑文石も見て頂ければなあと願っています。

 そして、いずれは、観光資源としての活用や、「大村大水害を伝える”生き証人”」にもなるのではとも考えています。ご参考までに、山田の滝と山田神社周辺には、元禄時代に建立された三つの碑文石(このページ紹介項目以外に「題目淵の碑」と「山田山中大石碑銘」があり)、さらには「 (大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑」もあります。

まとめ
 
(この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:山田の滝、山田神社周辺の石碑ページ内「川の中の碑文 、 山田の滝  、 「題目淵の碑」 、 「山田山中大石碑銘」 、 「 (大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑

    、 
(初回掲
載日:2017年6月12日、第二次掲載日:6月20日、第三次掲載日:7月6日、第四次掲載日:7月7日、第五次掲載日:7月8日、第六次掲載日:7月14日、第七次掲載日: 月 日)

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