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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

萱瀬の戦没軍馬慰霊像

 概要紹介
掲載中
 1)慰霊碑の大きさなど
掲載中
 2)軍馬像について
掲載中
 3)碑文内容について
掲載中
 4)萱瀬と馬の関係について
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 5)補足とまとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
萱瀬の戦没軍馬慰霊像(田下町、氷川神社の境内)

概要紹介
名称:萱瀬の戦没軍馬慰霊像<かやぜ の せんぼつ ぐんば いれいぞう>
所在地:長崎県大村市田下町 (氷川神社の境内)

 始めに、この軍馬慰霊像の名称についてですが、慰霊碑の表側にある碑文最初の大きな文字は、「弔 戦没軍馬の御霊」となっています。ただし、この名称では、慰霊像(慰霊碑)の地域名がないのと、一般でも通用するには、やや難しい表現と思われますので、上野の方で地域名も含めて”萱瀬
の戦没軍馬慰霊像”としました。

 場所は、大村市萱瀬地区(旧・萱瀬村)の中心地ともいうべき田下町の氷川神社境内にあります。神社本殿に向かって左側(北側)直ぐの所です。さらに、その奥側は、郡川上流の川岸にあたります。

萱瀬は農業、林業が盛んで馬が多くいた
 戦前の萱瀬村には馬が多くいました。その要因は、この地域が農業だけでなく有名な萱瀬杉を代表とする林業や木炭(炭焼きも)も盛んだったことに起因しています。つまり、馬は、田畑を耕す農耕馬だけでなく、木材や木炭などを運ぶ運輸業にも大活躍したと言うことです。

 そのようなことから、先の大戦で戦争に萱瀬の馬も多く徴用されました。しかし、一頭も帰国することなく戦地で死亡しました。飼っている方にとっては家族も同然でしたから悲しみも大きく、この像は、そのような愛馬の慰霊像です。戦争は、人的犠牲だけではなく、馬も「犠牲者」だったということです。

 記念碑の表側と裏側に建立の趣旨・年月日・建立者名などの碑文があります。それを参照すると、建立者は日本郷友連盟・萱瀬郷友会で、会長は中瀬正隆氏です。表面に会長1名の名前があり、裏側の碑文に萱瀬郷友会会員(会長、副会長、会計、理事、会員、監事など)14名の名前が彫ってあります。

 建立年月日は、1991(平成3)年9月29日です。あと、先の碑文にはないのですが、私の調べた結果、慰霊像の彫刻家は竹内修氏で、鋳造会社は株式会社・高岡鋳芸社(富山県高岡市)です。(この彫刻家と鋳造会社については後の項目で詳細に書く予定)

小ぶりながら馬の姿形が素晴らしい
 (右上側1番目写真参照)土台の上にある軍馬像は、小ぶりながら姿形が実に素晴らしく、たくましさ、さらには今にも動き出さんばかりの迫力があります。また、美術的価値からしても、かなり高いと思われます。

 この萱瀬
の戦没軍馬慰霊像のある氷川神社は、国道444号線から直線で数百メートルもない距離です。しかも、大村市萱瀬出張所という目印にもなる建物の横(北側)にありますので、機会あれば氷川神社とともに軍馬慰霊像も、ご覧願います。また、周辺の史跡巡りや健康ウォーキングにも良い場所です。さらには、この田下町は夏にはホタル、12月頃には、イルミネーションの町としても有名です。

1)慰霊碑の大きさなど
 萱瀬
の戦没軍馬慰霊像と、その土台(石垣)の大きさは、下表の通りです。

萱瀬の戦没軍馬像本体と慰霊碑全体の大きさ
 全体  高さ約205cm  横幅:190cm  -
 軍馬像本体  高さ:135cm  横幅:150cm  奥行き:40cm
 土台の石垣  高さ:170cm  横幅:190cm  奥行き:143cm
萱瀬の戦没軍馬慰霊像の全体
(田下町、氷川神社の境内)

 この軍馬像本体は、上表通りサイズ的には小ぶりです。ただし、もしも実際の馬の大きさに近いものでしたら、逆に慰霊像としては違和感さえ感じるかもしれませんので、丁度良い位の大きさではないでしょうか。また、姿形は、サラブレットのようにスマートな仕上がりです。

 土台(石垣)は、高さも横幅もあります。さらに石垣最上部には、化粧石のように御影石が施されていますので、全体的に高級感さえします。軍馬像本体と土台と、上下・左右のバランスも考えられて設置されたものと思えます。

 ここからは上野の推測ですが、これだけ慰霊碑全体がしっくりとまとまって構成されているのは、たぶん事前に軍馬像の大きさを聞いて、あるいは高岡鋳芸社(富山県高岡市)から軍馬像が到着後かに、土台の設計をされたからだと思われます。

 男性の平均身長位ある土台は、けっこう高さを感じます。これは、やはり慰霊像ですから、参拝者や見学者などが、下から拝む、あるいは仰ぎ見るような感じで軍馬を祀られた形にされたのだと推測しています。

 この石垣の石は、質の良い自然石から四角に加工されたもののようです。このような自然石から造られたものは、年月経てば雨や風雪によって一層風合いが良くなるものです。また、表側に碑文が彫ってある黒御影風の石は、高級感があります。

 氷川神社境内に行き、まずは本殿をお参りし、その後、近くにある萱瀬
の戦没軍馬慰霊像を拝んだり、見学しやすいように周囲の状況も良く手入れています。(右側2番目写真参照)

2)軍馬像について
 この萱瀬の戦没軍馬慰霊像については、大村市広報誌に簡潔ながら分かりやすい文章で紹介されていますので、その部分から引用して先に書きます。市広報誌1991(平成3)年12月号(11ページ下段左側の紹介記事) には、下記<>内通りに書いてあります。(市広報誌はモノクロ写真付きの縦書きですが、下記は写真は省略して、文章は横書きに変えています)

 < たくましく堂々と   戦没軍馬の慰霊銅像が、田下町氷川神社に建立されています。 かつて、農家の貴重な動力源であった農耕馬が、軍馬として戦地に送られ、故郷に帰ることなく戦地で犠牲となったことから、市の日本郷友連盟萱瀬郷友会(中瀬正隆会長、125人)が、その霊を弔おうと建立されたものです。 実物より小ぶりの軍馬ですが、そこには、たくましく堂々とした姿がありました。

馬の姿形が素晴らしく、美術的価値も高い
 この市広報誌の通り、軍馬像は、小ぶりながら姿形が実に素晴らしく、たくましさ、さらには今にも動き出さんばかりの迫力があります。また、私の推測ながら、美術的価値からしても、かなり高いと思われます。(左側の)写真だけでは分かりずらいですが、実物を何十回となく見学しますと、そのスマートさ、無駄のない引き締まった筋肉質の体、ピンと立った耳、きりっとした目鼻立ちの良い顔の表情など、しばし見とれるほどです。

  長崎県内では、これほどの軍馬慰霊像があることは、今までほとんど知られていないことかもしれません。 あと、この軍馬像の彫刻家名について、私は鋳造会社の株式会社・高岡鋳芸社(富山県高岡市)さんへ、問い合わせたところ、竹内修氏と言うことを教えて頂きました。この方は、全国の彫像や伝統銅器など多数の作品を制作されている方です。(作品例の一部は、高岡鋳芸社の「伝統銅器」ページから参照願います)

3)碑文内容について
 萱瀬
の戦没軍馬慰霊像の表側、土台の中央部に(右側3番目写真参照)黒御影石風に白い文字で碑文が彫ってあります。この文章に記念碑関係では重要な建立目的、建立年月日、それに建立者名があります。この碑文の実物は、右下側写真の通り縦書き文字ですが、このページでは横書きに直し、見やすくするために改行位置も変えています。

萱瀬の戦没軍馬慰霊像の碑文(土台の表側)

 その文章は、次の<>内の通りです。あと、私は、大村の記念碑シリーズの各ページには、通常ならば碑文本文を書いた後に、現代語訳とか口語訳などで解説しています。しかし、この慰霊像は、1991(平成3)年に建立されているので、まだ20数年しか経っていないので、あえて現代語訳などはしていません。

   < 
弔 戦没軍馬の御霊
 憶ふに支那事変勃発するや農耕馬等は 軍馬として徴発され隊馬として共に支那大陸 を始め東亜の各地に転戦し人馬一体となり皇国の必勝を期し勇戦奮闘せり

 しかれども戦いは我に利あらず昭和二十年八月十五日終戦の聖断下る。而して戦地にありし軍人は逐次復員し祖国の土を踏めども、ひとり軍馬のみは一頭だに帰ることなく異国の地にありてその生命を絶つ

 嗚呼悲しいかな、愛馬と共に戦塵にまみれ戦いし、かの地かの時を想ふ時ただ悲痛の涙流るるのみ。凡そ生命のあるもの必ず魂あり。 茲に国難に殉ぜし戦役軍馬のみ霊安かれと祈念しこの銅像を建つ。

  平成三年九月二十九日   日本郷友連盟  萱瀬郷友会  会長 中瀬正隆  >

碑文についての補足
 上記の碑文からして、この慰霊像の建立年月日は1991(平成3)年9月29日、建立者は日本郷友連盟 萱瀬郷友会であること、さらに建立趣旨も「戦役軍馬のみ霊安かれと祈念しこの銅像を建つ」と書いてあるので、大変分かりやすいと思います。また、土台の
裏側の碑文に萱瀬郷友会会員(会長、副会長、会計、理事、会員、監事など)14名の名前が彫ってあります。

 あと、私は、この碑文石あるいは土台(石垣)を施行をされた石碑店なども調べてはいましたが、2014年1月現在、不明です。ただし、芸術的・専門的な軍馬像と違って、土台全般に、たぶん大村市内の会社が担当されたと推測しています。そのようなことから、後で判明すれば、このページのその部分は改訂しようと思っています。

4)萱瀬と馬の関係について
 この項目、(上野は戦後生まれなので)私自身が萱瀬で戦前戦後にたくさんの馬を直接見たということではないです。そのため、現在でも萱瀬地区に残っている伝承や若干の推測を含めて書いていますので、その点はあらかじめご了承願います。ただし、詳細な頭数までは把握できなくても「なぜ、萱瀬は馬が多かったのか?」と言う大枠は、古写真、書籍類や事実に即して記述していますので、ほぼ正確と思っています。

黒木の木遣り歌・木挽き歌の披露中(黒木町)
木の回転作業中(黒木町)

 旧・萱瀬村(現在の大村市萱瀬地区)は、戦前あるいは戦後も相当期間まで、農業・林業(特に林業)が本当に盛んな地域でした。それは近代だけでなく、江戸時代や、それ以前からだったと思われます。

 このようなことが良く分かる資料(史料)として、江戸時代、大村藩が編纂した(大村)郷村記、あるいは1984年3月発行の「萱瀬物語第一巻」(萱瀬開発振興会・萱瀬物語編さん委員会)、1985年2月1日発行の「大村の民話と伝説・上巻」(大村史談会・河野忠博氏)などがあります。

 また、萱瀬では、江戸時代に7万本の杉苗木が植えられました。その後に切り出しも当然ありましたが、現在でも樹齢200年を超す杉を始めに幹周り3.5m以上、樹高40mを超す「萱瀬杉」は、400本以上あります。全国の「森の巨人たち100選」に長崎県内で唯一選ばれているほどです。

 さらに具体的な写真展示として、萱瀬の戦没軍馬慰霊像の直ぐ横(西側)には、萱瀬の「ふれあい郷土館」があり、その2階に古写真がたくさんあります。その写真を見ますと、他の市内の地区と違って、農業、林業(木の伐採、木炭、材木の運搬作業など)の仕事ぶりを撮影されたのが何枚かあります。これらのことによっても、「萱瀬は林業・農業が本当に盛んな地域」と言うことが、お分かり頂けると思います。

 さらに萱瀬で林業が盛んという証拠みたいな感じで、木の伐採、切り出しや運び出す時の作業歌(仕事歌)も残っています。それは、いつの時代からか不明ながら、「黒木の木遣り歌、木挽き歌」として、現在も萱瀬地区の黒木町には伝承されています。(詳細は、「黒木の木遣り歌・木挽き歌の披露(概要報告) ページを参照」) また、この歌の披露時に、黒木町の方が「木材の切り出し、運搬や木炭の運び出などしに馬と一緒に仕事していた」との話を私は聞きました。

 この時代(トラック、耕運機、トラクターなどがない時代)の農耕・運搬の主役は、馬でした。つまり、「農業・林業が盛んな地域」は、イコールで「馬の数も多かった地域」と言っても過言ではありませんでした。

 また、このように萱瀬には各郷(町)で馬が多かった関係からか、江戸時代や近代に建立された馬頭観音も市内8地区の中で多い(2014年3月現在の調査で11体)状況です。(一部を除き萱瀬地区にある馬頭観音の拓本作業、計測、写真撮影は完了。いずれ「大村の馬頭観音」シリーズに掲載予定)

 以上のようなことから萱瀬地区の (農業・林業・運輸業含めて) 農耕馬の頭数が多かったため、戦争中には軍馬として徴用されたのだと思います。

5)補足とまとめ
 萱瀬
の戦没軍馬慰霊像についての紹介は、先の項目までに書いた通りです。現在では、競馬場か若干の場所でしか馬は見られなくなってきました。そのような中で、馬に対して実感を込めて語るのは、一般にはなかなか難しいことになっています。

(イメージ写真)

 私の子供の頃は、馬は少なくなっていたとはいえ、萱瀬や福重地区の農家には、まだまだいました。今回もこのページを書くため、色々な方に聞いてみました。中には、かつて馬所有者の話として、「馬は賢くてなあ、酔っぱらって乗ったまま寝ていても、ちゃんと自分の家まで帰っていた。着いたら家内が馬小屋に入れるだけだった」との話もありました。

 このような話も含めて、改めて馬は家族同然でした。毎日のように寝食を一緒にするかのように育て、農業、林業、運輸業などの立派な働き手(共同作業者)でもありました。

 さらには、家の次くらいに大事な資産(財産)でもありました。このような状況下、飼い主にとっては、我が子同然の馬が戦争で軍隊に徴用され、外地で亡くなったのですから、悲しみが大きかったのは、戦後生まれの、この私でも少しは想像できます。

 萱瀬
の戦没軍馬慰霊像は、終戦後46年後の1991年9月29日建立です。このように相当期間経っても、かつて家族同然で過ごしたからこそ、建立された方々にとって、慰霊の思いが強かったのだろうと感じています。

 戦争は人的犠牲だけでなく、言葉で何も語ることもできない、当然戦地に何故いるのかも分からない馬たちも大きな犠牲者だったといえるのではないでしょうか。そのことも含めて、だからこそ平和への願いも込めて、この慰霊像は語っているように思えます。

 この萱瀬
の戦没軍馬慰霊像のある氷川神社は、国道444号線から直線で数百メートルもない距離です。しかも、大村市萱瀬出張所という目印にもなる建物の横(北側)にありますので、史跡巡り健康ウォーキングなどの機会に氷川神社とともに軍馬慰霊像も、ご覧下さらないでしょうか。そして、最後には、新鮮野菜やフルーツなどが販売されている「産直かやぜ」さん始め、産地直場所などでお土産を購入して頂ければ地域振興にもつながると思っています。

<追加文>
 既に上記項目「5)補足とまとめ」まで書いていますが、改めて、この萱瀬の戦没軍馬慰霊像や、その碑文を再度見て、感想の追加文を次に書いています。

生きとし生きるもの、戦争の犠牲になってはならぬ
 この像の建立趣旨は、上記に全文を書いている表面の碑文通りです。私は、この軍馬慰霊像碑文を見て、改めて思うことがあります。この像や碑文が訴えられておられるのは、馬の慰霊だけでなく、次の事柄もあるのではと解釈しました。

萱瀬の戦没軍馬慰霊像

 先の大戦のように、ひとたび戦争になれば、
 (1) 日本人だけでも300数十万という多数の犠牲者
 (2) 馬をはじめ動物の犠牲
 (3) 空襲では住宅、学校、工場などの建物や、さらには二度見ることができない貴重な書籍類までも燃やされてしまった、などです。

 これらは、決して、気の遠くなるような大昔の出来事では、ありません。日本の長い歴史の時間軸からすれば「たった80年前の、この大村で実際あったことばかり」です。とりわけ、人も動物も平和で天寿を全うするのは、誰でもやむを得ないことです。しかし、この像や碑文は、「生きとし生きるもの、戦争の犠牲になってはならぬ。平和が一番だ」とも訴えておられるようにも、私には思えました。

(初回掲載日:2014年2月23日、第2次掲載日:2月2日、第3次掲載日:2月25日、第4次掲載日:2月27日、第5次掲載日:2月28日、第6次掲載日:3月1日、第7次掲載日:3月4日、第8次掲載日:3月5日、第7次掲載日:2020年7月29日)

 
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