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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

菊池澄安の分霊碑

 概要紹介
掲載中
 1)熊本の菊池氏との関係について
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 2)分霊碑の大きさ、緯度経度など
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 3)碑文内容について
掲載中
 4)碑文などの感想
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 5)補足
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
菊池澄安の分霊碑(大村市三城町、三城城跡)

概要紹介
名称:菊池澄安の分霊碑<きくちすみやす の ぶんれいひ>
所在地:長崎県大村市三城町 (三城城跡)

 この菊池澄安の分霊碑ついては、「大村市の文化財」(2012年3月19日、大村市教育委員会・発行)98ページに詳細に書いてあります。今回、石塔の碑文内容や上野が作成しました碑文CG写真などの詳細は、後の項目に書きます。まずは、先の本から一部分を引用して菊池澄安の人物紹介関係から先に書きますと、次の<>内です。

  (前略) 菊池澄安は菊池武澄(たけずみ)の曽孫(ひまご)です。武澄は菊池武光(たけみつ)の兄で南北朝時代、征西将軍の懐良(かねなが)親王や惣領武光の命を受け、肥前国を押さえるため北朝軍と戦いました。子孫は代々肥前守と称し、肥前南朝軍の総大将だったと伝えられます。

 澄安は永享(えいきょう)5年(1433)3月27日に亡くなり、その子貞雄(法号)が跡を継ぎました。 菩提寺は、熊本県玉名市石貫にある永平寺末寺の広福寺です。
 14世紀末の南北朝合体によって、足利義満による室町幕府の権威が高まる中で、九州では南北両軍の対立が続いていました。澄安の死後永享6年に小倉宮の南朝再興の命令が下り、菊池氏・大村氏がこれに応じて挙兵しています。

 このような情勢が澄安の死後半年、その分霊を現忠霊塔がある丘にいただき、一山の首位にあるという尊号を奉って(たてまつって)お祭りしたのだろうといわれます。このように、南北朝から室町時代前期にかけての大村氏と菊池氏との深い関係を示す史料として、価値の高いものといえます。

 上記、「大村市の文化財」の引用文書の<>内でも、お分かりの通り、熊本県の菊池氏と関係の深い分霊碑(供養塔、石塔)であることが良く分かります。

1)熊本の菊池氏との関係について
 先に「大村市の文化財」(2012年3月19日、大村市教育委員会・発行)98ページから紹介しました通り、今回の菊池澄安の家系は歴代の菩提寺が、「熊本県玉名市石貫にある永平寺末寺の広福寺」にあります。その関係からして、今回の菊池澄安の分霊碑は、現在の玉名市の菊池氏と関係が深いものです。

菊池武光騎馬像(菊池市、ききち観光物産館近くの広場。2012年5月13日撮影)

 ただ、「大村市の文化財」でもお分かりの通り、「菊池澄安は、菊池武澄(たけずみ)の曽孫(ひまご)です。武澄は菊池武光(たけみつ)の兄」とも書いてあります。この菊池武光は、熊本県菊池市に立派な騎馬像があります。(右側写真参照。この騎馬像紹介文は後の方に書いている) 

 この菊池武澄(たけずみ)と、菊池武光(たけみつ)は、いくつかの国語辞典にも解説されている通り、南北朝時代に活躍した武将です。ここで、次の<>内に、国語辞典を引用して、二人の武将を紹介します。

  菊池武澄(たけずみ)=(?−1356) 南北朝時代の武将。 菊池武時(たけとき)の子。肥後(熊本県)菊池氏の一族。建武(けんむ)の新政の恩賞として肥前守(かみ)に任じられる。15代惣領(そうりょう)武光(たけみつ)をたすけ,懐良(かねよし)親王を肥後にむかえて九州南朝勢力の確立につくした。延文元=正平(しょうへい)11年6月29日死去。(日本人名大辞典より)

  菊池武光(たけみつ)=(?〜1373])北朝時代の武将。肥後の人。武時の子。征西将軍懐良(かねなが)親王を迎え、少弐頼尚(しょうによりひさ)・少弐頼国を破って大宰府を占領したが、のち、九州探題今川了俊に圧迫されて衰えた。(大辞泉より) 


 次に、右側写真を参照願います。これは菊池市、きくち観光物産館や、きくち観光協会近くにある菊池武光騎馬像(2012年5月13日撮影)です。 個人的なことながら、私は同市にある菊池渓谷が好きで写真ツアーに参加し、5回ほど行きました。その帰りに撮ったのが、右側写真です。また、この騎馬像の紹介について、きくち観光協会のサイトには、次の「」内のことが掲載されています。(この騎馬像のある地図、
その他のことを知りたい方は、下記の菊池武光騎馬像リンク先から参照願います)

 「 菊池武光騎馬像=今から約650年程前の南北朝時代の武将、第15代当主菊池武光公の騎馬像。 後醍醐天皇の御子である懐良(かねなが)親王を征西将軍に迎え、南朝方として室町幕府と戦い、一時は九州を平定するなど活躍しました。 菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像は、日本有数の大きさを誇り、騎馬像のある菊池市民広場は、市民や訪れる人々の憩いの場となっています。(きくち観光協会のサイトより) 

 以上の通り、今回の分霊碑の菊池澄安は、南北朝の頃、その名をはせた熊本の菊池一族と関係が深いものです。このようなことから、先の「大村市の文化財」の内容通り、今回紹介の菊池澄安の分霊碑は、「大村氏と菊池氏との深い関係を示す史料として、価値の高いもの」と言えるでしょう。

2)分霊碑の大きさ、緯度経度など
 右側1番目写真に写っています菊池澄安の分霊碑を計測した結果は、下表の通りです。ただし、この石塔は、上部が斜めになっていることでも。お分かりの通り、大きく欠けています。また、下部側も一部欠けたり割れたりしています。上野の推測ながら、上下とも欠けていなければ、たぶん長方形の石塔で、横幅は大きくは変わらないものの、高さの方は欠けていなければ80cm〜1m位はあったろうと考えられます。

 後の項目で、上部にある梵字部分をCG写真にして紹介しますが、この大きさからしても先の推測値は補足できます。そのようなことから、下表のサイズは、あくまでも現在見える範囲内の数値です。また、小型GPS計測した緯度経度は、その次の表の通りです。

菊池澄安の分霊碑の大きさ

 全体  高さ:63cm  幅:50cm  胴囲:1m23cm

菊池澄安の分霊碑、GPS実測値
 名称:菊池澄安の分霊碑  場所:大村市 三城町 (三城城跡)
 GPS実測値:北緯32度54分57.89秒 東経129度57分56.51秒  (国土地理院)地図検索用  32度54分57.89秒 129度57分56.51秒
 グーグルアース用数値:32°54'57.89"N,129°57'56.51"E  標高:GPS高度計は38m、気圧高度計は40m、地図上の標高は38.8m

 注:上記の大きさも、緯度経度も計測の仕方では、若干の差もありますので、数値は参考程度に、ご覧願いたい。

3)碑文内容について
 碑文の彫ってある石の全景は、右側1番目写真の通りです。(下記左側のCG写真全景です) この石には、縦書き3行の文字があります。しかし、この右側1番目写真だけでは、文字が分かりにくいです。2017年1月12日の詳細調査時、何回も実物を目視しても、1行目と3行目の文字は、一部を除きなんかと読めます。しかし、2行目は数文字が分かる程度で、多くは白いカビまたは藻(地衣類)みたいなものが、びっしり石に付いていますので判読しにくい状況です。

 それで、下記2枚、全体碑文を拡大したCG写真を掲載しています。このCGですが、精密デジタル写真を原版に、彫ってある碑文の線を目視できる部分は忠実に描いています。誤差は、ほとんどありません。しかし、白い地衣類のある目視で見えない部分は、拓本上の線も参考にしながら、さらに写真データのコントラス調整などもしながらCG線を引いています。


 なお、下記2枚のCG写真は、ホームページ掲載用画像のため粗いです。その点は、ご容赦願います。ご参考までに、CG原版(精密データ)の方は、A3サイズ用紙でも充分印刷できるくらい精密(高解像度)です。 次に、この碑文の活字化と、その現代語訳を注釈含めて書いていきます。

菊池澄安の分霊碑CG写真、全景
菊池澄安の分霊碑CG写真、碑文の拡大版

碑文の活字化と現代語訳
 
上記のCG写真から改めて文字解読をおこない、活字化したものが右下側の画像です。なお、念のため、碑文上部にある梵字は、省略しています。まず、右側の縦書き文字をホームページ用に横書き直しますと、次の太文字3行です。ただし、ホームページ用でない漢字もありますので、それは同じ意味の漢字に直しています。

菊池澄安の分霊碑活字版

    奉造立塔婆
 前菊池肥州澄安上坐分
 時永享五天癸丑十月七日


 上記の「注釈・補足」は、後の項目で書いています。先に全体通しての現代語訳をしますと、次の<>内と思われます。
   奉って塔婆(石塔)を造立(建立)した。(この石塔は) 前(父)菊池肥州澄安上坐の分(霊)(碑である)。 (石塔の建立)時(年月日)は永享(えいきょう)5年癸丑(みずのとうし、きちゅう)(1433)10月7日である。 

注釈・補足
(1)この分霊碑は菊池澄安の死後半年に、(その子が)建立したと言われている。

(2)中央(2行目)の先頭文字の解釈で、「前」は、この場合は「父」と思われる。「肥州」は「肥前国」のことである。「上坐(じょうざ)」とは普通、指導的立場の人を指すが、この場合は尊称的な意味であろう。「分」の下にも「霊」の文字があったと推測されているので、続ければ「分霊」となる。

(3)3行目の先頭文字は、現在の「時」と同じである。つまり、分霊碑の建立年月日と同じ意味であろう。

 *ご参考までに、三城城は、一般には「大村純忠が1564年(永禄7年)に築城した」みたいに言われている。しかし、この菊池澄安の分霊碑の建立年月日=「1433年10月7日」をご覧になれば、お分かりの通り、その築城よりも131年前に、この石塔は建立されている。さらに、この石塔以外にも、そのようなものが多くあるという。しかも、この石塔がある所は、三城城でも高い良い場所である。

 つまり、「大村純忠が三城城を1564年(永禄7年)に築城した」、ずっと以前から城みたいなものか、寺社か何なのかは別としても、何らかの形で、この丘が利用されていたこと示していると言われている。

4)碑文などの感想
 この菊池澄安の分霊碑を調査しての感想を、下記に箇条書き風に書いていきます。ただし、あくまでも上野の個人的感想ですので、その点はあらかじめ、ご了承願います。

菊池澄安の分霊碑梵字部分のCG

  (1)この石塔(分霊碑)の石は、石材の質としては普通と思う。

 (2)文字(碑文)部分は、掲載の写真でもお分かりの通り、文字自体も彫りも両方良くない。永享(えいきょう)5年(1433)=戦国時代の数十年前という年代を割り引いても、大村市内で江戸時代以前の石塔類では、出来の良くない方に入るだろう。

 (3)ただし、文字(碑文)に比較して、梵字及び円の描き方(彫り方)は、普通レベルである。 <注:CG写真は実物の石塔の碑文より、良く見せているので注意が必要だ>

 (4)梵字の意味や解釈について、「欠損が大きいので判断難しいが、ア、アクなどアの系統ではなか」とのアドバイスも頂いた。しかし、上野は現時点では、梵字そのものを全く分かっていないので、今回は書かないことにする。

 ただし、石本体が欠けているので何とも言えないが、石の大きさや下部の碑文サイズに比べて、梵字が大きいのが特徴ではないかと思う。(この時代のものとの限定付きながらも)私の大村市内で見た範囲内では、大きい方だと推測している。

  (5) あと、大村市文化財調査報告書 第29集 三城城範囲確認調査報告書(2005年11月30日発行)63ページに白黒写真で今回の菊池澄安の分霊碑が、「曲輪Uの石塔類」として紹介されている。この当時の写真は、碑文も梵字も鮮明に写っている。たぶん、肉眼でも確認できたであろう。しかし、現在は今回掲載の写真でも、お分かりの通り白いカビか、あるいは白く変色する現象か不明ながら、びっしりとこびり付いた状態だった。そのため、彫った文字が見えにくく、CG加工がやりにくい文字も5文字ほどあった。

菊池澄安の分霊碑CG写真、全景

5)補足
 
既に先の項目に書いていますので、この補足項目は重複内容になります。この石塔(分霊碑が価値あるものとなっていますのは、私なりに考えて、主に下記の2事項と思っています。

 この菊池澄安の分霊碑(建立年=1433年10月7日)は、
 (1)南北朝から室町時代前期にかけての大村氏と菊池氏との深い関係を示す史料として、価値の高いこと。
 (2) 大村純忠が1564年(永禄7年)に築城した三城城以前から、既に城、寺社など、何らかの重要な形で使われていた可能性があること。

などを示しています。しかし、上記2事項とも充分に解明されているかと言いますと、まだまだ不足があるとも思えます。とにかく、旧大村領は、戦国時代の天正2(1574)年、キリシタンによる徹底した他宗教弾圧事件(僧侶の殺害、寺社の破壊、略奪、焼き討ちなど)により、ほとんど何も古記録が残っていないため、なかなか研究が進まない状況もあります。

 しかし、この菊池澄安は、熊本県などとも関係がありますので、この方面から今後何らかの史料(資料)類が見つかる可能性もありうるかもしれません。そのようなことに期待しつつ、今後、関係する諸事項が分かれば、このページも追加、改訂したいと思っています。

(初回掲載日:2017年1月31日、第2次掲載日:2月2日、第3次掲載日:2月4日、第4次掲載日:2月8日、第5次掲載日:2月9日、第6次掲載日:2月10日、第7次掲載日:2月11日、第8次掲載日:2月12日、第9次掲載日:   年 月 日)

 
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