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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 野田古墳の天井石(農道開設記念碑)
 概要紹介
掲載中
 1)碑文内容について 掲載中
 2)記念碑のの大きさなど
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   緯度経度など
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 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。

(写真1) 元は野田古墳の天井石の正面(本体のみ)
<今は農道開設記念碑。裏面にも碑文あり>

概要紹介
 大村市野田町には、長崎自動車道(高速道路)に架かる高野橋(陸橋)があります。この橋の東端から南東方向へ約15mの所に、表面「農道開設記念碑 大村純毅書」と彫られた記念碑があります。(写真1を参照) 高さは、石垣・土台石・本体含め全体で、約3メートル(記念碑本体のみならば1m45cm)です。

 この本体の正面から向かって左側面(北東側)には、「昭和四十一年四月三十日建之」(1966年4月30日に、これを建てた)との碑文があります。また、本体裏面(南東側)には、「昭和三十九年十二月起工」(1964年12月から農道工事を開始した)と、「昭和四十一年三月竣工」(1966年3月に農道工事が完成した)との碑文もあります。

 つまり、「農道開設記念碑」は、先の碑文通り、1964年12月から約1年4ヶ月かけておこなった農道工事の完成記念碑ということです。この工事は、野田町の(道路になる)土地所有者の農家が土地も、労働力も提供して完成させたものです。先の内容からして通常ならば、本ページは、「農道開設記念碑」紹介ページとすべきところです。

・この記念碑は元・野田古墳の天井石だった
 しかし、この記念碑(本体)の石は、古墳に使われていた天井石の再利用されたものです。少し補足しますと、この記念碑の北側約200m以内に、かつてのミカン畑開墾工事と、その後の高速道路工事と2回に渡って合計5基ほどの古墳が出土しました。(詳細は、野田古墳」紹介ページ参照)

 そして、その野田古墳群は、高速道路建設時に移設保存などはされず、全部(全基)壊されました。しかし、この土地所有者の福重氏(既に故人)が、石の形が良くて、しかも平たかったためか、「野田古墳の天井石を農道開設工事記念碑にした」 「これからも、このことを伝えていって欲しい」と、上野へ教えて頂きました。

 つまり、この記念碑は、(上野調べながら)大村市内でも長崎県内でも、大変珍しい古墳の天井石を記念碑にしたものなのです。また、5基ほども出土した野田古墳群であっても何ら移設保存などがされず、全基壊されたので、今となっては、唯一その野田古墳を伝えるものでもあります。


(写真2) 元は野田古墳の天井石の裏面(本体のみ)
<今は農道開設記念碑。表面にも碑文あり>

1)碑文内容について
 この野田古墳の天井石から造られた「農道開設記念碑」の正面(表面、西側面)、左側面(北東側面)、裏面(南東側面)には、次の碑文が彫ってあります。ただし、(写真1、2)の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横文字(下記の太文字)に直して表記しています。

<正面(表面、西側面)>
農道開設記念碑
    大村純毅書

<左側面(北東側面)>
昭和四十一年四月三十日建之

<裏面(南東側面)>
昭和三十九年十二月起工
昭和四十一年三月竣工
総延長  一、三三一米突
事業費 六、〇〇〇、〇〇〇円
施行者 田中建設
     大平建設
施行委員長 今富正治
外   十九名
石工  中田一明
基礎  植田 要


・碑文の口語訳
 上記の碑文を補注も含めて口語訳しますと、次の青文字通りと思われます。なお、下記の<>や( )内などは、上野が付けた補足などです。なお、口語訳全体は、原文解釈を変えない範囲内で、分かりやすくするために少し改訂もしています。

 農道開設記念碑
 <揮毫
(きごう)は>(当時の大村市長の)大村純毅である。
 昭和四十一年四月三十日に之を建つ。<1966年4月30日に、これ(記念碑)を建てた>
 昭和三十九年十二月に起工。(1964年12月から農道工事を開始した)  (そして)
 昭和四十一年三月に竣工。(1966年3月に農道工事が完成した)
 総延長は1,331メートル。(この農道工事の総延長距離は1,331メートルである)
 事業費は6,000,000円。(この農道工事事業費は600万円である)
 (工事)施工者は田中建設と大平建設である。
 (工事)施行委員長は今道正治である。他に(施行委員、作業者は)19名である。
 (記念碑を彫った)石工
(石碑店)は中田一明である。
 基礎(石垣や土台石などの工事は)植田要である。

補足説明
 この農道開設記念碑は、1966年の建立ですので、碑文内容それ自体は分かりやすいと思います。あと、この碑文に書いていないことについて、これから補足していきます。まず、この当時「農道(後年、市道に昇格したので現在は市道)が、なぜ開設されたかという背景(状況)説明です。

(写真3) 元は野田古墳の天井石の裏面(全景)
<右側(東側)方向に防火用の地下貯蔵タンクあり>

 現在は、野田町含めて福重地区の農家では、例えば自家用車、軽トラック(または普通トラック)車やトラクターの所有は、普通に見られます。(先の台数以外にも乗用車ならば数台ある家もあり) ただし、このような自家用車やトラックが戦後直ぐに、どの農家も所有されていたかは、全く別です。

 戦後直後の農家では、馬・牛が活躍し、車や機械化はマダマダの状況が数十年間続きました。この当時は、農道なども、そう広くなく、馬が通る位(幅1m前後〜広くても2mもない状況)の道幅でした。しかし、その後に耕運機が登場してきました。この耕運機のエンジンは馬力もあり、田畑を耕すだけでなく、運搬用台車を連結することにより、現在の軽トラックみたいにして肥料・収穫物や様々な物資を運ぶことができました。しかし、従来の人馬が通る程度の幅の狭い道では、通行不可でした。

 このちょっとした耕運機ブームが到来したのは、大村では1960年代初期と思われます。そのことも含めて、大村市内では、モータリゼーションのはしりの時代になり、国道・県道・市道・農道などが平地を中心に拡幅整備されていきました。また、農家では、耕運機の次は、現在とほぼ同じような「自家用車・(軽)トラック・トラクターの時代」到来でした。

 そのため、平地だけでなく、中間山間地の農業地域でも、道路は、拡幅の必要性がありました。今回の(野田町にある)農道は、そのような背景(状況)の中で、道路が新たに開設されたということです。しかし、当時の大村市は、このような道路の新設(拡幅)の必要性を認識していなかったのか、はたまた農業地域の道路を無視したのか、いずれにしても全く、その工事予算を出さなかったということです。

 そのため、農道開設予定地の農家の方々(記念碑によれば20戸の農家)が、土地も工事費用(合計6百万円)も提供して、さらには作業(労働)もして、この総延長1,331メートルの農道を完成させたということです。当然、完成後の道路保全・補修作業も何十年間も地元負担でした。その後、市道に昇格して現在はアスファルト舗装の市道になっています。

 このように道も時代とともに変わっていきますが、この(当時)農道は、地元の方々の努力や苦労のおかげで完成したのは、まぎれもない事実です。

2)記念碑の大きさ、緯度経度など


 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください


まとめ


 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:野田古墳

(初回掲
載日:2019年5月1日、第二次掲載日:5月2日、第三次掲載日:5月5日、第四次掲載日:5月6日、第五次掲載日:5月15日、第六次掲載日: 月 日、)

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