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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 沖田郷の道路改修記念碑
 概要紹介
掲載中
 1)記念碑内容について 掲載中
 2)記念碑の大きさなど
掲載中
   緯度経度など
掲載中
 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
(写真1) 2009年12月29日
沖田郷の道路改修記念碑
(写真2) 拓本作業中の記念碑(2019年7月25日)

概要紹介
 この沖田郷道路改修記念碑は、彫られた碑文によれば「大正十四年四月」(1925年4月)に建立されたものです。建設当時の記録がないので、地元の伝承をもとに、これから書いていきます。念のため、場所を明らかにするため、先の大戦時に一時期あった海軍の草薙部隊(くさなぎぶたい)と、その同じ場所に戦後に開校した郡中学校敷地のことを何回となく記述しています。

図A:沖田郷中心の地図(<昭和13年(1938)頃の地図>
「昔の竹松」掲載の地図から沖田郷を中心にトリミングした)
(現在の郡中学校
赤枠線で、郡川水色で上野が彩色した)

 しかし、大正十四年四月」(1925年4月)当時は、当然のごとく先の草薙部隊郡中学校も全くない、田畑ばかりだった時代です。下図=「図A:沖田郷中心の地図」に図示した赤枠線(現在の郡中学校敷地)は、分かりやすくするために描いたものですから、あらかじめ、ご了承願います。

 この記念碑の元あった場所は、大村市立郡中学校の敷地の南西側方向にあったといわれています。そこから、様々な経過を経て、現在は、郡中学校の北側方向にある沖田氏の生垣にあります。

・記念碑の元あった道路は
 記念碑名称の道路は、どこの道路を言うのかです。この道路は、一説によりますと、現在、郡中学校の敷地西側の真横を通る道路周辺といわれています。。ここは、(現在の)郡中学校北東側の国道34号線から大村湾側を走る杭出津松原線(サンセット通り)まで長さ約800mで、一直線の2車線道路です。しかし、当然、この道は、最初から2車線ではありませんでした。

 また、先の郡中学校の敷地南側から、やや離れた所には1車線ながら沖田町から竹松方面に伸びる道路があります。今回の記念碑は、先の郡中学校の西側の道路と、同じく南西方向側にある道路の一部を改修した時のものと思われ、その二つの道路の交差した近くに記念碑が建立されたのではと推測されています。

(写真1) 沖田郷道路改修記念碑

・「改修」よりも新設の道路建設に近い工事だったのでは
 あと、この記念碑に彫られている道路改修記念の「改修」についてです。大昔からあった里道
(りどう)=赤道(あかみち)は、大抵の場合、せいぜい、人や馬が通る道幅(数10cm〜1m以下)でした。

 その狭い幅を馬車(荷車、大八車)が通れる位(2m強)に拡張したので、改修との碑文が彫られていると考えられます。しかし、この改修は、その名称通りではなく、事実上、(当時としては)新規の道路建設工事に匹敵するものとも推測されます。

 また、大正14年(1925年)は、重機もトラックもない時代で、全て人力での作業ですから、かなりの難工事で、費用もかかりました。費用がかかったことについては、記念碑下部に建設費用を寄付した人名や、その数からも分かります。

 そこには、当時の沖田郷11名を始め竹松村、松原村など合計23名の名前が彫ってあります。そして、その金額も当時の600円以上です。だからこそ完成時の喜びも大きく、このような道路記念碑が建立されたと思われます。

 その後、この道路は、「沖田街道」とも呼ばれたようです。そして、当時の沖田郷(現在の沖田町)だけでなく、近隣の町含めて、農業振興や地域発展に大きく寄与しました。戦時中、急にできた海軍・草薙部隊の建設により、この道路は一部変わりましたが、大枠においては、ほぼ変わらない状況のようです。

 念のため、先にも書きました通り、現在ある2車線道路は、さらに後の、近年になってからの工事でできたものです。


1)記念碑の内容について
 この項目を書くにあたって、「沖田郷道路改修記念碑の由来」(沖田秋徳氏が2019年頃に作成)の資料と、2019年7月25日に上野がおこなった拓本も参考に書いていきます。<右下側:(写真2) 拓本作業中の記念碑(2019年7月25日)参照>

(写真2) 拓本作業中の記念碑(2019年7月25日)
 まず、碑文の大きい文字だけを転記します。それは、次の太文字です。(右側拓本作業中の写真に写っている記念碑の上部側である) また、その現代語訳(口語訳)は、その下段「」内の青色文字で書いています。

 沖田郷 道路 改修記念 大正十四年四月建之

 現代語訳(口語訳:「沖田郷の道路改修記念碑、大正4年(1925)4月に之(これ)を建てた。(建立した)」
 
 この大きい碑文のある下段には、小文字で道路工事にあたって寄付した人の氏名及び金額、さらには建設委員の氏名が彫ってあります。その人数を先の資料を引用して、村・郷(町)別に書きますと、次の<>太文字通りです。ただし、見やすいように漢数字は、アラビア数字に変えたり、一部補足や省略もしています。

 (福重村の)沖田郷11名竹松村5名松原村2名福重村3名長崎市2名総員23名。 建設委員4名。 寄付金総額605円 >

 ご参考までに、上記の寄付した方々で、沖田郷(町の人は現在も、ご子孫が沖田町に在住され、上野も知っている方が多いです。また、ここからは私の推測ながら、寄付者で「竹松村5名」と人数が多いのは、この道路が単に沖田郷(町)内だけでなく、一部において福重村・沖田郷と竹松村の境界で、竹松側へつながる道路も一緒に改修工事がなされたからと思えます。

 あと、他の福重村・松原村・長崎市(在住)の氏名の方は、沖田郷の出身者(親戚)や、その地域の有力者(裕福な方)と推測されます。いずれにしても、多くの寄付者のご厚志(寄付)によって、この道路工事は完成したものです。だからこそ、この記念碑も建立されたのでしょう。

2)記念碑の大きさ、緯度経度など
 沖田郷道路改修記念碑大きさ緯度経度などは、下記二つの表通りです。この記念碑の全体状況は、このページ掲載の(写真1、2)を参照願います。

沖田郷道路改修記念碑の大きさ

 全体  高さ:90cm  横幅:57cm  奥行:cm  胴囲:1m50cm

沖田郷道路改修記念碑の緯度経度(GPS実測値)
名称:沖田郷道路改修記念碑  場所:大村市 沖田町(個人宅の生垣)
GPS実測値:北緯32度57分31.46秒 東経129度56分34.58秒  (国土地理院)地図検索用 
グーグルアース用数値:32°57'31.46"N,129°56'34.58"E 標高:地図上では8.6m


まとめ


 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:]


(初回掲
載日:2019年7月29日、第二次掲載日:8月11日、第三次掲載日:8月12日、第四次掲載日:9月8日、第五次掲載日:9月19日、第六次掲載日: 月 日)

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