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福重郷土史同好会
2007年の活動報告(6)

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旧・長崎街道 鈴田峠(歴史の道百選)
籠立場(かごたてば)
硯石=弁慶の足跡石(大村藩と諫早藩の境)
風観岳の三角塚
福重郷土史同好会・史跡見学
日時:2007年5月26日10時00分〜14 時50分
場所:歴史の道百選の旧・長崎街道、鈴田峠=(街道跡、籠立場、硯石=弁慶石、藩境石など) 風観岳(236mの山、藩境石、など)

主な見学順路:
福重住民センター集合、出発  → 中里町へ
・鈴田峠の登り口と坂道
・平坦な道
・籠立場

・旧長崎街道鈴田峠の案内板
・硯石(弁慶の足跡石)

・風観岳(藩境石、角塚、丸塚など)
・諫早方面への下り坂の一部
・大神宮
(鈴田峠農園、直売所)
  → 福重住民センターに到着。(終了)

参加者:10名

1)鈴田峠
 まず、鈴田峠の坂をゆっくり登った。約100m登り切ると高圧電線の真下当りに開けた道があった。そこからは平坦な道になっていた。この鈴田峠の平坦な道は、この後、ほぼずっと諫早との境まで続いていた。また、野鳥の鳴き声が聞こえるばかりの静かな大変いい道だった。

2)籠立場
 旧・長崎街道の道と一体となって、そこから石垣が縦約4m、横約5mと突き出している所があった。ここは、江戸時代大名などが籠(かご)をたてかけで、休憩した場所と言われている。

 ただし、一説に寄ると坂道では、大名でも実際は籠には乗っていなかったと言う。なぜなら、籠を担ぐ方も大変だが、乗る方も傾斜になってしまって乗りにくいため、歩いた方が楽だったと言う解説である。

3)旧・長崎街道、鈴田峠の案内板
大村市教育委員会が設置した『旧・長崎街道鈴田峠』の案内板があり、分かりやすい説明が書いてあった。

4)元・大村藩、諫早藩の境の硯石(弁慶の足跡石)
 案内板横が大村市と諫早市の境(昔は大村・諫早両藩の境だった)である。ここに右写真の通りの硯石(=弁慶の足跡石とも言う)があった。 弁慶の足跡みたいに見えるところは目算で長さ50cmくらい、幅20数cmはあろうかと言うビッグサイズだった。

5)風観岳と藩境石
 硯石から東側方面に百数十メートル行くと風観岳(236m)周辺となり、ここには藩境石がいくつも点在していた。藩境石とは、大村藩と諫早藩の境界を示す石である。藩境石には角塚と丸塚がある。

 丸塚は大村藩側が石垣を丸く築いたものである。角塚は諫早藩側が三角形に築いた石垣である。最大の角塚は一辺が目算で3m位、高さが1m50cm位だった。このような丸塚、角塚の藩境石は現在でも至る所にあるが、開発その他で段々と数が減ってきたと言う。

 あと、最大の角塚のある所から200m南東側方面に行った所に開けた場所があった。そこには高さ2mくらいの門柱みたいに見える石があった。この石は元々「藩境石」で硯石の傍にあったものである。文字は明治時代に削り取られているが、「従是東佐賀領」(ここより東は佐賀領)と書かれいて、今でもかすかに分かる。また、この周辺は、大きな平らな石が多くあった。

6)諫早方面への坂道(下りの一部を見学)
 硯石から100m近く歩くと、この諫早方面への下り道なる。この道は廻り木々の林に囲まれて道には落ち葉が沢山たまっていた。(下らずに引き返してきた)

7)大神宮(鈴田大里町)
 
急な階段を登ると鈴田地区が一望できる見晴らしの良い境内に入った。この所は以前は古松権現(こまつごんげん)があり、明治時代初めに鈴田岸高の伊勢山にあった神社が、ここに移され現在は「大神宮神社」になったようである。

(報告書は、以上)
掲載日:2007年5月29日
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