最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
福重郷土史同好会
2019年の活動報告(1)

目次ページに戻る
(写真1) 竹松遺跡、大型建物跡の現地説明会(JR大村線の新駅などの予定地) (奥右上側:1番目の説明場所)
(写真2) 奥左側:2番目、同右側:3番目の説明場所
(写真3) 2期建物跡(四面廂) (掲示パネル写真より)
(写真4) 大型建物の模型(や柱の形状が良く分かる)
(写真5) 柱穴跡(平石)

竹松遺跡で発見された大型建物跡について現地説明会(概要報告)
日時:2019年1月19日13時20分~15時00分
参加:目算ながら約130名
(見学者約110名、主催者・関係者約20名)
場所:竹松遺跡発掘調査現場
(県立ろう学校道路向い奥、大村市宮小路3丁目)
主催:大村市教育委員会・文化振興課

主な内容など

 この竹松遺跡の大型建物跡について、1月11日、県内の各テレビニュース、その後の新聞報道などにより、地元周辺では話題になっていました。そのようなことから発掘もしていない私へも、事前に数件の問い合わせがありました。今回の現地説明会で、写真撮影だけでもしてみたいと思って行ってみました。

 当日配布された資料は,、大変分かりやすいのですが、最後に「転載は御遠慮を」と書いてあります。そのため、報道各社の伝えた事項も参考にしつつ、現地での説明内容で私の覚えている一部を不十分ながら、ご参考までに順不同で下記に書いていきます。正確かつ詳細内容は、必ず配布資料を参照願います。まず、説明時に何回も聞いた「
(ひさし)」についての用語解説を大辞林を引用して下記「」内を書いています。

・用語解説、「
(ひさし)=(1)建物の外壁から差し出した、日光・雨などを防ぐための小さな片流れの屋根。のき。  (2)寝殿造りなどで、母屋もやの外側に付加された細長い下屋げや部分。その外に簀すの子縁を設ける。広縁。ひさしのま。のき。」

現地説明会内容(概要)
 (1) 大型建物跡の規模は、床面積が100平方メートルを超えている。

 (2) 建物の年代は、11世紀末頃から14世紀頃にかけて同じ場所で建て替えられた建物の跡であろう。それは、柱穴周辺から出土した中国産の陶磁器の年代から特定できた。また、建物の年数は、60年間から最大で100年間位だったと思われる。

 (3) 3期
(1期、2期、3期)の建設工事(改築は2回あった)が、分かる建物跡である。(配布された図面では黄色が1期、赤色が2期、青色が3期)  その建物の広さ(床面積)は、1期が約83㎡(51坪)、2期が約120㎡(74坪)、3期が約104㎡(64坪)である。

 (4) その柱穴の大きさ(直径)は、1期が約70cm、2期が約100cm、3期が70cmと違っていることが分かる。

 (5) 柱穴に石があるのは、建物の高さ調整と、柱を腐りにくくするためだろう。(写真5と、写真6を参照)

 (6) 四面廂
(しめんびさし)=建物の4方向に(ひさし)がある構造の建物跡が発見されたのは珍しく、旧・肥前国(佐賀県・長崎県)では最大と思われる。

 (7) なぜ四面廂をつけたのか、それは格式を高めるためだろう。その例は、寺院や貴族の館(屋敷)に多い。

 (8) 四面廂の端っこ(4隅)の柱穴周辺は、ほぼ四角形になっているのが特徴だ。(写真6を参照)

 (9) 建物主や性格について、文献などの裏付けがないので今後も調査研究が必要ながら、おそらく竹松遺跡周辺にあった荘園を管理した豪族の居館だったのではないかと思われる。この周辺には、かつて仁和寺の荘園などもあった。

 (10) 出土した中国陶磁器は、11世紀から14世紀初頭のものと解説文付きで展示してあった。(写真6・7・8参照。なお、陶磁器が大型建物跡の柱穴から出土したことにより建物の年代測定の決め手になったとのこと)

(写真6) 四隅の柱穴跡 (写真7) 11世紀後半~12世紀前半の白磁椀(福建・江東産)
(写真8) 12世紀中頃~12世紀後半、左側:青磁椀(龍泉窯系)
右上側:青磁椀・皿(同安窯系)、右下側:白磁椀
(写真9) 左側:13世紀中頃~14世紀初頭、白磁皿
13世紀前後~13世紀前半、青磁椀(龍泉窯系)

上野の感想など
 今回の竹松遺跡の大型建物跡についての現地説明会は、その対象物の規模も当然、目を見張るものがありました。同時に今回、大村市文化振興課はじめ関係者の皆様が本当に良く準備されたことが、第一印象に残りました。4人の説明担当者の丁寧で分かりやすいお話、一目瞭然
(いちもくりょうぜん)の配布資料、テント内にあった大型建物の模型、中国陶磁器や写真などの展示も含めて、高評価でした。

 ここで、私にも問い合わせが事前に数件あった質問(主に2点)ついて、答えておきます。それは、頭に「竹松遺跡から大型の建物跡が出てきたから」、それで、Q1:「古代肥前国の役場跡(彼杵郡家・郡衙跡)ではないのか?」 、 Q2:「昊天宮に近いので、この神社と関係あるのではないのか?」などです。このQ1と、Q2の答えは、上記項目の「(9) 建物主や性格について」で書いています説明者のお話通りでしょう。

 なお、私は発掘経験もありませんし、考古学を詳細に研究したこともありません。しかし、考古学は、ある意味、何か目的・目標を持って最初から答えを出すものではないと思います。遺跡も遺物も、場所も年代も幅広く、奥深く、長期間にわたって辛抱強いほどの積み上げ算でやっていくものと想像しています。

 今回の竹松遺跡全般も同様のことが、いえるのではないでしょうか。また、歴史事項は、単独の地点や事項で存在するのではないため、関連のある周辺地域の発掘や研究も進まないと、その当該遺跡の全体像さえ見えてこないような気もします。  (以上)

・関係ページ:「彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり」   「
彼杵郡家(そのぎぐうけ)=彼杵郡衙(そのぎぐんが)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった (彼杵郡家ー彼杵郡衙の位置や役割を考える)


最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク