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福重の名所旧跡や地形
大神宮(今富町)  場所:大村市 今富町
中央部左側は大神宮の本殿、右側は(ご神木の)石割樫(いしわりがし)
 この大神宮は、『大村郷村記』によると1542(天文11)年、大村純前が今富城内に建て、その後尾崎(現在の今富橋近く)に移されたといわれます。その後、1574年にキリシタンに破壊された後、江戸時代の1671年に現在地(冷泉寺)に再建されました。

 1892(明治25)年に火災に会い、1933(昭和8)年に社殿を建替えました。草場の松尾神社とともに1874(明治7)年に福重村の氏神となり、松尾神社と1年交代で宮日を行っています。

名称について
  この今富の大神宮の名称文字について、鳥居など一部には、「太神宮」(だいじんぐう)と書いてあります。しかし、現在、地元の書き方として大神宮です。さらに大村教育委員会発行の『大村市の文化財(改訂版)』にも同様に書いてあります。そのため、このページでも、大神宮の書き方で統一しています。

大神宮の紹介
 まずは、『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)46ページに書いてありますので、この本から引用して、下記<>内で紹介します。

<  今富町の北部にあり、明治7年に松尾(まつのお)神社とともに福重村の氏神(うじがみ)となり、村が合併し福重地区となった今でも氏神として祭られています。 大神宮は天文(てんぶん)11年(1542)大村家17代(注1)純前(すみあき)が、今富城内に建て、その後南方の尾崎(注4)に移したと伝えられています。

 天正(てんしょう )2年(1574)キリシタンにより壊されましたが、江戸時代になり、寛文(かんぶん)11年(1671)長崎沖右衛門が、多羅山宝円寺(たらさんほうえんじ)の法印尊盛(そんじょう)を導師として現在地に再建されました。さらに明和5年(1768)、寛政2年(1790) と建て替えられ、天保7年(1836)には宝円寺法印寛保により修復法要が行われています。

  江戸時代の最後の頃は神体は木立像彩色であり、神殿・拝殿ともに茅ぶきで、 境内は195坪(約640u)ありました。明治25年火災にあい、仮殿のあと昭和8年に建て替えられたのが今の社殿(注2)です。神殿は約1.8m×2.7m、 拝殿は約4.5m×約8.1mの瓦ぶきで、境内は約1,090uあります。

  一の鳥居は大正10年、二の鳥居は元文4年(1739)建てられています。 10月15日の祭り(注3)には松尾神社と交代で、相撲などの奉納が行われます。


(注1):「大村氏系図」は「初代」から大村純忠より数代前まで江戸時代、大村藩の創作(偽装)と言われている。そのため「大村家17代」とか「18代」とかの代数表示自体が間違いである。「初代」から大村純治以前まで、その存在を示す事績さえもないと言われている。ただし、江戸時代、大村藩主の代数で、初代藩主、二代目藩主、三代目藩主と表示するのは正確である。<参照:大村の偽装の歴史や表現一覧表など江戸時代に偽装され大村氏系図

(注2):現在の社殿は、大神宮内にある板碑によれば、平成17(2005)年10月に大改築がおこなわれたものである。
(注3):
祭りの日(宮日、おくんち)は、現行では草場町にある松尾神社と隔年交代で10月の日曜日に開催され神事や子ども相撲大会がおこなわれている。

(注4):尾崎の読み方は濁音ではない清音の「おさき」である。ここは佐奈河内川(さながわちがわ)西側の尾根上で尾崎城(本丸、二の丸、三の丸の城郭、伝承で今富氏の居城だったと言われている)があった付近である。

大村郷村記の内容
  大村郷村記(藤野保編)には、今回の大神宮のことについて第二巻、(福重村の項)119〜120ページに書いてあります。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。下記の太文字が、大村郷村記からの引用です。

冷泉寺
一 大神宮 
(神躰木立像彩色 例祭九月十一日) 宝円寺勧請 氏子中祭之
   神殿 七尺ニ 壱間 萱宇
   拝殿 弐間半ニ 三間 萱宇 石鳥居 弐基
  境内入拾五問横拾三間程
当社は往古今冨城にあり 其後同所南の尾崎に遷座す 寛文十一辛亥年長崎沖右衛門此地に奉遷座導師多羅山法印尊盛  明和五戊子年二月四日再建供養導師宝円寺九世権大僧都寛海 天保七丙申年三月廿日修覆供養導師宝円寺十三世法印寛深


・現代語訳
 上記の大村郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。( )内は、上野の補足や送り仮名などです。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

 < 冷泉寺(にある)大神宮 御神体は木製の彩色された座像である。例祭は(毎年)9月11日に宝円寺に来てもらって氏子で祭っている。 神殿は奥行き2m12cm、横幅1m82cmで萱(かや)ぶき屋根である。拝殿は奥行き4m55cm、横幅5m45cmで萱(かや)ぶき屋根である。石の鳥居が2基ある。境内(敷地)は奥行き27m27cm、横幅23m63cmほどである。

 当社(太神宮)は昔、今富城にあった。その後、同所(今富村の)尾崎(おさき)(注4)に遷座した(引っ越した)。寛文11辛亥(かのと い、しんがい)年(1671年)に長崎沖右衛門が この地(現在地=冷泉寺)に多羅山(宝円寺住職の)法印尊盛(そんじょう)を導師として遷座した。 明和5戊子(つちのえね、ぼし)年(1768)年2月、宝円寺第9代(住職の)権大僧都寛海を導師として再建された。天保7丙申(ひのえさる、へいしん)年(1836年)には宝円寺第13代(住職の)法印寛深を導師として修復され法要が行われた。  >

(注4):尾崎の読み方は濁音ではない清音の「おさき」である。ここは佐奈河内川(さながわちがわ)西側の尾根上で尾崎城(本丸、二の丸、三の丸の城郭、伝承で今富氏の居城だったと言われている)があった付近である。

------------(下記の原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい)-----------

補足

 (この原稿は、準備中)

(初回掲載日:2005年6月29日、第二次掲載日:2012年7月1日、第三次掲載日:2012年7月3日、第四次掲載日:2012年7月4日)



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