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福重の名所旧跡や地形

白水寺跡(皆同町)
白水寺跡(はくすいじあと) 場所:長崎県大村市 皆同町
 この『白水寺跡(はくすいじあと)』の所在地は、大村市皆同町の字「城の前」にあります。現在、畑及び松本さん宅周辺になります。

 下記に(大村)郷村記と『大村市の文化財』を引用して書きす。あと今回、白水寺のことを「はくすいじ」と呼称を統一していますが、古い案内板には、<この土地では、「はくせんじ」と呼んでいる>とも書かれています。
 

(左写真:上部及び右方向が、白水寺跡周辺。中央はその案内板)



  白水寺跡について、まず(大村)郷村記(大村郷村記、1982〜1987年 藤野保氏発行 )から引用致します。下記の 内が、その文章です。(注:文章は全文続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています) ただし、ご参考程度にご覧願います。また、文字を置き換えているのもありますので、引用や参照などは必ず原本から願います。

 「一 白水禅寺蹟
今富村白水寺と云処にあり 創立の時代不知 寺領拾石八斗七舛七合と云 則郡七山の内なり 此寺内に丹後守純前の墓所 天文二十丁亥年六月十五日卒於 聖宝寺境内火葬埋白骨干当寺あり 然るに天正年中耶蘇の徒蜂起して堂宇を破却し墓を発き白骨を郡川に流すと云 丹後守純信代正保四丁亥年五月二十二日其跡に一間四面の堂を建立し純前を観世音と尊崇す 今の千手観音是なり

 石祠の側には注連張りし竪五尺横三尺五寸の石あり 姫墓と申伝候よし 又境内脇田の中に船繋石と申伝の石三本 内壱本高サ六尺壱寸横壱尺七寸同壱本高サ四尺三寸横壱尺五寸同壱本高サ四尺四寸横壱尺七寸あり 往古此辺まて船往来せしよし云伝ふ  

 上記が(大村)郷村記の関係記述です。私は通常なら、ここから上記を現代風に口語訳するのですが、(大村)郷村記を参照されて書かれた『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会、2004年3月16日発行)が、分かりやすいので、今回は、この説明文章をご参照願います。次の の通りです。ただし、念のため、(大村)郷村記の記述内容は、毎回私は書いていますが、一部において常に真偽の問題がつきまといますので、ご注意願います。この件を全部書きますと膨大な文章量になりますので、今回は の後に極簡単な上野注1〜4だけを書いています。

 皆同町の現松本氏宅付近にあった禅宗の寺院でした。郡七山十坊の一つで創立の時期は不明です。郷村記によると「平安時代後期には寺名があり、寺領は 10石8斗余り」となっています。 境内は天文20年(1551)に亡くなった大村家17代純前(すみあき)の墓所で、火葬であったといわれています。

16代純伊の墓も福重屋敷にあったといわれているので、この近くだったと思われます。ところが、天正2年(1574)キ リシタンによって壊され、墓は掘りくずして、遺骨は郡川に流されたと伝えら れています。 江戸時代になり、正保4年(1647)家老大村彦右衛門がその跡に1間(1.8m)四方の堂を建て、千手観世音を祭り、観世音菩薩と崇め、享保18年(1 733)に再建されました。

文政11年(1828)大風で堂が倒れたので、 翌年、石祠が建てられました。幕末の境内は奥行15間(約27m)、間口8問(約14.5m)で、外に畑や屋敷が3畝約300u)付いており、金色の木 製立像を祭ってありました。 今の仏像は金色の金属製の立像で、石祠の側には姫墓と伝えられる大きな自然石・古い石灯籠・手水鉢(ちょうずばち)・五輪塔墓石などが残っています。また南方水田を へだてて今富町丘の下に、この寺の住職などの墓があります。     

(注意書き)

上野注1:「大村家17代」とか「16代」とかの表現は、初代から大村純治頃まで全て江戸時代、大村藩の創作(偽装)のため架空の代数であり、そのため代数を表示すること自体が間違いです。初代から大村純治以前まで、その存在を示す事績さえもないと言われています。ただし、江戸時代、大村藩主の代数で、初代藩主、二代目藩主、三代目藩主と表示するのは正確です。

上野注2:「16代純伊」は、郷土史の先生方によっては、佐賀から来た大村純治と同一人物(大村純治から「大村純伊」に変名したなど)と言われています。

上野注3:ここにある「船繋石(ふなつなぎいし)」の件は、既に掲載中の「舟つなぎ石」紹介ページを、ご参照願います。このページ上部写真が、白水寺跡近くにある「船繋石」です。

上野注4:最後に「今富町丘の下に、この寺の住職などの墓があります」と書いてありますが、この墓は白水寺跡を向いています。大村純忠の許可を得てキリシタンは、大村領内全体でも、この福重でも神社仏閣の焼き討ち、略奪、仏像の破壊、僧侶阿乗の殺害、大村家の墓をあばき骨を郡川に流したなどをおこないました。地元の伝承ながら、「なぜ、墓は白水寺を向いているかについて、それは最後までキリシタンに恨みを持っていた」、あるいは「元の場所(白水寺)に戻りたかったのだろう」と伝えられています。

(掲載日:2010年8月6日)


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