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長崎街道の内、福重往還道
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福重のあゆみ、江戸時代
長崎街道内の福重往還道 はじめに
はじめに
 私は、2003年11月から20004年3月まで開催されていました福重郷土史講座に参加していました。(この講座内容の詳細については、ここからご覧下さい)この時、江戸時代に長崎街道が発達し、当時の福重村にもこの街道筋が通り、重要な役割を果たしていたことを知りました。

 この『長崎街道内の福重往還道』のページは、この福重郷土史講座で頂いた資料と講演内容さらには2003年3月(初版)と2004年3月(改訂版)に出版された『福重のあゆみ』(福重地区町内会長会・発行)をもとに作成しています。

 地名呼称について、このページ以降、江戸時代の名称の通り、旧・福重村は福重村、旧・竹松村は竹松村、旧・松原村は松原村と書いています。小字(こあざ)も同様です。好武城(よしたけじょう)、今富城(いまどみじょう)は、江戸時代に入り既に廃城になっていましたが、地図上ではその城跡として記しています。福重村と松原村の庄屋は江戸時代は存在しましたが、地図上は同様の扱いとしました。

      <長崎街道内の福重往還道とは>
 まず、江戸時代には、江戸と地方を陸上路で結ぶ五街道=東海道、中山道(中仙道)、甲州街道、日光街道、奥州街道が発達しました。当然、海上交通も大坂と江戸間を始め多くの海運が営まれていました。

 その五街道とさらに各藩を結ぶのが、脇街道=脇往還でした。この脇街道の筆頭とも言えるのが、大坂と小倉間を結ぶ中国街道(中国路)と、小倉と長崎を結ぶ長崎街道(長崎路)でした。

 当時の長崎は、幕府直轄地(天領)で中国やオランダと貿易を交わしていた長崎港がありました。この長崎港に運ばれた諸外国の人、物、情報などはそのほとんどが長崎街道を通り、江戸に送られ、そのまた逆も当然運ばれていました。

 そのため、長崎街道は五街道にもひけをとらないほどの重要性があり、整備もおこなわれ、また、発達もしました。距離は長崎から小倉まで、約220kmあり、小倉から佐賀あたりまではほぼ同じ街道でした。

 それからは有明海沿いを諫早(いさはや)、長崎へ行くルート、嬉野の山越えをして陸路で彼杵(そのぎ)、大村、諫早を経て長崎へのルートと、また、彼杵から船に乗り時津に向かいその後長崎に至る海上ルート(当然どのルートも往復の街道です)などがありました。

 長崎と彼杵間は、陸路よりも海路が多く利用されていたようです。彼杵と時津間は天候さえ良ければ山越えを繰り返す陸上ルートより、波静かな大村湾ルートが楽だったと思われます。

 この長崎街道を通った人のなかには、記録が残っている、いないはありますが、蘭学者、幕府・各藩のお役人、文化人、シーボルトを始めとするオランダ商館の人、中国人、商人、幕末の志士、さらには旅目的の人々など、多士済々の顔ぶれだったでしょう。人だけでなく、象やラクダの通った記録も残っています。

 その長崎街道の内の一部で福重往還道があります。その位置は、竹松村の境から松原村の境までの福重村内を通るもので、距離は約1850メートルでした。現在の国道34号線とは、少し違うルートです。

 竹松村との境は、現在沖田町の大村市立郡中学校と、竹松側の宮小路町にある長崎県立虹の原養護学校にある小川を指しています。(今回は、この竹松村の境あたりから、後5ページに分けて現在の写真を掲載しながら長崎街道内の福重往還道を紹介する予定です)

 松原村(松原宿)との境は、現在(江戸時代に庄屋があった所)の松原小学校手前にある石走川(いしばしりがわ)下流の「よし川」です。福重村内には、長崎県で長さ第4位(約16km)、幅約65mの郡川(こおりがわ)もあります。江戸時代、この川には橋が架かっていなくて伝石(飛び石)でした。この郡川の飛び石が珍しかったのか、シーボルトは同行の絵師に川渡しの状況を描かせています。(後のページで、紹介する予定です)

 以上が、長崎街道・福重往還道の概略です。ひょっとしたら、歴史の教科書にも登場しているような有名な人物が、私たちが日頃見慣れている福重の道路(=元の長崎街道)を江戸時代に通り、その人たちが伝えた重要な情報などで日本の歴史上も大きな役割を果たしたかもしれないですね。(掲載日:2004年9月19日)

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