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大村の馬頭観音

八幡の馬頭観音
八幡の馬頭観音

八幡の馬頭観音のデータ

 (1)石仏名称 八幡の馬頭観音(やわた の ばとうかんのん)
 (2)所在地 大村市黒丸町、個人所有地<市道(歩道)の直ぐ横>
 (3)本体の大きさ 高さ56cm、横幅36cm、胴囲65cm
 (4)土台石の大きさ ・上部:高さ33cm、横幅23cm、周囲89cm
・下部:高さ21cm、横幅37cm、周囲157cm
 (5)制作年代 土台の碑文には、「明治十三年十ニ月一日」 <明治13(1880)年12月1日)>と彫られている。
 (6)主な特徴  (基本形は)三面八臂(さんめんはちひ、さんめんはっぴ)
 (7)特徴点の補足 本体と二つの土台も含めて全体が高い。
 (8)感想、その他 市道(歩道)から良く見える。全体が高いためかスマートな馬頭観音である。一部摩耗が見られるが保存状態は良い。

(大村)郷村記:上表の制作年代でもお分かりの通り、明治時代の建立のため、江戸時代に編纂された(大村)郷村記に記述はない。

<注:左側写真は八幡の馬頭観音本体と上側の土台である。さらに、この下側にも土台がある>

<補足説明>
 上のデータ表にスペースの関係上、書けなかったので碑文について補足する。右側の写真は、馬頭観音本体を除く土台部分(ただし拓本作業中)である。ここに、次の「」内(太文字)碑文がある。実物は全て縦書き文字であるが、このページでは横書きに直している。そのため、一部違っている点があるが、解釈は同じなので、ご了承願いたい。

 土台上部正面「馬頭観世音」、土台上部左側面「明治十三年十ニ月一日」、土台下部正面「馬場 八幡 南上下 郷中 世話人 柿内米蔵」、右側の花立ての正面「岩永ツノ」、左側の花立ての正面「山口吉次郎

 上記の碑文を分かりやすく口語訳すると、次の<>内の解釈であろう。ただし、( )内などは上野の一部推測含めた補足である。 (全部を続けて読むと)馬頭観音を明治13(1880)年12月1日に(竹松村の)馬場郷、八幡郷、南郷の上と下の郷民(町民)で建立した。世話人は柿内米蔵である。岩永ツノと山口吉次郎は(建立時に別途多く)浄財を寄付した。 

  この馬頭観音の名称は、便宜上、八幡の馬頭観音としているが、実際は上記の口語訳「馬場郷、八幡郷、南郷の上と下の郷民(町民)で建立」にある通り、かなり幅広い地域と多くの人によって造られたものである。

数奇な経過をたどり安置された八幡の馬頭観音
 この八幡の馬頭観音は、最初から現在の個人所有地にあったものではない。建立当初は、旧・竹松村馬場郷か八幡郷(現在の大村セラテック周辺を言う)にあったようである。戦前、1937(昭和12)年頃の旧・海軍航空隊の拡張工事にともない、この八幡、馬場周辺は大幅に変わったのであるが、その時に馬頭観音は引っ越しをせざるを得ない状況になった。(海軍航空隊があった一時期の移転先は不明)

 戦後、しばらくしてから竹松地区の皆様が米軍と返還交渉などのご努力をされ、航空隊跡地も元の農家に戻された、そして現在見られるような地域になっていった。しかし、戦前と比べ住んでいる人や地域状況の変化などもあり、当然、この馬頭観音も明治時代の建立当初の思いも変わっていった。

 同時に現在所有者の敷地内に他の五輪塔などの石塔群と一緒に、再度の移転となったようである。つまり、この八幡の馬頭観音は、海軍航空隊の拡張工事その他、止むを得ない事情があったが、先の通り数奇な経過をたどり現在地に安置されていると言う。大村の馬頭観音は数多いが、最も戦争の影響を受けたものの一体と思われる。

 現在は冒頭のデータ表にも書いている通り、この八幡の馬頭観音の場所は、道路(歩道)の直ぐ脇にあって分かりやすい。そのためか、所有者の方の話しによると「馬頭観音様は力を持っておられるのか、地元の方だけでなく、通りがかった人も含め手を合わせている姿を良く見る」とのことであった。この道路周辺を車で走行される場合、車上からでも直ぐに見えるので、その時には全体スマートな馬頭観音として目にとまると思われる。
 
(初回掲載日:2012年6月11日、第二次掲載日:2012年6月15日、第三次掲載日:2012年6月16日 )

馬頭観音の用語解説  

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