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大村の歴史
福重(松原)再分村運動の概略史

福重(松原)再分村運動の概略史
 注:
再分村運動とは、詳細は省略して極簡単に言えば、「市政合併後、再度、住民の意思で元の村に戻るための住民運動」である。

写真奥左側の山は郡岳、手前側は郡川(2005年12月5日撮影)

概要紹介
 この福重(松原)の再分村運動は、戦後間もない1948(昭和23)年に福重地区と松原地区で起こった住民運動です。その要因は、大村市政
(1町5村の合併、1942年2月11日)発足前、旧村の住民に説明していた内容が、終戦前後に全く違っていたことが起因しています。特に、21航空廠の空襲(大村大空襲)などにより、市街地は廃墟同然となり、失業者があふれる大村市とは一緒にやっていけないとの思いが、福重・松原地区の住民にありました。

 あと、戦後、日本に進駐してきた占領軍の政策=「戦時中に強制合併した市は旧町村住民の意思により、元に戻って良い」が、その再分村運動の引き金になったのも事実です。先の両地区住民による再分村運動に驚いた当時の大村市は、この住民運動を食い止めるため必死に両地区に対し説得をおこないました。結果、松原地区は止まりましたが、福重地区は再分村勝利の投票結果となりました。

 しかし、分村の独立は長崎県議会の承認が必要という間隙
(かんげき)をつかれて、(このことの詳細は後の項目を参照) 結果、福重の再分村は否決となりました。当時の大村市のとった行動は、住民自治の精神あるいは住民投票結果を尊重するならば、間違ったやり方でした。ただし、再分村運動を否決しても「市の財政難」は、解決しないので、考えられたのが大村競艇(大村ボート)の開設でした。

大村競艇史に記述されている再分村運動
 1989年3月、大村市役所から発行された大村競艇史
(編集者:大村競艇史編集委員会)という本があります。この本の21ページに、「第1章 第2節 当時の大村市 1、戦後の社会動向と大村市」の「市政存廃の危機」という項目があります。この記述に今回紹介の福重(松原)の再分村運動と、その次の何故、大村競艇(大村ボート)が誕生したかの経過などが詳細に出ています。

 この大村競艇史から福重(松原)の再分村運動と関係する内容を引用して、次の<>内に、紹介します。 ただし、ホームページの関係上、一部、改行その他を変えている場合もあります。閲覧者の中で引用される場合は、必ず原本から、お願いします。

< 市政存廃の危機
 大村市は,戦時中,旧海軍航空隊,第21海軍航空廠,陸軍大村聯隊の所在地として発展し, 昭和17年には1町5か村が合併して市政が施行された。 しかし,これらの施設は戦禍によりその大部分が壊滅し,また終戦により旧陸・海軍も 解体。大村市は市存立の基盤を失った。農業以外に他に産業を持たない市としては,軍の 崩壊は,市の解体にもつながるものだったのである。

大村「競艇発祥の地」記念碑(2018年6月7日撮影)

 果たせるかな,昭和23年,占領軍の指令により戦時中に強制的に合併した市は,旧町村住民の意志により,原状に復することが認められたため,大村市を構成する松原,福重の旧2か村が,率先して独立分離の意向を表明。市側の懸命の説得にもかかわらず,ついに 住民投票を決行した。その結果,旧松原村は分離派が敗れたが,旧福重村は分離派が勝利 し,この勢いは各地にも波及する恐れがあった。

  幸いにも旧町村の分離独立は,最終的に県議会の議決を要する。市は全力をあげて県と 長崎軍政府に対し,旧福重村の分離否決を陳情した。しかし,いずれも占領軍総司令部の意向をおもんぱかり進展をみないため,ついに最後の手段としてマッカーサー総指令部と 第8軍司令官に嘆願するに至ったのである。これにより計らずも市側の熱意が認められ, 総司令部からの指示により,長崎県議会において旧福重村の分離は否決となった。

  こうして,薄氷を踏む思いで大村市解体の危機はまぬがれたのであるが,軍崩壊後の大 村市存立の基盤を何に求めるか,また財政の窮乏を何によって補愼するかは,急迫する課 題であった。

市勢の窮迫
 市政存続の危機である。市当局は,市政を維持するため,①旧軍に代わる施設の誘致, ②財政再建のための特別対策,の必要に迫られた。 >  
(引用終了)


大村競艇史が語っていることについて
 この項目では、大村競艇開場ずっと以前の、つまり、1)大村市合併前の状況2)戦中や大村空襲の状況3)戦後の状況4)福重(松原)の再分村運動の起こった背景5)大村競艇開場などについて、大村競艇史や他の記録集(歴史史料)などをもとに書いていこうと思っています。

1)大村市政合併前の状況
 大村市政(1町5村の合併、1942年2月11日)発足前の旧の町や村の状況で、陸軍歩兵第46連隊や海軍航空隊は、既にありました。しかし、人口対比でも面積対比で考えても「大きな軍都」というより、農業地帯ばかりでした。その農業を中心とした産業あるいは経済状況は何も大村だけでなく、当時は県内でも全国各地でも一部の工業地帯を除けば同様でした。

 そして、その農業中心の町や村は、極貧とか失業者あふれる状況では決してなくて、むしろ穏やかな人口増が続きながら、牧歌調の雰囲気で生活できるものでした。ご参考までに、大村は天変地異も少なく、県下有数の穀倉地帯でもあり、江戸時代から近代まで餓死者などは出なかったと言われています。

第21海軍空廠周辺の概要地図<上図は「放虎原は語る」(1999年3月31日発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)に付いている地図である>

 そのような中で、海軍の方から急に持ち上がったのが、「第二十一航空廠」(航空機製造工場のこと)の開設計画でした。結果、第21航空廠は、昭和16(1941)年10月1日に開廠されました。古賀島、森園一帯の面積約217万㎡の敷地に、その工場や様々な建物が建設されました。

 
<右側画像は第21海軍空廠周辺の概要地図。だいだい色が第21航空廠関係があった所。詳細説明は省略するが他の場所にもあった。 「大村空襲、大村海軍航空隊、第21海軍空廠(講演概要)」ページを参照。 右下側は現在の長崎空港を示している>

 この時の工場用地取得方法は、事実上の強制でした。地域の証言として、「サーベル
(西洋風の軍刀)を腰に下げた憲兵が監視する中、印鑑を付かされた」状況でした。農家にとって、住む家も農地も失うことは、死活問題でした。さらに、同時に進んだのが、1町5村の合併(後の大村市発足)でした。しかし、この合併は、決して住民自ら望んだ訳ではなく、地域に伝わる話として、「大きな飛行機工場ができるから、町や村では恰好付かないので、(事実上の強制合併で)市に昇格を」みたいな言い方だったそうです。

 ここで上野が思うに、別段、工場建設だけならば合併しなくても町や村にまたがってもできたはずです。しかし、なぜ合併せざるを得ない状況に追い込まれたのかは、私の推測ながら今でいう様々なインフラ整備用の予算が、旧の町や村単位(個別)では、税収不足があったと思われます。

 つまり、21航空廠関係の水道、道路、住宅などのインフラ整備費用に合併後の大村市の予算が必要だったということです。そして、それは、当然のごとく旧の町や村の住民にしわ寄せがあったともいえます。このことは、後の再分村運動の主要因ともなっていく問題でした。


 (後半原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)



2)戦中や大村空襲の状況

(この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)


3)戦後の状況

(この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)


4)福重(松原)の再分村運動の起こった背景

(この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)


5)大村競艇開場

 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)


大村市政前の1町5村合併の口実は正しかったのか?


 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)


当時の福重地区住民の状況など


 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)



当時のことが現在も続く様々な状況など


 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)




補足



 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)




・関係ページ

 


(掲
載日:初回:2018年6月8日、第2次掲載日:6月9 日、第3次掲載日:7月29日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日)

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