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大村の歴史
大村市消防団・第11分団(旧・福重村の消防組、警防団)の概略史
福重村警防団第一第三分団員の一部(1941年10月頃)  福重村警防団第二分団員の一部(1941年10月頃)
大村市消防団・2018年の出初式、第11分団の行進(2018年1月8日撮影)

注:名称について、大村市消防団・第11分団は、1947(昭和22)年の発足当時から現在も同じである。しかし、このページで写真とともに沢山取り上げている警防団は、広辞苑の解説=「空襲に備えるため、消防組と防空を担当防護団とを統合した団体。1939年(昭和14)結成、47年廃止」でも分かる通り、一時期の用語である。旧・福重村には、その警防団以前の記録がないので、他の名称が不明である。そのことと併せて、戦前の消防組織と言えば、この名称が地元では定着しているため、このページでも用いている。私の推測ながら、明治時代から例えば「火消し」「消防」などの組織や名称は、様々あったと思われる。

大村市消防団・出初式(式典)<さくらホール、2018年1月8日>

概要紹介
 まず、「大村市消防団の紹介」ページによりますと、次の<>内のことが書いてあります。<大村市消防団は、昭和22年の発足し、「自分たちのまちは自分たちで守る」という「郷土愛護の精神」と、市民の生命・財産を守るという「奉仕の精神」をもつ市民により組織された団体です。現在、1本部15個分団、団長以下602人(平成29年11月1日現在)の体制となっております。>

 また、「大村市消防団の組織等に関する規則」の別表に「分団の名称」、「管轄区域」、「階級別定数」などが定められています。その中で、第11部分団は、「沖田町、寿古町、皆同町、今富町、野田町、重井田町、立福寺町、弥勒寺町、福重町、草場町」と書いてあります。つまり、第11分団の管轄区域は、大村市福重地区(旧・福重村=現在の福重小学校の校区でもある)ということです。定数は、「71名」ですが、2018年1月現在で在籍数は57名です。

 戦前から旧・福重村警防団の流れをくんでいる消防団組織は、現在の第11分団とも言えます。当然、第11分団の発足大村市消防団と同じ1947(昭和22)年です。なお、私は、大村市政が発足した1942(昭和17)年2月11日から大村市消防団の発足(1947)までの約5年間は、旧村のままの警防団と言う名称と組織(構成)であったと、消防団OBの方に聞きました。

 この旧・福重村警防団も大村市消防団・第11部分団も、役割・目的は同じで長年、福重地区住民の生命・財産を守るため日夜奮闘、活躍されています。さらには、福重地区で開催されている各種の防災訓練、敬老会や精霊流しなどの地域行事でも住民の先頭に立ち、多くの指導もして頂いています。時代や人は変われど、地域に絶対なくてはならない尊敬すべき組織です。

江戸時代、大村藩の火消し
 人が作った組織や事柄は、現在に至るまで、その記録の有無にかかわらず歴史があるものです。そのようなことから、消防団(旧・火消し組、旧・消防組、旧・警防団含めて)に関する歴史は、どこからスタートしたものか考えてみました。まず、広辞林に、火消しについて次の「」内のことが解説されていました。

大村藩領絵図の玖島城部分
<九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )という本の附図・写真版より>

 「火消し= 1 火を消すこと。特に、火災を消しとめること。また、それをする人。 (注:中略)  3 江戸時代の消防組織。また、それに属する人。江戸には定火消(じょうびけ)し・大名火消し・町火消しがあった。 」 

 ここからは、上野の推測ながら先の辞典の「3」の項目から考えれば、幕府が置かれた江戸を中心に全国の諸藩にも消防組織の大小とか、消防機材の違いなどはあったとしても、何らかの形で火消しが存在したと思われます。そして、それが明治時代の警防団(現在の消防団)につながってきたものと推測されます。

 
実は、江戸時代、大村藩の火消しについて書いてある書籍があります。それは、大村市史・下巻(1961年2月11日、大村市史編さん員会・発行)です.。この本の356ページ、第三節消防施設に、次の「」内のことが書いてあります。 「武家政治のころ火事の場合は藩士をもって火消隊を編成し、もっぱら藩主(城)を中心に組織されて消火にあたっ たが、大火でない限り百姓町民家の火災にはあまり出動しなかったようである。 (後略) 」

 上記をさらに分かりやすく書きますと、、玖島城や武家屋敷などで火事があった場合、その火消しをするために武士の中に火消隊があったということです。しかし、百姓町民家用ではないため、別に各村各郷(町)で何らかの火消し組みたいな組織はあった可能性はありますが、大村藩内では詳細のことが不明のようです。

福重村の消防組、警防団(明治時代初期から戦後しばらくの頃まで)
 旧・福重村には、明治時代初期、1871年(明治4)の廃藩置県の一時期あった大村県もしくは、その後の長崎県になった頃より「火消し組」とか「消防団」という名称ではなくても何らかの形で、消防を任務とする組織は、存在したと推測されます。そのことは、先の項目=「江戸時代、大村藩の火消しについて」も参考になります。

旧・福重村役場と職員
<(福重村写真集)「銃後の郷土」より、1941年10月頃の撮影>

 ただし、常設された組織とか、その仕事が主任務ではなく、また消防用諸道具が完備されていたか、どうかまではなく、火事があった場合、壮年者が駆けつけるようなやり方に近い状況だったと想像されます。

 さらに言えば、面積の広い旧・福重村(現・福重地区)で、しかも消防自動車がなかった時代ですので、各郷(各町)単位で、現代風の表現で「自主防災組織、自主消防組織」みたいな感じだったのではないでしょうか。

 全国の状況も似た状況でした。そのため、「日本消防協会」の「消防の歴史」ページを引用しますと、次の<>内のことが書いてあります。< (前略) まだ全国的には公設の消防組は少なく、ほとんどが自治組織としての私設消防組であり、それも名前だけというのが多かったのが実情でした。そこで政府は、消防制度を全国的に整備して効率的な消防組織を育成するため、明治27年(1894年)勅令で「消防組規則」を制定し、消防組は知事の警察権に入り、費用は市町村の負担とされました。 (後略) >

 旧・福重村の詳細な記録がないため消防組の発足については、不明です。しかし、上記の<明治27年(1894年)勅令で「消防組規則」を制定し>通りならば、当時の長崎県東彼杵郡福重村も一つの自治体であった以上、その村役場の管轄で正確な名称ではないですが、「福重村消防組」みたいな消防組織が同時期に発足したと推測されます。

 その後、(ページ冒頭で広辞苑の解説で紹介しています)警防団(「1939年(昭和14)結成、47年廃止」)の解説通り、1939年頃に福重村警防団が、結成され、1947年に廃止されるまで存在しました。この間に、2枚の警防団写真<(福重村写真集)「銃後の郷土」より、1941年10月頃の撮影>が撮られています。その2枚の写真は、本ページ最上部か下記の白黒写真もしくは、次の「」内リンク先ページから参照願います。 福重村警防団第一第三分団員の一部(1941年10月頃)」、 「福重村警防団第二分団員の一部(1941年10月頃)」

 
福重村警防団第一第三分団員の一部(1941年10月頃)
福重村警防団第二分団員の一部(1941年10月頃)

・福重村警防団の組織と人員
 先の白黒写真2枚のリン先ページにも書いていますが、その写真説明文をまとめますと、この福重村警防団は、第一第二第三分団と分かれていたようです。そして、その2枚に写っている人員は、一部写っていない人もいるのですが、合計で55名です。ここで仮の数字として当時の警防団員定数が60名としても、現在の消防団定数「71名」(地区住民は約4,000人)に比べれば一見少ないように見えます。

 しかし、当時の福重村の人口は、約2,700名
(1942年の大村市政発足前)ですから、むしろ住民比率では、多い状況でした。しかも、この写真が撮影された当時は、既に日中戦争中でしたので福重村からも出征兵士もあった当時のことですから、その点も考慮すれば、かなりの団員数と思われます。

 あと、第一第二第三分団の管轄地域ですが、どの郷(町)担当が、何分団だったのか記録や伝承はないようです。しかし、先の写真撮影場所、団員数や地域の状況から推測すれば、「沖田・寿古・皆同郷(町)」、「草場・弥勒寺・矢上郷(町)」、「今富・立福寺・野田・重井田郷(町)」みたいな分担だった可能性もあります。

 そして、分団詰所にも変遷があります。現在の皆同町の第11分団詰所、立福寺分駐所(所在住所は野田町)だけでなく、一時期、皆同郷(町)を走る国道34号線の南西側周辺にもあったようです。また、分団詰所ではないですが、野田町の高野橋近くには、町内用として後世の一時期、手押しポンプが置いてある倉庫もありました。

 記録が残っていないので消火用の器材や道具類は、どんなものだったのか不明です。ただし、江戸時代からあったと言われている木製のポンプ式<龍吐水(りゅうどすい)>に似た消火装置は、市内どの地区でも消防車が配置されるまで、相当長期間使われていたとの伝承も残っています。

大村市消防団発足から現在まで(1947年の発足から現在まで)
 大村市全体の消防組織の歴史始まりは、先の項目=「江戸時代、大村藩の火消し」に書いた通りです。その後、様々な変遷や名称変更もありますが、明治時代からの「火消し組」あるいは先の大戦中の「警防団」となりました。そして、消防組織法が1947(昭和22)年に公布され、さらに1948(昭和23)年に消防法(次の「」内を参照)が制定されました。

 「消防法=火災から国民の生命・身体・財産を保護するとともに、火災・地震などの災害による被害を軽減することにより、社会秩序を保持し、公共の福祉を増進することを目的として定められた法律。火災の予防・警戒・調査、消防設備、消火活動、救急業務、危険物の取り扱いなどについて規定している。昭和23年(1948)制定。」(国語辞典の大辞泉より)

 それまであった警防団は解散し、この先の法律などにより、その後は消防団が全国の自治体でつくられました。当然、大村市消防団も同様で、1947(昭和22)年に発足しました。ただし、この時は、現在市内にある第1第15分団まではなかったようです。


 上野の推測ながら、例えば人口増あるいは広い地域の管轄などの関係により、いくつか変遷を経て現在のような全部で15分団体制になったと思われます。この1947年の大村市消防団発足時に、福重地区(旧・福重村)管轄の第11分団も同時に発足しました。

 その後は、日常起こりうる火災消火や水害時などの災害出動、地域で開催されている防災訓練の指導、あるいは消防団の年度計画に基づく消防団訓練などを実施されて現在に至っています。

補足


(この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)

第11分団詰所(場所:大村市皆同町)  第11分団・立福寺分駐所(場所:大村市野田町)


















・第11分団(旧・福重村警防団)関係ページ

(1)第11分団の出初式・行進・合同訓練などのページ:200938日、大村市消防団・1112分団合同訓練」、 「201018日、大村市消防団・出初め式(第11分団)」、 「2010年2月28日、大村市消防団北部地区春季合同訓練」、 「2010年3月7日、大村市消防団・第11、12分団合同訓練」、 「2012年1月8日、大村市消防団・出初め式、第11分団の入退団式と祝賀会」、 「2018年1月8日、大村市消防団・出初め式と、第11分団の行進」、 

(2)福重地区防災訓練などのページ:2007年7月7日、災害図上訓練「DIG」>「2014年9月7日、福重防災訓練」、 「2014年12月11日、第1回ため池ワークショップ」、 「2016年10月2日、福重地区自主防災訓練」、 

(3)旧・福重村警防団などのページ:福重村警防団第一第三分団員の一部(1941年10月頃)」、 「福重村警防団第二分団員の一部(1941年10月頃)」


(掲
載日:初回:2018年1月15日、第2次掲載日:1月19 日、第3次掲載日:1月23日、第4次掲載日:1月24日、第5次掲載日:1月30日、第6次掲載日: 月 日)

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