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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)

 概要紹介
掲載中
 1)名称の「読経千回記念石塔」について
掲載中
 2)大きさ、所在地、緯度経度
掲載中
 3)文字解読と現代語訳
掲載中
 4)石塔や碑文の感想など
掲載中
 5)石塔の評価と今後について
 ・補足
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中

概要紹介
名称:読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)<どきょう せんかい きねん せきとう (よしゅひ、ぎゃしゅひ)>
所在地:長崎県大村市三城町 (三城城跡)
大きさ:碑文石(本体)の高さ45cm、横幅29cm、胴囲117cm。  全体の高さ80cm、横幅33cm

読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑) 拓本作業中 (大村市三城町、三城城跡)

 この読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)を極簡単に述べるならば次の<>内の青文字通りです。

  経典を一千回唱えたことを記念して、月山桂公座元禅師が、預修碑(よしゅひ=生前供養の碑)として建てた石塔である。建立年は、天文19年(1550) 陰暦4月吉日である。 

 なお、何故この石塔名称にしたのかと言う点と、預修碑(よしゅひ)と逆修碑(ぎゃくしゅひ)の意味などについては、次の1)項目を参照願います。また、この石塔には現代では通常ならば使われていない難しい漢字の異体文字、あるいは石工独特の省略文字がありますので、後の3)項目で詳細に紹介しています。

1)名称の「読経千回記念石塔」について
 郷土史の先生や専門家ならば、この石塔名称は、「月山桂公座元禅師の預修碑(よしゅひ)」もしくは「月山桂公座元禅師の逆修碑(ぎゃくしゅひ)」とされるでしょう。。なぜなら、石塔の中央行の頭部に「預修」の文字があるからです。

 <注:この預修逆修の意味は、国語辞典の大辞林によれば、「生前に自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること」である>

   しかし、私は今回これらの名称を、あえて用いず読経千回記念石塔としました。それは、主に次の二つの理由からです。

 (1)「預修碑」とすれば、この語句説明の必要性が先に生じ、石塔紹介文が煩雑(はんざつ)になるからです。「名は体を表す」(名はそのものの実体を表している。国語辞典の大辞林より
)の言葉通り、私は素人郷土史愛好家向けに、「史跡紹介は難しい言葉より分かりやすくすべきだ」との意見を常々持っています。

 (2)普通の生前供養だけでも預修碑の建立例もあるでしょう。だが、この供養塔(石塔)は、「経典を一千回唱えたので、その記念碑として建立した」と思うのが自然です。これでは、まるで「自慢話」みたいにも見えますが、それは「松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑」例と同じでしょう。

 私は、このように経典を千回も読経したことや、その記念も兼ねての生前供養塔=預修碑(逆修碑)を建立した例は、大村市内でも長崎県内でも数少ないか、ないに等しいでしょう。その意味からすれば、戦国時代の読経千回記念石塔が現在も存在すること自体、貴重ともいえます。

2)大きさ、所在地、緯度経度
 右側1番目写真(拓本作業中)に写っています読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)を計測した結果は、下表の通りです。ただし、この石塔は、写真でもお分かりの通り、四角に加工した石です。下部から上部にいくにしたがって、やや細くなっています。あと、あくまでも素人の私の見た目ですが、この石材は、墓石など使われている大村産出の普通に見られる石ではないかと思われます。

 また、携帯型小型GPS計測器での緯度経度は、下表通りです。
なお、この数値は、既に掲載中の菊池澄安の分霊碑と同じです。なぜなら、同じ場所で背中合わせにあり、さらに言えば本石塔の方が背丈は高く、当然この最上部で計測したからです。

読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)の大きさ

 本体  高さ:45cm  幅:29cm  胴囲:1m17cm
 全体  高さ:80cm  幅:33cm  -

読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)GPS実測値
 名称:読経千回記念石塔  場所:大村市 三城町 (三城城跡)
 GPS実測値:北緯32度54分57.89秒 東経129度57分56.51秒  (国土地理院)地図検索用  32度54分57.89秒 129度57分56.51秒
 グーグルアース用数値:32°54'57.89"N,129°57'56.51"E  標高:GPS高度計は38m、気圧高度計は40m、地図上の標高は38.8m

 注:上記の大きさも、緯度経度も計測の仕方では、若干の差もありますので、あくまでも数値は参考程度に、ご覧願いたい。

3)文字解読と現代語訳
 文字解読の紹介文に入る前に、写真4例をご参照願います。それは、上部右側写真1枚(拓本作業中の石塔全景)と、下記3枚写真の合計4枚をご覧下さらないでしょうか。今回の写真紹介は、従来にない拓本CGという新しい方法・技術も用いています。それは、従来の石塔写真原版からのCGではなく、拓本写真からのCGです。何故か、この石塔全面に白いカビみたいな地衣類が付着しているため、目視(肉眼)でも、撮影した実物の石塔写真からも碑文(文字線)が一部分を除き見えないためです。

 そして、拓本紙あるいは、その拓本写真からも文字の判読が難しいので、拓本CGを新たに試みました。それらの順番が下記の3枚写真となります。左から普通の拓本、2番目が拓本CG(文字は白色、背景や文字周りは墨色)、3番目が拓本CGの色変更(白色文字や背景色を変えたもの)となっています。
(ご参考までに写真原版は長辺約5,000ピクセル、拓本CGはトリミング後4,000ピクセル以上の解像度です。しかし、下記は、ホームページ用に極端に縮小していますので画質が粗い点はご了承願います)

普通(通常)の拓本写真
拓本CG(文字は白色、周りは墨色)
拓本CG(文字は青色へ、周りは白色へ)
読経千回記念石塔碑文活字版画像

・文字解読
 まずは、右側の読経千回記念石塔の碑文活字版画像をご参照願います。この画像の上段が、上記の拓本CG写真から活字化したものです。この文字でもお分かりの通り、現代では全く使われていない難しい漢字の異体文字、あるいは石工独特の省略文字がありました。特に、3行目の「孟夏吉曜」や、「表白」の「表」などの文字解読が、福重郷土史同好会や上野だけでは困難でした。

 そのため、(当時) 市史編さん室の大野氏と、大村市文化振興課の山下氏に、ご協力を仰ぎました。結果、一か月猶予を経て、従来10文字ほど不明だった碑文も含め、初めて完全解読できました。このようなことが出来ましたのは、両氏の優れた分析力と適切なアドバイスの賜物であり、改めて感謝申し上げます。

 なお、原文は画像上部通り縦書きの難しい漢字も多いですが、ホームページ用に横書きに直し、さらに異体文字など表示できない文字は、上野の方で同じ意味の常用漢字に変えて下記の太い青文字にしています。

  謹奉看讀大乗妙典一千部
  預修月山桂公座元禅師
  干時天文十九年庚戌  孟夏吉曜表白



・現代語訳

  先の活字版から現代語訳しますと、次の<>内の青文字通りと思われます。( )内などは、上野の補足や注釈などです。なお、 あくまでも素人訳ですので、ご参考程度に閲覧願います。

  大乗妙典(だいじょうきょうてん)を一千回唱えたことを謹んで(申し)奉る(たてまつる)。
    (この石塔は)月山桂公座元禅師の預修碑(よしゅひ=逆修碑(ぎゃくしゅひ)である。
    (建立の)時は、天文十九年(西暦1550年) 庚戌(かのえいぬ、こうじゅつ)陰暦4月吉日である。表白(ひょうびゃく、啓白と意味は同じ。結語) 


字句の解釈など(主に国語辞典の「大辞林」より引用参照した)
・看讀(かんどく)=書物などを読むこと。(大辞林より)
・大乗(だいじょう)=他者救済を大重視し、多くの人々を悟りに導くこと。(同上)
・妙典(みょうてん)=経典(きょうてん)。 (上記石塔の大乗妙典とは「大乗の教えを説いた経典のこと」)

・預修(よしゅ)=逆修(ぎゃくしゅ)=生前に自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。(同上)
・座元禅師(ぞげんぜんじ)----禅師=僧侶の敬称。法師・律師に対し、特に禅定を修めた高僧。(同上)
・干時(かんどき)----「時」「日付」などと同意語。この場合は(建立の)年月日。

・孟夏(もうか)=陰暦四月の異名。(同上)
・表白(ひょうびゃく)=法事の最初にその趣旨などを仏前に申し述べること。また、その文。啓白。開白。(同上)

4)石塔や碑文の感想など
 この石塔や碑文の感想などは、あくまでも上野個人の見たままの感想です。それらを箇条書きにしますと、下記の(1)から(5)です。さらに、全体通しての感想も文字解読作業を中心に下段に書いています。

拓本CG(文字は白色、周りは墨色)

 (1)この石塔は、普通に見られる石材を角柱に加工した面に碑文が彫られている。

 (2)文字(碑文)も彫りの技術も、背中合わせで隣にある菊池澄安の分霊碑より、格段に上手である。(見た目以上に拓本やCG加工すると、そのことが良く分かった)

 (3)ただし、残念ながら地衣類がびっしりこびり付いているので文字が見えにくい。もしも、この地衣類がなければ、上手な文字が肉眼でも写真でも見えるのにと思った。

 (4)上記項目の右側の活字版通り、今回の碑文には、難しい漢字で、しかも現代では使用されていない異体文字<注:参照>が3文字あり、通常調査ならば、これらの文字判読は困難と思えた。

 (5)異体文字だけでなく、それに併せて石工独特の省略文字も多数あり、文字判読に時間を要した。

 < 注:異体文字=漢字や仮名の、標準的な字体以外のもの。異体字。 俗字=世間で通用しているが正格ではない字形。(国語辞典の大辞林より) 

 全体通して、私はこれまで、碑文が彫られている石塔類の拓本もCG加工も多数してきました。その中には、(文字)画数の多いのは当然のごとく、さらにはそうでなくても石工独特の省略文字も多数ありました。私のような素人にとって、この省略文字の解読も難しいのですが、それ以上に頭を悩ませ文字解読を困難にさせているのが、普通(現在の常用漢字)では見られない昔の難しい俗字<注:参照>異体文字などです。

 一例として、(大村市福重町にある)石走の道祖神に彫られている「道看」の「」文字は、俗字です。既に、今回の読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)活字版でも、ご紹介した通り、3文字の異体文字がありました。

 これらの難しい文字は、単に高解像度の写真撮影、あるいは拓本CG加工ができたからと言って文字解読が直ぐに出来るものではないことが改めて実感しました。つまり、先の作業に加えて、国語力(漢字の読解力)も必要だと言うことです。

 また、今回の作業時、通常の撮影原版からのCG加工が地衣類付着のため出来なかったので、新たに拓本写真からCG加工もしました。(このホームページ版のCG画像はレイアウト制約上、小さく粗いが、A4かA3サイズ位にすると、より綺麗に鮮明に見えている) 

 これらCG技術は、文字解読上も、さらには最終の表現上も有効であることが改めて分かりました。私は、文字解読・表現上の精度や正確さにおいて、あえて不等号をつけるならば、通常のCG > 拓本CG > 拓本 > 目視(ルーペ=虫眼鏡) と思っています。(ご参考までに、この順番は作業時間の長さと比例している)

 ただし、そのいずれも長所短所がある以上、歴史研究へアプローチするのに、「この方法はダメ」とか「従来手法しかない」と言う狭い考えでなく、私は「活用できるものは何でも利用した方が良い」との考えです。今後、長崎県内でも全国でも、CGを活用した歴史研究が進むことを願っています。(この件は、いずれ別途ページに詳細に掲載する予定)

5)石塔の評価と今後について
 この項目は、先のページにも一部書いていますが、項目名に沿って、まとめ直しています。

読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑) 拓本作業中 (大村市三城町、三城城跡)

(1)生前供養や、その関係の石塔建立それ自体は、上野の推測ながら大村市内でも長崎県内にも何基かあると思われます。しかし、今回のように「経典を一千回唱えて生前供養(預修=逆修)したので、その記念に石塔を建立した」例は、私としては今回初めて見ました。

 そのようなことからしても、これと同じような石塔建立の基数は少ないと思われます。その意味で、この読経千回記念石塔は珍しく、当時の宗教観含めて考えていく史料にもなるかと思われます。

(2)この石塔の建立は、天文19年(1550)であり、大村純忠が三城城を永禄7年(1564)に築城する14年前であることも注目に値するでしょう。なぜなら、三城城が出来る前に、この周辺に何かの施設などがあったこと意味するからです。現在、背中合わせで同じ場所にある菊池澄安の分霊碑とともに、今後この件を考える材料の一つと言えます。

(3)今回の石塔碑文に3文字ほど、異体文字が使われています。この当時は、常用されていたのかもしれませんが、石塔をただ史跡として見るだけでなく、国語的な意味から、この年代の文字使用例を知る上で興味深いと言えるでしょう。

(4)碑文が上手に彫られていることから、当時の石工技術も推量する材料の一つに加えても良いのではないかと思われます。

(5)全体通して、今回初めて石塔碑文の全文字解読ができたことで、この読経千回記念石塔自体は言うに及ばず、他の石塔類全体の研究、あるいは三城城の築城以前の状況などの解明が進むのではないかとも考えられます。

補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2017年5月7日、第2次掲載日:5月8日、第3次掲載日:5月9日、第4次掲載日:5月10日、第5次掲載日:5月11日、第6次掲載日:5月12日、第7次掲載日:5月15日、第8次掲載日:5月19日、第9次掲載日:   年 月 日)

 
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