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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

少年鼓手 浜田勤吾の銅像

 概要紹介
掲載中
 碑文内容について
掲載中
 大きさ、緯度経度など
 補足
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
 中央部が少年鼓手 浜田勤吾の銅像、その右は建立の寄付者の碑、右端側は戊辰戦役記念碑
<用語解説>
 戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、慶応4年(1868)戊辰の年1月から翌年5月にかけて、維新政府軍と旧幕府派との間で行われた内戦。鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦い、会津戦争、箱館戦争などの総称。戊辰の役 <デジタル大辞泉より>

少年鼓手 浜田勤吾の銅像

概要紹介
 注意:下記に書くべき本像建立の趣旨や大村市と旧•角館町(現在の仙北市)との姉妹都市提携などの由緒は、概要紹介の項目では長文となるため、後の項目を参照願いたい。

 浜田勤吾は、大村藩の藩士である。15歳の時、戊辰戦争へ出征し、秋田県の刈和野の戦で、鼓手を努め味方を励ましていたが、敵の鉄砲の玉が当たり戦死ししたと伝えられている。母のチカが我が子を想い励まし、服に縫い付けていたが歌も有名である。(後の項目で紹介)

 この浜田謹吾の銅像がある場所は、大村公園内、玖島城の大手門から登城した場合、「二の丸」部分で「本丸」に登る手前(現在は道路)の脇にある。また、本像に向って右側近くには、高さも大きさもある「戊辰戦役記念碑」もある。

 浜田謹吾を顕彰するために銅像が建立され、その除幕式(建立)が、1986(昭和61)年11月4日に挙行された。そして、翌年の1987年5月3日に秋田県の角館町にも同じ像が建立された。なお、この二つの銅像は、距離は離れているが、お互いに向き合っているとも聞いた。

 銅像(本体部のみの大きさは、左手を上げている分も含めて目測で、高さ約145cm、横幅約55mである。あと、台座には、白御影石風の4面加工石が使われている.この台座部分には、碑文があるが、この事柄については、下記の「碑文内容」を参照願いたい。
 

 
 

碑文内容について
 原文の碑文は、最上部と右側2枚の写真でもお分かりの通り、本像下部にある黒色石板に2段の縦書き、金色文字で彫ってある。しかし、今回ホームページ用に横書きに直している。それは、下記の
「」内の青文字である。

 また、見やすくするためと、レイアウト上、一部改行、空白、太文字、その他へ変えているので、あくまでも参考程度に閲覧願いたい。念のため、上野の転記ミスなどもあるので、もしも、引用・参照されるならば、必ず碑文そのものからして頂きたい。

 少年鼓手 浜田勤吾

 明治維新への夜明け慶応四年戊辰之の役あり

 大村藩早くより勤皇に尽くし 薩長土州に悟して 東征北伐の軍を進む 秋田救援の北伐隊三百二十五名洋式装備し精強たり

 二番隊に鼓手浜田謹吾あり 紅顔十五才の美少年にして常に先頭に軍鼓を打ち隊の士気を鼓舞すること勇敢なり

 九月十五日刈和野に激戦し 雨霰する飛弾に倒るる者多く 謹吾遂に二弾を浴び「お母さん」と絶叫し戦死す

 鼓音消えて秋風索莫たり 屍を角館常光院に納む 内襟に母チカの一首あり

 ふた葉より 手くれ水くれ 待つ花は
   君がためにそ 咲けよ このとき


 子を思い励ます門出の歌に万人みな涙せり 星霜移りて ここに百十八年 今や銅像故山に建つ

 ああ 浜田謹吾少年の姿よ永久に香れかし

  昭和六十一年十一月吉日 」


大きさ、緯度経度など

 (この項目は準備中。しばらく、お待ち下さい)

少年鼓手 浜田勤吾の銅像の大きさ

 本体  高さ:  横幅:  奥行:  周囲:

少年鼓手 浜田勤吾の銅像の緯度経度(GPS実測値)
 名称:少年鼓手 浜田勤吾の銅像  場所
 GPS実測値:  (国土地理院)地図検索用 
 グーグルアース用数値:  標高:


補足
 

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:

(初回掲載日:2024年11月9日、第2次掲載日:12月30日、第3次掲載日:2025年1月1日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日、)

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