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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文
 概要紹介
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 石垣の大きさ
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 石垣の碑文
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 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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概要紹介
 伊勢山大神宮跡は、大村市中里町、国道34号線・バス停「日焼」から北東方向へ約200mの所にあります。今回紹介の参道石垣碑文のある所は、その神社跡の一番下側(南西側)です。なお、この場所は、あと500m位で諫早市との境という位置関係でもあります。元々、
伊勢山大神宮は、江戸時代の天和年間(1681〜1684年)には、既にあったことが大村藩作成の(大村)郷村記に記述されていますので、その以前から存在していたと推測されます。

伊勢山大神宮跡の参道石垣(白い和紙が碑文石。拓本作業中)

 そして、明治3(1870もしくは1871)年に、同じ(当時の)鈴田村にあった旧・古松権現の場所に遷座、合祀されました。その後は、名称も変わり鈴田村(現在の大村市鈴田地区)で地域内の神社を代表するような鈴田大神宮として、地元の方々に長年親しまれています。

 その伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文の内容は、現代語訳で「天保12(1841)年に伊勢山の氏子(うじこ)で、(・・・を施工、完成させた) (あとは工事関係者氏名の羅列なので、ここでは省略)」が彫られています。<注:碑文石の大きさ、碑文の全文、現代語訳、評価と意義、写真などの詳細内容は後の項目を参照願います>

  この種の(上野表現で)“竣工記念碑の3大要素”(建立年、建立者、建立目的)からすれば、「建立目的」が、碑文の短い文章だけでは分かりづらいです。

 しかし、この碑文石のある場所からして、推測ながら石垣含めた参道整備工事の完成を記念して建立されたものと思われます。いずれにしても工事そのもの費用は、相当掛かったものと想像されます。だからこそ、竣工記念の碑文まで彫られたのではないかとも考えられます。

 また、神社仏閣などの建物、鳥居、石灯籠、奉献塔など目立つ竣工の碑文(記念碑)は、江戸時代あるいは近代のものでも沢山あります。しかし、
伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文のような石垣とか土木系の竣工碑文(記念碑)は、大村市内で江戸時代のものとしては少なく、珍しいと言えます。

石垣の大きさ
 伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文のある場所は、上記右側写真でもお分かりの石垣の一部です。ただし、石垣右端の最上部にあり、参道に登る場合、割合に目立つ位置ともいえます。

伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文石の大きさ
 碑文石(本体)  高さ:40cm  横幅:63cm  -
 石垣全体  高さ:105cm   横幅:205cm 、 奥行き:235cm  -

 石垣や碑文石の材質ですが、大村市内どこでも見られるものと同じです。ただし、形状は、面が共通して平たい石を選んでついてあると思えます。この参道入口部分は、一番目立つ、あるいは工事する人にとっては、「人に見せたい」という場所でもあり、形の良い石を用いて築かれたものと思えます。

右側の拓本から活字化
碑文面の拓本

石垣の碑文
 上記右側写真や上記項目でも紹介しました通り、今回の碑文石は、石垣の右側最上部にあります。ここは、目立つ分、雨水や風雪が当たりやすい位置でもあります。そのため、1行目(建立年)が、特に磨滅(傷損)が激しいです。

 しかし、建立年や人名などは、草書体のつくりなどからも判読しました。 碑文の解読について、福重郷土史同好会の他の会員と大村市文化振興課の山下氏から丁寧なアドバイスを頂きました。

 上表の右側が碑文の拓本写真で、左側がその拓本の文字から活字化したものです。なお、この碑文の実物は、右側写真の通り縦書き文字ですが、このページでは横書きに直し、見やすくするために改行位置も変えています。その文章は、次の< >内の通りです。

 < 天保十二年  伊勢山氏子中   森啓治  永野庄助  藤田公甫  本山九八  吉田源右衛門  藤田太十良  母 >

伊勢山大神宮跡
(中央部左端側が境内跡。右下側、農道奥が参道入口=碑文石のある石垣)

現代語訳
 上記の碑文を、( )内に書いた私の注釈や補足も含めてまとめ直しますと、次の「」内の通りです。ただし、 この種の(上野表現で)“竣工記念碑の3大要素”(建立年、建立者、建立目的)からすれば、「建立目的」が、碑文の短い文章だけでは分かりづらいです。

 そのため、あくまでも下記は、参考程度にご覧願います。また、下段の(注)の解説は、国語辞典の大辞泉を参照した用語と、上野が意味上に補足を書いたものです。

 天保12(1841)年に伊勢山の氏子(うじこ)(注1)で、(・・・)(注2)を施工、完成させた。(寄付者は)森 啓治、永野庄助、藤田公甫、 本山九八、(寄付及び世話役は)(注3) 吉田 源右衛門、藤田 太十良、母(注4) 

(注1):氏子=1 祖神である氏神の子孫。氏の子。氏人。 2 産土神(うぶすながみ)の鎮守する土地に住んでいて、その守護を受け、それを祭る人々。

(注2)(・・・)は、建立目的の内容を碑文には書いていないが、碑文石がある場所(参道入口の石垣)から常識的に考えて、石垣、鳥居さらには参道の整備工事と推測される。

(注3):なぜ、この後半部分の氏名を「(寄付及び世話役は)」としたかについてだが、碑文石の状況からして、前半部に続けて彫ろうと思えば彫れた文字である。しかし、わざわざ4行近くも行間を大幅にあけて後半に彫ってあるので、この工事の世話役(幹事役)でもあったと推測した。

(注4):この「母」とは、普通に考えれば、前の人=「藤田太十良」のお母さんであろう。名前ではないが、この当時の碑文には「母」=女性はほとんど登場してこないでので、けっこう珍しいとも思える。また、世話役を果たせるだけの実力もあった方とも想像した。

まとめ
 大村市内にある記念碑(碑文)は、寺や神社の建設時または石祠・鳥居・石灯籠、奉献塔などの設置時は多いので直ぐに分かります。ただし、今回の碑文は、文字数が少ないので建立目的が分かりづらいです。

 しかし、先の項目にも書きましたので重複した書き方になりますが、この碑文石は、神殿の場所から約60m離れた(下った)参道入口の石垣にあるので、私の推測ながら鳥居とか、(石垣含めた)参道整備(工事)時の碑文(記念碑)ではないかと考えました。その方が、場所的には合っています。

 あと、伊勢山大神宮は、江戸時代の大村郷村記を始め地元伝承や境内跡地(近年建立の「鈴田大神宮発祥の地」記念碑)含めて明確に分かっていました。しかし、江戸時代建立の碑文石の現存は、極一部の方を除き知られていなかったことでもあり、改めて伊勢山大神宮の存在を立証しているものであると思えます。

 江戸時代の石垣や参道とかの土木工事的な竣工記念碑(碑文)は、大村市内では珍しいとも考えられます。また、この碑文石は、農道横の旧参道入口にあるので郷土史ファンや史跡巡りをされる方にとって行きやすい所といえます。そのようなことから、今後、伊勢山大神宮跡地含めて興味持たれることも私は期待しています。

関係ページ:関係ページ:
大村藩領絵図 、(大村)郷村

(初回掲
載日:2015年1月23日、第2次掲載日:1月26日、第3次掲載日:1月27日、第4次掲載日:1月28日、第5次掲載日:1月29日、第6次掲載日:1月30日、第7次掲載日: 月 日)

 
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