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大村の歴史
 大村郷村記とは

大村郷村記とは

はじめに
 
大村市内及び旧・大村藩領内だった大村湾岸の市町の郷土史、あるいは観光物産の由来などを紹介される場合、その多くが大村郷村記からです。私自身も『福重ホームページ』掲載中の、例えば「大村の歴史シリーズ」、「福重のあゆみ」、「『大村辞典』(大村歴史観光辞典)」など、本当に良く引用・参照して書いています。

 この大村郷村記は、復刻版(活字版)だけでも第一巻から第六巻まである膨大な文章量です。ですから、その全体の概要紹介だけでも数百ページか最低でも何十ページも必要なくらいと思われます。それでは、とても、「大村郷村記とは、何か?」と質問された時に、直ぐに簡単に答えられる実用的なものではなくなります。

 そのようなことから、今回のこのページでは、概要紹介にもほど遠い、まあほんの触りみたいなものですが、その極一部を書きたいと思っています。このページをご覧になった方で、「かえって分からんようになったバイ」とおっしゃる方も出てこられるかもしれませんが、その点は、どうかご容赦願います。

 なお、このテーマを書くにあたって大村市内で発行された書籍、論文も引用・参照しています。大村郷村記を紹介された書籍類は大変多いのです。その中でも、特に、私が見たのは大村史談会発行の第一号から(2010年現在)第六十一号の関係記述、さらに『大村史話 中巻』(大村史談会編集、1974年5月15日発行)の「江戸末期の村々をえがく −大村郷村記ー」(満井録郎氏)の論文などです。私が、このページの中で引用、参照している項目も同様です。

1)大村郷村記の名称について
 まず、江戸時代、大村藩によって編纂された大村郷村記の正式名称は、地名が頭に付かない郷村記です。ただし、近代に出版された書籍類あるいは郷土史講演会など、一般の書き方や呼び方は、大村郷村記もしくは(大村)郷村記として表記されています。

 なぜ、本来なら郷村記だけの表記なのに、それが、頭に大村の名前の付いた大村郷村記と言う名称が、一般には定着していったかと言う点も私なりに考えてみました。
第一は、全国の他の地域にも郷村記があるので、それらと区別する意味があるのではないでしょうか。
第二は、1982年1月から復刻版(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)の大村郷村記が、第一巻から第六巻と順次発行されましたので一般には、この活字版の本が目に触れ、引用・参照される機会が多かったためと考えられます。

 私は、上記の中で第二の理由が、一番ではないかなあと思っています。いずれにしても、現在では大村郷村記と言う名前が、一般には定着しています。そのようなこともあり、このページでの呼称も大村郷村記で統一しています。 ただ、私は、「大村の歴史シリーズ」あるいは「福重のあゆみ」シリーズでは、(大村)郷村記との書き方も多く、その点はご容赦願います。

2)大村郷村記は、江戸時代の大村藩作成「大村領全村の総合調査報告書」
 この項目の見出し(タイトル)は、「大村郷村記とは」の問いに、一言で分かりやすい表現で答えられないものかと考え『大村郷村記 第一巻』や『大村史話 中巻』などを参照し書いたものです。ですから、郷土史の先生方が専門的に奥深く書かれた内容と、かなり違っているかもしれません。でも、上記の見出し一行には、ほぼ、「名称、作成年代、編纂者、編纂内容」などのエキスの全部が入っていると思われます。

 江戸時代、大村藩によって編纂・作成された郷村記の原本(全79巻)は、延宝9年(西暦1681)4代藩主大村純長の代に編集に着手し、その後補正され文久2年(1862)第12代大村藩主・大村純熙の代まで約180年間を要して作成されました。この原本は、現在、長崎県立長崎図書館に保存されています。

写真説明:1982年1月からの復刻版(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)の大村郷村記で左側から第一巻、順に右端が第六巻である。大村市内のNさん所有の本を写した>

 この大村郷村記の主な内容は、江戸時代の大村藩領内の48か村(別項目の「3)大村郷村記にある大村藩領48ヶ村」を参照)、例えば郡村(竹松村・福重村・松原村)、萱瀬村、鈴田村、三浦村、大村(久原・池田)など現在の大村市内の各村、あるいは当時大村領内だった彼杵村、 川棚村、波佐見村、時津村、浦上西村など大村湾沿岸のほぼ全村の地理、歴史、神社仏閣の由緒、名所旧跡、伝説、産業など幅広く収録したものです。

 また、詳細を極めた記述もあり、例えば福重村の項には、石仏一体づつの紹介さらには馬の数、農機具のことまで記述されています。 あと、これらの記述内容は、なにも福重村だけでなく全村ほぼ同じ項目や内容で統一的に書いてあります。

 これらを極簡単にまとめますと、「大村郷村記とは、江戸時代の大村藩が約180年間(1681〜1862)かけて編纂した大村領内全村の総合調査報告書」と言えます。

3)大村郷村記にある大村藩領48ヶ村
 先の項目で簡単に言えば「大村郷村記とは、大村領内48ヶ村の総合調査報告」みたいなものと書きました。それでは、その48ヶ村とは、具体的には、どこどこなのかと言うのが、今回のテーマです。

大村領内48ヶ村体制の年は
 まず、「大村領内48ヶ村」体制は、いつ頃にできたかと言う点です。それは戦国時代に複雑に領内が推移し、さらに江戸時代になっても天領の長崎付近の土地の関係などもあり、「慶長十年(西暦1605年)」に、この「48ヶ村」体制になりました。それが右表です。

 ただし、右表は、あくまでも分かりやすくするために上野が便宜上作成したものですから、ご参考程度に、ご覧願います。(念のために、引用や参照される方は、原本の大村郷村記第一巻からお願いします)

 さらに「大村領内48ヶ村」の「48」と言う数では、例えば大村、郡村みたいに親村(おやむら)別の数字だけです。その後の<>内の枝村(えだむら)の数まで入れたものではありません。また記述内容ですが、大村、郡村はひとめとめに書いてあるのかと言いますと、そうではなく、「郡村の福重村」と言うようにして3つの枝村別=竹松村、福重村、松原村と別々に記述されています。つまり、「48ヶ村」とは、あくまでも親村別の数字を言い、記述内容は枝村別に詳細に書いてあります。

48ヶ村は様々な変遷があった
 近年何かと話題になった「行政改革」、「市町村合併」などの江戸時代版として、この年代にもけっこう盛んにおこなわれていました。そのことは、表の下段の補足1にも書いていますが、江戸時代通じて、分村や逆に村の合併もおこなわれ、行政単位の村の数は一定ではありませんでした。時期は不明ながらも多い時で68ヶ村にもなったようです。また、その後、逆に例えば現在の福重地区では大村藩領絵図が描かれた当時、今富村、皆同村、福重村と3村がありましたが、「行政改革」により福重村一つになったような例もありました。

 このようなことは何も福重村だけでなく大村藩領内全体でおこなわれているので、村別単位では様々な変遷がありました。「大村領内48ヶ村」と言う見出しや数字は、けっこうインパクトが強く、印象にも残るものです。ですから、まるで「江戸時代の全期間、大村領の村の数は、(枝村含めて)何も変わらなかった」と言うイメージがしますが、それは違っていて、先に述べた通り様々な経過や変遷があったと言うことです。

地域別名称など
 表やその下部の補足説明に大村領を大きく地域別に分けた名称として、地方(ぢかた)向地(むかえち)内海(うちめ)外海(そとめ)があります。この地域別の名称説明は、表の補足2〜補足5の通りです。この表記は、現在でも馴染みのあるものもあります。また、この当時大村領の中心地は、玖島城(大村城)ですから、そこから領内を見渡すようにして書いた区分けとも思われます。

4)大村郷村記の「編纂委員」について
(念のために、この項目の標題や文章中に用いています「編纂委員」とか「編纂期間」とかの表記は、当然、現代式の用語であって江戸時代当時の呼称ではありません。後で書きますが、 当時は別の言い方をしていました
ので、現在でも分かりやすくするために今回の表現にしています)

 まず、既に先の2)の項目に大村郷村記の編纂期間について極簡単に、「延宝9年(西暦1681)4代藩主大村純長の代に編集に着手し、その後補正され文久2年(1862)第12代大村藩主・大村純熙の代まで約180年間を要して作成されました」と書いています。当然、編纂されたのは約180年間の全期間ではないにしても、郷村記編纂に携わった人は、多数に及びます。詳細に調べれば、この編纂委員や編纂経過をまとめるだけも一冊の本が必要なくらいの分量と思えます。

 この概要紹介ページでは、とてもそのようなことは私の能力含めてできませんので、大村郷村記・第一巻及び『大村史話 中巻』(大村史談会編集、1974年5月15日発行)の「江戸末期の村々をえがく −大村郷村記ー」(満井録郎氏)の論文の260〜263ページ部分を引用・参照しながら、ほんの極一部を紹介したいと思います。

編纂委員の一例

 この『大村史話 中巻』
262ページには、編纂委員の名称や役職名などが書かれた表があります。また、この編纂委員の中には(後で極簡単に紹介しますが)興味深い人名も書いてあります。先の右表をご覧願います。この役職名は、江戸時代も終わりに近づいた頃の安政三年(1856)大村藩第12代藩主・大村純熈(おおむら すみひろ)に命じられた編纂委員です。

 この表を見ると単に編纂委員名だけでなく、いくつかのことも分かってきます。当時、苗字帯刀(みょうじたいとう)が許されたのは、武士ですから全員、当然のことながら大村藩の家臣だったと言えます。

  右表の役職名について、上野の推測ながら現代風に解釈し「」内に書き改めますと、(右から左へ順番に)総調役=「編集委員長」、測量方=「測量士」、郡方調役=(測量作業を除く)「編纂委員」、用懸代官=「財政(会計)担当委員」、測量方手伝=「測量士補佐」、筆役=「編纂整理(清書)委員」と思えます。



 (後半部分続きます。その原稿は準備中です。しばらく、お待ち下さい)

 

5)大村郷村記の主な内容(ほんの極一部)

 (この項目は、原稿準備中。しばらく、お待ち下さい)

初回掲載日:2010年10月1日、第2次掲載日:10月7日、第2次掲載日:10月20日

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