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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑
 概要紹介
掲載中
 1)碑文内容について 掲載中
 2)大きさなど 掲載中
   緯度経度など
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 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
(写真1) 大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑 (写真2)  中央やや右側の下部が逆修碑、左奥の山は伊賀峰城跡

(写真3) 逆修碑のCG写真(梵字・二体像・碑文)

(写真4) 逆修碑の測定図写真
(逆修碑本体は上から3、4段目)
概要紹介
 
注:逆修とは、「生前に、あらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ること」(広辞苑より)>

名称:大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑
<おおむら よしずみ ふさい (せいあ・せいしん) の ぎゃくしゅうひ>

 大村市今村町には、戦国時代末期頃の建立と思われる大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑があります。場所について、この石塔のある周囲は、全て田んぼと農道なので説明がしにくいため、詳細な所在地は、下記項目の緯度経度を参考に願います。

 この石塔の建立年は、正確には分かっていません。ただし、逆修碑は、生前に造られているので、大村良純の没年「永禄12年(1569)3月6日」より早い時期となります。あと、ご参考までに、大村純忠のキリスト教入信「永禄6(1563)年」以降、しばらくして大村領全体が、まるで”キリシタン王国“みたいになっていきます。

 そのような時代の中で、このような仏教そのものの逆修碑が、この時期に建立されたことは、年代的に見るなら、ある意味興味深いものとも思えます。

・逆修碑の特徴

 また、この逆修碑の特徴の一つは、正面に夫婦と思われる線刻された二体像があることです。石像造りに不向きな大村産出と思われる石材ながら、この二体像は、彫りも保存状態も良いです。(写真3のCG写真参照) ただし、左右両側面および裏面側に彫ってある像は、摩耗が激しいです。(詳細は後の項目を参照)

 碑文について、梵字が2文字と、漢字が8文字彫ってあります。その意味は、口語訳で「清阿、清心 菩提となすなり」です。(詳細は後の項目を参照)

・逆修碑は六地蔵(塔)の再利用
(リサイクル)
 この逆修碑は、便宜上
(べんぎじょう)の段数表現で、(写真1の)上部から3〜4段目です。そして、この部分は、元々は六地蔵(塔)の竿部(さおぶ)ともいわれています。つまり、この逆修碑は、元々この地周辺にあった六地蔵(塔)を再利用(リサイクル)して造られたものといえます。このような六地蔵(塔)の再利用は、珍しいものではなく、例えば大村市内では「紫雲山延命寺の標石」などが有名です。(詳細は後の項目を参照)

 大きさについて、逆修碑のみでは高さ134cm横幅57cmです。なお、ご参考までに、(写真1の)上から1〜2段目も含めますと、全体の高さは187cm、横幅は
(前同で)57cmです。

 あと、この逆修碑のある所から眺めますと、遠くは雲仙・普賢岳、中ほどには(写真2に写っている)伊賀峰城跡、近くには今村町の集落や美しい田園風景などが、望める眺望抜群の所でもあります。

1)碑文内容について
 (写真1、3)の
逆修碑正面には、碑文が彫ってあります。それは、(写真3)のCGでも、お分かり通り、縦書きで梵字が2文字、漢字が8文字あります。

今回、漢字のみをホームページ用に下記の通り、横文字の太文字に直して書いています。なお、梵字と、漢字の口語訳について、大村市文化振興課の学芸員の方に教えて頂きました。

・上側の梵字---(原文はCG写真の通りで) 「カ」=「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
・下側の梵字---(原文はCG写真の通りで) 「サ」=「聖観音(しょうかんのん)
・漢字8文字---清阿 清心 為 菩提 也

・口語訳
 上記、漢字8文字の口語訳は、次の「」内の青色太文字通りです。
  清阿(せいあ)清心(せいしん) 菩提(ぼだい)となすなり 

 注:菩提(ぼだい)とは、「1 煩悩(ぼんのう)を断ち切って悟りの境地に達すること。また、悟りの智恵。 2 死後の冥福(めいふく)」のことと大辞泉には解説してある。

2)大きさ、緯度経度など
 
この大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑の大きさと緯度経度などは、下記二つの表と、上記右側(写真4)の逆修碑の測定図写真通りです。なお、逆修碑は上部と下部の2段になっているため、下表の太文字の本体の高さは2段の合計数値、横幅は下部の最大値です。

 ご参考までに、この逆修碑の上部にある六地蔵の大きさも表の下部に列記しいています。あと、この石塔の状況は、本ページ掲載の(写真1、3、4)を参照願います。また、この石塔を六地蔵(塔)の全体として仮に、みるなならば本来あるべき宝珠(ほうじゅ)と、傘部(かさぶ)の二つの部位が失われていますので、ご注意願います。

大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑の大きさ

 全体(六地蔵含む)  高さ:1m84cm  -  -  -
 本体  高さ:1m34cm  横幅:57cm  奥行:56cm  胴囲:170cm
 本体の上部  高さ:59cm  横幅:35.5cm    
 本体の下部  高さ:75cm  横幅:57cm    
 土台石  高さ:15cm  横幅:1m37cm  奥行き:  周囲:

<六地蔵の大きさ>
(上から1段目) 龕部(がんぶ)の六面地蔵は高さ33cm、横幅32.5cm、周囲98cm
(上から2段目) 中台(ちゅうだい)の逆向きは高さ20cm、横幅47cm

大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑の緯度経度(GPS実測値)
名称:大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑  場所:大村市 今村町(農道と田んぼ脇)
GPS実測値:北緯32度51分55.40秒 東経130度00分15.11秒  (国土地理院)地図検索用 
グーグルアース用数値:32°51'55.40"N,130°00'15.11"E 標高:地図上ではm

 <下記2事項は補足内容>
・大村良純について
 この項目は、「大村市の文化財」(2004年3月26日発行)104ページと、「新編 大村市史 第二巻 中世編」(大村市史編さん委員会、2014年3月31日発行)753〜754ページを参照して書いています。大村良純は、誕生年は不明ながら、没年「永禄12年(1569)3月6日」で戦国時代に活躍した武将です。しかし、不遇(不運)の人とも、いわれています。

(写真1) 背面から撮影した逆修碑(奥の集落は今村町)
(最奥右側の山並みは雲仙・普賢岳、農道左右側は美田)

 なぜなら、大村家の長男に生まれながら家督を相続できませんでした。大村家を相続できなかった理由は、病弱だったと(大村)郷村記には記述されています。しかし、それは、表向きの理由で、実際は島原・有馬との影響の強い弟の純前に家督が譲られたされたとの説もあります。

 また、与えられた領地は、三浦村でした。ここは、戦国時代、川を挟んで反対側には諫早の西郷氏がいて、相対する場所でもありました。つまり、現代風に分かりやすい表現に変えれば、”最前線(基地)”でした。ですから、常に緊張状態の連続だったろうと推測されます。

 ですから、この逆修碑は、本来、死後の菩提(冥福)を祈願して建立された石塔です。しかし、死後だけでなく生前も、「この地(三浦村)で安全安心で平和に暮らせますように」と祈ったとも思われます。 あと、この逆修碑は、他の例えば「月山桂公座元禅師の逆修碑(ぎゃくしゅひ)」(単独建立)と対比して、大村清阿・清心夫妻の法名(仏門名)入り碑文と、夫婦二体像まで彫ってあります。(写真3のCGを参照)

 ここからは、上野個人の感想ながら、先のようなことを夫婦で建立しているということは、奥さんも力のあった方か、もしくは大村良純は、なかなかの愛妻家だったのではとも思いました。 なお、ご参考までに、大村良純の墓は、大村市黒丸町にあります。

・建立年代について
 この逆修碑の建立年代については、既に本ページの「概要紹介」に、<石塔の建立年は、正確には分かっていません。ただし、逆修碑は、生前に造られているので、大村良純の没年「永禄12年(1569)3月6日」より早い時期となります。>と書いています。

 正しくは、上記通りです。ただし、私は、この建立年代について、個人的な興味を持っています。まず、上記の大村良純の没年の前後数十年間は、単に戦国時代だから複雑だったというだけでなく、様々な事柄から大村にとって、かなりの激動期だったと思えます。それは、大村家の内も外も、政治的にも、宗教的にも、さらには大村領の領土的にもです。

(写真5) 大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑

 これらの内容を詳細に書けば、それぞれ数ページか、数十ページを要する内容ですので、ここでは、宗教的な事柄に絞ってみてみたいと思います。まず、大村純忠関係の事柄も含めて、次の時系列を参照願います。 
 ・1550年、大村純忠 大村家を相続
 ・1563年、大村純忠、キリスト教へ改宗
 ・1569年、大村良純、死去
 ・1574年、キリシタンによる他宗教攻撃(弾圧)事件(僧侶の峯阿乗の殺害、寺社の焼打ちなど)

 大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑の建立年は、正確には不明ながら、没年よりは相当前と思われます。ただ、大村純忠のキリスト教改宗の後、大村内では一種の内乱状態みたいになりました。その時、大村良純や彼の子の純重は、心を砕いていたともいわれています。その頃に建立されたのか、どうか? もしも、その通りならば、なかなか宗教的には微妙な年代ともいえます。

 逆に、「1563年、大村純忠、キリスト教へ改宗」前でしたら大村家は、ほぼ全部が仏教でしょうから、今回の逆修碑を建立したとしても、何ら違和感もないでしょう。あと、大村良純の方が大村純忠よりは、相当年長者だと思われるので、純忠の宗教とは関係なしに建立したとも想像されます。

 この石塔の建立年が不明なため、上記のように色々と個人的に推測も含めて書いてしまいました。ここで、仮に宗教的には複雑な状況と関係なしに建立されたとしても、この年代は、大村家内外、まわりの戦国武将や領土との関係などにより激動な時代だったことは確かでしょう。 そのような時期に、死後だけなく生前も含めて大村良純夫妻が、「安心安全、心穏やかに」などと祈願して逆修碑を建立したのは、問わず語らずとも分かるような時代反映のような気がしました。


まとめ



 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)



・関係ページ:「」 

(初回掲
載日:2020年6月24日、第二次掲載日:7月1日、第三次掲載日:7月7日、第四次掲載日:7月22日、第五次掲載日:7月26日、第六次掲載日:7月27日、第七次掲載日:7月29日、第八次掲載日: 月 日)
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