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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など
天正遣欧少年使節顕彰之像
 - 掲載中
 概要紹介 掲載中
 1)碑文内容について 掲載中
 2)大きさ、緯度経度など
掲載中
   緯度経度など
-
 まとめ
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
(写真1) 中央部:天正遣欧少年使節顕彰之像
大村市森園町、森園公園。通称「長崎空港入口」(撮影側方向に
箕島大橋、長崎空港、大村湾などがある)
 注1:このの正式名称は、(写真1)の標示名通り、正式名称は「天正遣欧少年使節顕彰之像」である。ただし、市民の間では、「遣欧4少年使節の記念像」「遣欧4少年像」「天正4少年の像」 「(あの空港入り口にある)4少年の銅像」などとも呼称されている。

 注2:この遣欧4少年使節の内容(事柄)を書けば何十あるいは何百ページも必要となる。このページでは、あくまでも、4少年記念像の概略紹介であることは、あらかじめ、ご了承願いたい。そのため、往復での出来事、ヨーロッパでの内容や帰国後のことなどは、ほぼ省略している。

・関係ページ:天正遣欧少年使節顕彰之像」 「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント
 

概要紹介
 この天正遣欧少年使節顕彰之像は、4少年が長崎から旅立った1582年から数えて400周年を記念して建立されたものです。その少年達の名前は、(銅像正面の左側から順番に)伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアンです。この役割として当時の大名だった大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の代わりとして少年使節が選ばれ、ヨーロッパに派遣されたのです。この中で、千々石ミゲルは大村純忠の甥、原マルチノ中浦ジュリアンは、大村領で生まれました。4少年達の旅自体は、往復とも困難を極めましたが、ヨーロッパ各地では、大歓迎を受けました。

(写真2) 天正遣欧少年使節顕彰之像
左側から伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアン
 
(画像A) の除幕式写真
<大村市「市政だより」19昭和57年 月日> 

 その後、少年使節は、1590(天正18)年に帰国し、皆、大人になっていました。しかし、その当時、日本はヨーロッパ出発前と様変わりして、キリシタン禁教、弾圧へと進みつつありました。それぞれ、苦難の道を歩まざる得なくなるのですが、その内容は、本ページでは、省略します。(なお、詳しく知りたい方は、例えば「天正遣欧少年使節」と検索して頂くと、たくさんの書籍類が表示されますので閲覧願います)

 あと、天正遣欧少年使節評価についても、実に様々な論文や意見があります。この件も、このページでは、多く書きませんが、あえて宗教上のことを省いても、いくつかの大きな功績があったと、沢山の書籍類にあります。それらの極一部ながら例えば当時、
(現在ならば月旅行にも匹敵するくらいの)大変困難な往復旅行の末、日本とヨーロッパ間で交流を果たしたこと、印刷機など進んだ技術を持ち帰ったことなどは、やはり高評価といえるのではないでしょうか。

 そのような当時としては、画期的な成果や評価でもあるし、また、現代にも通じるものなので、この天正遣欧少年使節顕彰之像は、その400周年に当たる年、つまり1982年に建立されたと思われます。  なお、この記念像の所在地は、大村市森園町、森園公園にあり、市民の間では、通称で「長崎空港入口」と呼ばれている所にあります。

 
(画像A) 天正遣欧少年使節顕彰之像の除幕式写真
<大村市「市政だより」1982(昭和57)年10月1日号No.957)より複写> 
除幕式について
 (写真1と2)と(画像A)の通り、この天正遣欧少年使節顕彰之像の台座には、名称の碑文プレートしかありません。そのため、通常の記念碑ならば、どこかに建立年月日がある場合が多いです。しかし、「天正遣欧少年使節顕彰之像」 「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント」の3基の場合、一緒の建立年月日として、「天正遣欧少年使節400年記念碑」に、その碑文があります。

 また、大村市の「市政だより」
<1982(昭和57)年9月1日号と1982(昭和57)年10月1日号No.957)>を参照すると、上記の「天正遣欧少年使節顕彰之像」の完成を祝う記事として、除幕式が挙行された内容が書いてあります。そのようなことから、除幕式(完成式典)は、1985(昭和57)年9月20日だったことが分かります。

1)碑文内容について
 (写真1、2、3、4)でもお分かりの通り、この天正遣欧少年使節顕彰之像の台座上部に黒御影石と思われるプレートに金文字で下記の太文字があります。それを口語訳したのが、下記の青文字です。

・碑文:天正遣欧少年使節顕彰之像
・口語訳:「天正10(1582)年にヨーロッパ(欧州、おうしゅう)に派遣(はけん)された少年使節(しせつ)の400周年(しゅうねん)を顕彰(けんしょう)する記念像(きねんぞう)」との意味(いみ)であろう。

(写真3) 碑文のみ「天正遣欧少年使節顕彰之像」 
 
'(写真4) 左側:帆船モニュメント、右側:天正遣欧少年使節顕彰之像 
(写真5) 裏側見た天正遣欧少年使節顕彰之像
  この少年像本体や、その台座(土台)含めて、碑文のあるのは、上記の太文字のみです。4体もある記念像の場合、通常ならば、その建立趣旨、建立年月日、建立者や彫像者(鋳造者)などが、台座(土台)の裏面や側面などに碑文があります。

 しかし、この土台には、それらがありません。何故か? それに替わる記念碑
(碑文)が、別に設置されているからです。それは、この少年像設置場所とは、約12メートル東側に離れた所に、「天正遣欧少年使節400年記念碑」があります。

 なお、ご参考までに、その記念碑の碑文は、国文学者の福田清人氏のです。(詳細は、「天正遣欧少年使節400年記念碑」紹介ページから参照) あと、前事項と同じような趣旨と同年月日頃に建立された
天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメントもあります。(写真4の左側参照)

 まとめますと、1) 天正遣欧少年使節顕彰之像、2) 天天正遣欧少年使節400年記念碑、3) 天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント(写真4参照)は、3基とも同趣旨、同年月日頃の建立と推測されます。下表に大きさを表記していますが、4少年の高さなどは台座に乗っているので計測しにくく、目測のみです。

2)大きさ、緯度経度など
 <(写真1)を参照>この写真中央上部に天正遣欧少年使節顕彰之像があり、その真下側に台座や、4少年像全体を支えている土台などがあります。この土台が、巻尺計測時、けっこう高くて、その分、4少年像が測れませんでした。下表の本体像の数値は、目測の数字で、しかも(写真1)の4少年の左側で手を上げている伊藤マンショ像のみです。なお、土台部のみは巻尺計測しましたが、4少年像の直ぐ下部の台座部分は、計測できていません。そのようなこともあり、下表の大きさと緯度経度の数値は、参考程度に、ご覧願います。また、数値未記入欄は、ご容赦願います。

天正遣欧少年使節顕彰之像の大きさ

 全体(目測)  高さ:約3m50cm  -  -  -
 本体(目測)  高さ:約150cm  横幅:  奥行:  伊藤マンショ
 台座  高さ:  横幅:  奥行き:  周囲:
 土台1  高さ:42cm  横幅:4m30cm  奥行き:76cm  周囲:
 土台2  高さ:1m60cm  横幅:4m60cm  奥行き:1m12cm  周囲:約11m45cm

天正遣欧少年使節顕彰之像の緯度経度(GPS実測値)
 名称:天正遣欧少年使節顕彰之像  場所森園、森園公園町(通称「長崎空港入口)
 GPS実測値:北緯32度55分13.22秒 東経129度56分12.72秒
 (国土地理院)地図検索用 国土地理院の地図
 グーグルアース用数値:32°55'13.22"N,129°56'12.72"E  標高:2m

 
補足
 
 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:「天正遣欧少年使節顕彰之像」 「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント
    、 
(初回掲
載日:2023年4月5日、第二次掲載日:4月10日、第三次掲載日:5月21日、第四次掲載日:5月25日、第五次掲載日:6月3日、第六次掲載日:6月18日、第七次掲載日: 月 日)

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