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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

山口幸太夫祖母の墓碑

 概要紹介
掲載中
  ・調査の事実経過
掲載中
  ・概要
掲載中
 1)墓碑の大きさ、緯度経度などについて
 2)墓碑の碑文ついて
 3)大村大村権七郎との関係について
掲載中
 後書き
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
右側が山口幸太夫祖母の墓碑(福重町、妙宣寺・位牌堂東側の丘)
注:左側は大村権七郎の墓碑

概要紹介
名称:山口幸太夫祖母の墓碑(やまぐち こうだゆう そぼ の ぼひ)
所在地:大村市福重町、妙宣寺・位牌堂東側の丘(並んで2基ある墓碑の右側=東側)
大きさ:土台含めた全体の高さ150cm。墓碑本体の高さ96cm、横幅35cm、胴囲126cm(大きさの詳細は後の項目を参照) 
祖母の命日:天和(てんな、てんわ)4年(西暦1684年)2月9日

調査の事実経過:この墓碑について、2016年4月に妙宣寺のご住職から上野へ、先に掲載・紹介中の大村権七郎の墓碑について(文字解読含めた)調査依頼がありました。その後、今回紹介中の山口幸太夫祖母の墓碑と併せ、2基とも4月29日の拓本作業含めて、大きさ、緯度経度などの計測を数日かけておこないました。その後、墓碑に彫ってある文字解読は数か月かかりました。この解読作業時、大村市文化振興課の山下氏からアドバイスして頂きました。

 その後の2016年夏には、ほぼ全文解読が終了し、概要報告書も同年の秋には出来ていました。そして、2017月
2月13日、妙宣寺・本堂で開催された仏子会の講話(郷土史講演会)で、この2基の墓碑調査報告の発表も兼ねておこないました。(この講話の概要報告ページは、ここからご覧ください)

(右:拓本作業中)山口幸太夫祖母の墓碑(2016年4月29日)

概要
大村市福重町にある妙宣寺・位牌堂の東側の丘に、現在2基並んだ墓碑があります。両基とも関係ありますが、このページでは向かって右側(東側)の墓碑=山口幸太夫祖母の墓碑(やまぐち こうだゆう そぼ の ぼひ)について書いています。なお、既に掲載中の大村権七郎の墓碑紹介ページも、ご参照願います。

しかし、「元々、この山口幸太夫祖母の墓碑だけ、現在地から10m位離れた西側のやや今より下がった所から運ばれてきた」との伝承が地元ではあります。また、大村権七郎の墓碑は、建立当時から変わらずに現在地にあったと言うことです。つまり、その墓に並ぶようにして、山口幸太夫祖母の墓碑も移設されたということです。

現在地は、小高い所で、見晴らしその他、良い場所です。それに比べ、山口幸太夫祖母の墓碑の元あった場所は、位牌堂ができる前までは見晴らしは良かったと思われますが、先の墓碑に比べ一段下がった感じの場所だったようです。

ここからは、上野の推測・想像ながら、大村家(大村藩主)の息子=大村権七郎の墓碑に遠慮したため、当初は下がった場所に、今回の墓碑が建立されたのではないでしょうか。この墓碑の形状評価ですが、大村権七郎の墓碑との比較ではなく、他の同じ江戸時代初期頃の普通の墓碑との対比では、立派な方でしょう。

 詳細は、後の項目を読んで頂くこととして、今回の調査で分かったことが、いくつかあります。その中で、大村権七郎の母は、郡村に住んでいた山口家の娘ということから、今回の山口幸太夫祖母も同じ山口家ですので、権七郎と関係あると考えられます。


1)墓碑の大きさ、緯度経度などについて
 山口幸太夫祖母の墓碑(やまぐち こうだゆう そぼ の ぼひ))の大きさは、下表の通りです。また、その場所は、妙宣寺・位牌堂東側の丘にあり、現在は大村権七郎の墓碑と並んでありますので、分かりやすいです。そのようなことから、下記二つの表に分けて、墓碑の大きさと、その緯度経度などを書いていますので、ご参考にして頂ければと思っています。
ただし、緯度経度は大村権七郎の墓碑と1.5mも離れていないため、その計測値を表示しています。

山口幸太夫祖母の墓碑の大きさ

 墓碑全体  高さ:150cm  -  -
 墓碑本体  高さ:96cm  幅:35cm  胴囲:126cm
 土台  高さ:54cm  幅:92cm  奥行き:89cm

山口幸太夫祖母の墓碑(=大村権七郎の墓碑)、GPS実測値
 名称:山口幸太夫祖母の墓碑  場所:大村市 福重町 (妙宣寺)
 GPS実測値:北緯32度57分54.00秒、東経129度57分15.53秒  (国土地理院)地図検索用  32度57分54.00秒 129度57分15.53秒
 グーグルアース用数値:32°57'54.00"N,129°57'15.53"E  標高:GPS高度計は39m、気圧高度計は42m、地図上の標高は37.7m

2)墓碑の碑文ついて
 下記の右側が、山口幸太夫祖母の墓碑を拓本作業している時の写真です。これをもとに文字解読をおこない、左側に活字版として画像化しています。念のため、碑文は青色文字です。また、この画像でも充分、ご確認頂けるかと思いますが、下段にホームページ用として横書きにもしています。

山口幸太夫祖母の墓碑(活字版)
拓本中の山口幸太夫祖母の墓碑

碑文の活字化と横書き

碑文の活字化(横書き)
補足や注釈
     天和四甲子二月九日
 妙法 得来院妙舩霊尼
     山口幸太夫祖母
     天和(てんな、てんわ)(西暦1684年)甲子(きのえね、こうし、かっし)二月九日
(頭字) 妙法
(戒名) 得来院妙舩霊尼

・現代語訳
 上記を現代語訳して、まとめてみますと、次の<>内通りと思われます。 < (山口幸太夫祖母の墓碑は) (頭字、戒名が)妙法 得来院妙舩霊尼である。 (この祖母の命日は)天和(てんな、てんわ)4年(西暦1684年)甲子(きのえね、こうし、かっし)2月9日である。 >

 なお、補足ですが、上記通り、墓碑に祖母の名前(女性名)が彫ってありません。この種の例として、(墓碑ではないですが)「伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文(この碑文は工事の竣工記念碑みたいなもの)の中にも、女性名がなくて、「母」としか彫ってありません。当然、江戸時代でも女性の名前はあったにも関わらず、このような実例通りです。

 ここからは私の推測ながら、上記の江戸時代の墓としては立派な墓碑(=祖母)、あるいは先の竣工記念碑みたいな碑文(=「母」)に彫ってある女性ですので、それ相当の経済力含めた実力や実権のあった方々と思っています。しかし、江戸時代のことゆえ、この種の碑文には、女性名が彫っていないのでしょう。

3)大村権七郎との関係について
 この山口幸太夫祖母の墓碑と、先に掲載中の大村権七郎の墓碑
と関係あるか、どうかの件について、最初に結論めいたことを書きます。私は、「関係あるのでは」と思っています。しかし、何故このようなまわりくどい書き方になっているかと言いますと、2017年3月現在で、その決定的事実関係を調べきれていないからです。

 それと、今回の墓碑調査で拓本作業はしましたが、CG作業は未実施です。そのため、上記「2)墓碑の碑文ついて」項目の左枠にも書いていますが、「山口幸太夫」の「」が、「」の字にも見えるからです。わずか、一文字違いですが、このページでは、「」の字で統一して書いていますので、もしも違っていれば本ページそのものの大幅改訂が必要となってくるからです。2017年3月現在では、「」の字であろうとの前提で、さらに書いていきます。

右側が山口幸太夫祖母の墓碑(福重町、妙宣寺・位牌堂東側の丘)
注:左側は大村権七郎の墓碑

 ここからは、先の二つの墓碑に彫られている両名について、関係のある事項や補足を書き、後日新たに調べが進めばページ内容の改訂もしたいと考えています。なお、私が引用・参照しましたのは、(江戸時代、大村藩作成の)新撰士系録(以降、略称で「士系録」と称す)九葉実録大村郷村記です。

<両者(両墓碑)関係あると思われる事項>
 (1)山口幸太夫(祖母)も大村権七郎の母も、同じ「山口」姓で、同じ「郡村」でした。この事項について、士系録の山口幸太夫の項目には、「郡村」との表現もある記述があります。そして、大村権七郎の墓碑ページに書いてます通り、大村権七郎のは、大村郷村記の現代語訳では「郡村の山口氏の娘」です。そして、その関係から(私の推測ながら)大村権七郎自身も郡村生まれの郡村育ちだったと思われます。そのため、死後も郡村(妙宣寺の境内)に埋葬して欲しかったと思われます。

 (2)妙宣寺境内の「特別な場所」とも思える所に両墓碑はあります。ただし、山口幸太夫祖母の墓碑は、元は今より10m位離れた西側の低い所にありましたが、数十年前に移設され、現在、両基は並んだ状態になっています。この両墓碑の場所について、江戸時代の何か記録がある訳ではないので、直ぐに「両者(両墓碑)は関係ある」というものではないでしょう。

 しかし、両墓碑のある周辺は妙宣寺の境内でも、いくつかの石塔類はあるものの他の墓碑らしきものはない、ある意味「特別な場所」です。そのような所に、当初は離れていましたが、上記にも書きました通り、同じ「山口」姓、同じ「郡村」と関係ある両基があるということは、推測ながらも例えば<「親子」とか「夫婦」とか何か関係あるからこそ、両墓碑は近くの場所に建立されたのでは?>と考えるのが、むしろ普通ともいえます。

<補足や注釈>
 先にも書いています通り、私は両墓碑は近くにあるので、両者は何らかの「関係あり」と思っています。しかし、この山口幸太夫祖母の墓碑で、女性の名前が分かりませんので、士系録や大村郷村記では調べきれませんでした。あと、ここで両者の命日を下記に書いて、そのことからも推測を試みました。
  ・大村権七郎の命日:萬治(まんじ)4年(西暦1661年) 5月13日
  ・山口幸太夫祖母の命日:天和(てんな、てんわ)4年(西暦1684年)2月9日

(右:拓本作業中)山口幸太夫祖母の墓碑(2016年4月29日)

  上記から単純計算すれば、23年違いです。あくまでも私の推測で普通に考えるならば、この年代差は「親子」関係と思われますが、「夫婦」の場合もあるかもしれません。

 あと、次の説は、あまり考えにくいのですが、大村権七郎の母は、妾(めかけ、愛人)と言えども第4代藩主・大村純長と関係のあった人です。死後も、それなりの処遇があり、妙宣寺の境内、しかも息子(大村権七郎の墓)近く葬られた可能性もありうるかもしれません。ただし、この23年間の年代差は、大村権七郎の命日より、母の方が相当長生きしないと考えられないことでもあります。

 このように推測ばかり述べるのは、私の本意ではありません。いずれにしても、両者の基礎的史料が少ないので、この両者(墓碑)の関係は、現時点では、これ以上は不明です。何か新たに分かれば、追加掲載あるいは改訂もしていきたいと考えていますので、その点はご了承願います。

後書き


 (この原稿は準備中。しばらくお待ちください)


関係ページ:大村権七郎の墓碑 、 深重山・妙宣寺(じんじゅうざん・みょうせんじ) 


(初回掲
載日:2017年3月22日、第2次掲載日:3月23日、第3次掲載日:3月24日、第4次掲載日:3月26日、第5次掲載日:3月27日、第6次掲載日:3月28日、第7次掲載日:3月29日、第8次掲載日: 月 日)

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