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その32、竈権現の地蔵
写真
所在地:大村市寿古町 (寿古公園横) 竈権現前


 
この竈権現の地蔵(かまどごんげんのじぞう)は、寿古町にある寿古公園の横(東側)、市道脇にあります。建立は、江戸時代の「寛延三庚午(かのえうま、こうご) (1750) 年九月上旬」です。これよりも古い戦国時代に建立された六地蔵などは、大村市内に多数存在していますが、「江戸時代建立の地蔵としては、最古ではないか」ともいわれています。

 地元の古老の話によりますと、「竈権現は、今まで水害に遭っていない」との伝承があります。つまり、竈権現の地蔵も、先の地域伝承と同様だと言うことです。実際、この地蔵は、一部分を除き、ほとんど無傷状態ですので建立後から(2013年現在まで)約260年間、水害に見舞われなかったのでしょう。

 また、地蔵の本体・蓮華座・土台部分含めて上下・左右のバランスが良く、大変スマートな形です。碑文は、大文字は肉眼でも確認でき、小文字部分は一部風雪による痛みはありますが、拓本をとりますと視認できます。この竈権現の地蔵は、冒頭の紹介文の通り、寿古公園の横、市道脇にありますので誰でも見学できます。(左側写真中央は竈権現の地蔵、本体・蓮華座下部の土台に碑文がある。奥側の建物は竈権現)


竈権現の地蔵
の歴史(大村郷村記の内容など)
 竈権現の地蔵について、大村郷村記(藤野保編)には、第二巻、56ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため太文字に変えています。ですから、あくまでも下記はご参考程度に、ご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。

地蔵の土台(拓本作業中)
竈権現の)地蔵

地蔵菩薩 石立像 例祭九月二日
右寛延二己巳年九月氏子中より建立

現代語訳
 上記の大村郷村記を現代風に口語訳すると次の「」の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。 ( )内は補足、西暦、送り仮名などです。

 「 地蔵菩薩  石像で例祭は(毎年)9月2日である。 右(地蔵の石像)は寛延(かんえん)2年(西暦1749年)己巳(つちのとみ、きし)の9月に氏子(うじこ)達によって建立されたものである。 」

地蔵碑文の補足
 この項目は、結論から先に書けば、地蔵の建立年について、江戸時代に編纂された(大村)郷村記の記述内容が1年間違っています。この点について、補足として書いていきます。

 地蔵本体(蓮華座)の下側に長方形の土台があり、そこに碑文が彫ってあります。(右上側の2枚写真で左側の拓本写真を参照)その碑文を横書きに直しますと、下記の太文字通りです。なお、パソコン変換できない文字は、同じ意味の文字に変えています。

寛延三年  奉造立地蔵一体  九月上旬ニ

 これを現代語訳しますと、「一体の地蔵を建立し奉納する。寛延三庚午 (1750) 年九月上旬に建立した」となります。先の項目で紹介しています(大村)郷村記には、建立年について「寛延二己巳年九月氏子中より建立」と、書いてあります。つまり、たった1年違いではあるのですが、建立年について(大村)郷村記内容が、碑文と違うのです。

 どちらが正しいのかと言いますと、当然、地蔵の土台石に彫られた建立年の方が正しいです。ここからは私の推測ですが、江戸時代に地蔵の建立年を書き写された役人(武士)が、碑文にある漢数字の「三」を「二」と見間違ったと思われます。たぶんに、この作業をした役人は、拓本作業などをすることなく、「二」と勘違いしているので、漢数字の後の干支(えと)まで間違って記述しています。

 正確な碑文は、先の太文字の通りで、建立年は「寛延三庚午(かのえうま、こうご) (1750) 年九月上旬」です。

補足
 平安時代末期の建立と思われる10体近くの古い単体仏や、それらに比べれば新しいともいえる江戸時代建立の地蔵も含めて、福重には石仏が多く現存しています。ここで地蔵そのものの意味などについて、これまで、どのページでも触れてきませんでしたので、ここから主に辞典などを引用にして、書いていきたいと思います。次の<>内あるいは各(注)内容は、国語辞典の大辞泉からです。

野田の六地蔵
竈権現の地蔵

 <地蔵=釈迦の入滅後から弥勒(みろく)仏が世に現れるまでの間、無仏の世に住み、六道(注1)の衆生(しゅじょう)(注2)を教え導くことを誓いとした菩薩。中国では唐末、日本では平安中期から盛んに信仰された。像は慈愛に満ちた円満柔和な僧形に作り、多くは右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ。>

(注1):六道=仏語。衆生がその業(ごう)によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。六趣(ろくしゅ)。六界(ろっかい)。
(注2:衆生=仏語。生命のあるものすべて。特に、人間をいう。有情(うじょう)。

 古い地蔵の中でも、大村市内に多く点在するのは、六地蔵(注3)と呼ばれるものです。この六地蔵の建立は、戦国時代に流行したと言われています。右側写真にある野田の六地蔵は、様々な変遷がありますが、市内に現存する六地蔵の中では、保存状態は比較的良い方です。

(注3):六地蔵=仏語。六道のそれぞれにあって衆生の苦しみを救う6体の地蔵菩薩(ぼさつ)。地獄道の檀陀(だんだ)、餓鬼道の宝珠(ほうじゅ)、畜生道の宝印、修羅道の持地(じじ)、人間道の除蓋障(じょがいしょう)、天道の日光の各地蔵菩薩とするが、異説もある。

 一般に地蔵は、「お地蔵さん」とか呼ばれているのは、市内では六地蔵のことではなく、竈権現の地蔵と同じような単体での地蔵のことを市民の方は呼称されているようです。そして、何故このような地蔵や石仏が建立されているのかについてです。

 (木造、石造その他も含めて)仏像建立の要因については、様々な説があるのですが、例えば平安末期などに流行した末法思想、鎌倉時代の蒙古軍の襲来、戦国時代の争乱の世など、それ以外にも疫病の流行、天変地異、周辺で発生した大火災や事故による犠牲などによって、人々が社会不安から家族の不安まで、様々な恐れやおののきを感じた時に建立された例が多いとも言われています。

 そのような中でも、庶民から「お地蔵様」、「お地蔵さん」とも呼ばれている地蔵は、ある意味、家族や周辺地域で起こった身近な不安や災いに対応するため地蔵にすがって建立した場合も多いのではないではないでしょうか。竈権現の地蔵は、江戸時代に竈権現の氏子一同で建立されていると推測されるので他の地蔵と同じく、地域の身近な存在として信仰心も篤く続いているのでしょう。

(初回掲載日:2013年10月12日、第2次掲載日:2013年10月18日、第3次掲載日:2013年10月22日)

 

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