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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など    大村の海軍指揮所跡
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   (写真1) 1994年当時の第三五二海軍航空隊(草薙部隊)
文字の左側は隊舎(現在の大村市立郡中学校の敷地、沖田町)
(出典:<2015年度 大村市立史料館特別展の冊子「軍都」大村の歩みと市民
~回顧1896ー1945~>の6~7ページ掲載写真より複写。トリミングし、一部CG加工した)

 補足:この写真と名称文字までの敷地は、ほぼ正確に表現されている。しかし、下記の「画像A」の四角の紫色部分で示してある「三五二空(草薙部隊」の敷地としては間違いである。この点の詳細は下記の左側欄を参照。

 注:当然、この第352空の海軍航空隊にも指揮所はあった。
 (写真2) (右側写真はグーグルアースより)黄色点線内は皆同砲台跡 中央部緑色の山林中、目測で南北(横幅)約160m、東西(縦)約70mの間に砲台施設((砲座、指揮所・電気・無線・弾薬庫・倉庫・炊事場・兵舎など)があった。この写真では極一部しか写っていない.。

 注:当然、この皆同砲台にも指揮所はあった。
画像A:中央部の大きい紫色の敷地が大村海軍航空隊のあった所で、その左側(北側)の四角形の紫色部分が第三五二海軍航空隊(草薙部隊)=現在は郡中学校の敷地である。
 注意:先の三五二空(草薙部隊」を示している四角の紫色部分だけでは、敷地的に間違いである。上記(写真1)の説明文の通り、右側(南側、宮小路町方向)へ、もっと大きく敷地は広がっていた。上記(写真1)が、ほぼ正しい表示である。

 また、四角形の紫色部分の下部(西側や北側)方向付近にも飛行機を隠すためのカムフラージュ網などの敷地=駐機場などもあり、そこへ飛行機を動かす誘導路などもあった。
しかし、そのような場所は、「画像A」には表示してない。

 <右側の「画像A」は、「放虎原は語る」(1999年3月31日、大村市発行)の付録地図から、上野が複写、トリミングして一部CG加工した。特に、見やすくするため大村湾を水色へ彩色もした>

 
注:この地図の左端側上部の紫色円内に「福重の壕内指揮所」の文字が見えている。
指揮や指揮所跡の用語解説
(画像A) 紫色の円内に「福重壕内指揮所」の文字がある
この円内には海軍指揮所だけでなく、福重砲台(通称「今富砲台」)、他の防空壕、
さらに三角兵舎なども含まれているようだ。
下記の青文字はデジタル大辞泉の解説より
 
指揮(しき)=1 全体がまとまりをもって動くよう、人の上に立って指図をすること。「大会運営の—を執る」 2 合奏や合唱などの演奏を統率すること。「コーラスを—する」

陸海軍の組織状況と指揮について
 上記の国語辞典も参考にして、陸海軍の組織状況や指揮についての詳細解説するには、小冊子ほどの文章量が必要である。このページでは、それは書ききれないので、省略して簡単に書いていきたい。

(1) 戦前の陸軍組織
(階層、編成)の場合、例えば師団、旅団、連隊、大隊、中体、小隊、部隊、班あるいは臨時編成の派遣隊などもあった。

(2) 戦前の海軍組織
は、例えば海上では、艦艇ごとに組織は分かれ、陸上でも様々な名称の組織があった。また、航空戦力の部隊については、番号で分けられてもいた。一例ながら大村での番号表記で有名なのは、第352海軍航空隊(通称「草薙部隊」)である。

 上記の陸海軍の大小は別としても、ほぼ全部の組織指揮官(将校、士官、下士官など)がいて、各所属に日常の軍務から戦時の作戦まで命令し、逆に報告を受けてもいた。その場所などが、通常「指揮所」と呼ばれていた。

大村の海軍指揮所跡について

 (この原稿は準備中。しばらく、お待ち下さい)


軍事施設や指揮所があった影響は

 (この原稿は準備中。しばらく、お待ち下さい)


補足

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



 (初回掲載日:2024年2月8日、第2次掲載日:2月9日、第3次掲載日: 月 日、第4次掲載日:月 日)
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<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
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