最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など    世界初の渡洋爆撃<大村海軍航空隊から離陸(発進)した攻撃機> 
もくじページへ戻る
世界初の渡洋爆撃(<大村海軍航空隊から離陸(発進)した攻撃機>
 (写真1)  (中央やや右側が)大村海軍航空隊 1994年の航空写真  <この写真は「軍都」大村の歩みと市民の6〜7ページの写真をトリミングしたもの>

 草地の飛行場を中心に隊舎(左下部の枠内の写真は庁舎)畜舎などもあった。(場所は右から旧・大川t田郷・今津郷・黒丸郷などに飛行場はあった)

  上部の直線道路は現在の国道34号線、左端側は郡川、下部は大村湾  <注:左上側の「三五二空(草薙部隊)」は別ページで紹介>
 (画像A) 中央部の大きい紫色の敷地が大村海軍航空隊のあった所。

 <この地図は「放虎原は語る」(1999年3月31日発行)の付録地図を、上野がトリミングや一部彩色加工した>

<用語解説>
 ・渡洋(とよう)=広い海を渡っていくこと。(デジタル大辞泉より)
 ・爆撃(ばくげき)=飛行機から爆弾などを投下して攻撃すること。(デジタル大辞泉より)
 ・攻撃機(こうげきき)=敵の地上目標や艦船の攻撃を任務とする航空機。(デジタル大辞泉より)
 ・爆撃機(ばくげきき)=爆弾を搭載し、爆撃を行うための軍用機。(デジタル大辞泉より)
 ・無差別爆撃(むさべつばくげき)=軍隊・兵器工場などの軍事目標と、一般市民や民間施設を区別せずに行う爆撃。非人道的な行為であるとして、国際法上では違法とされる。(デジタル大辞泉より)
 ・第二次上海事変(だい2じ しゃんはい じへん)=「A(第2次)盧溝橋事件に関連して、上海で生じた日中両軍の戦闘。1937年8月13日に始まり、日中戦争の全面化に連なる。」(広辞苑より)

 ・九六式陸上攻撃機(きゅうろくしきりくじょうこうげきき)は、大日本帝国海軍の陸上攻撃機。九六式艦上戦闘機と並んで、日本の航空技術が欧米と同等のレベルまで進んだことを示した最初の機体である。当時としては高い航続性能を有し、太平洋戦争開始前の日中戦争(支那事変)から太平洋戦争の初期まで第一線で活躍した。なお海軍の命名法によって急降下爆撃ができない本機は爆撃機ではなく攻撃機とされた。(フリー百科事典ウィキペディアより)

 注:この渡洋爆撃した攻撃機の所属航空隊(所属基地)は、(千葉県の) 木更津海軍航空隊(きさらづかいぐんこうくうたい 下記参照)である。ただし、この木更津海軍航空隊離陸(発進)したのは、大村(当時、まだ「竹松村」)にあった大村海軍航空隊からである。

 注:木更津航空隊とは、日本海軍の部隊の一つ。鹿屋海軍航空隊と同時に開かれた日本初の陸上攻撃機部隊として、太平洋戦争開戦前の日中戦争(支那事変、日華事変)序盤・中盤と太平洋戦争(大東亜戦争)序盤は爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。1942年(昭和17年)11月1日に第七〇七海軍航空隊(だい707かいぐんこうくうたい)と改称し、翌12月1日に七〇五空へ編入されて解隊した。(フリー百科事典ウィキペディアより)

大村海軍航空隊の詳細は、ここからご覧下さい。

はじめに------引用・参照の書籍類や、地元伝承などについて
  まず、この「世界初の渡洋爆撃」は、1937(昭和12)年8月13日から始まった「第二次上海事変」直後からである。また、この渡洋爆撃した攻撃機の所属航空隊(所属基地)は、(千葉県の) 木更津海軍航空隊(きさらづかいぐんこうくうたい)である。ただし、この木更津海軍航空隊が、大村(当時、まだ「竹松村」にあった)大村海軍航空隊から中国に向けて離陸(発進)した。

 これから、このページに引用、参照している書籍類や、地元 大村市内(特に竹松地区周辺)で聞いた話を先に書いていきたい。まず、国語辞典関係は、先の「用語解説」の引用先通りである。また、「戦略爆撃の思想 新訂版」(2006年8月,前田哲男著)2005年6月14日付け長崎新聞の「戦争の記憶5」 、「新編 大村市史 第四巻(近代編)」 、<「軍都」大村の歩みと市民( 2015年度 大村市立史料館発行)>、「むかしの竹松(1997年12月、竹松を語る会発行)などである。

画像A戦略爆撃の思想 新訂版」の表紙
(2006年8月10日、,前田哲男著)
 ただし、この「渡洋爆撃」をセンセーショナルに報道したといわれている1937(昭和12)年8月当時の各新聞は、現時点(2022年3月現在)では、まだ未確認である。なお、念のため、先の書籍類などは、沢山ある内のほんの一例である。この件を取り上げている書籍類は、まだまだ、いくつかあるようなので、それらを確認できしだい紹介していきたい。

概要説明
 先に紹介した書籍=「戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島 新訂版 (2006年8月10日、前田哲男著)72〜83ページまでの「南京渡洋爆撃」の節に、今回紹介の大村海軍航空隊(草地の飛行場)から出撃、渡洋爆撃をおこなった木更津航空隊の攻撃機のことが書いてある。また、この本を引用、参照され、2005年6月14日付け長崎新聞の「戦争の記憶5」には、次の<>内のことが記述されている。

 < (前略) 日中戦争勃発直後の三七年八月十五日。大村海軍航空隊基地を発進した九六式陸上攻撃機二十機が東シナ海を越え、当時蒋介石政権が置かれていた中国・南京を爆撃。約九百六十キロを四時間で飛び、各機十二発ずつ搭載した爆弾を南京の飛行場周辺二カ所に投下。世界で初めての本格的な「渡洋爆撃」だった。

 大村基地などからの攻撃機が南京、上海などの都市に実施した爆撃は「無差別爆撃」と国際社会の非難を浴びた。空襲回数は一説では一都市で数十回、延べ数千機がおびただしい数の爆弾を落としたとされる。「『軍事目標』と『市街地』の境界は急速にあいまい化」(同書)し、多くの民間人にも犠牲が出たという。 (後略)  

 念のため、先の長崎新聞の内容や、さらに言えば参照元の書籍「戦略爆撃の思想」には、もっと多くの詳細な記述が当然してある。 なお、ここで上野作成の、このページを閲覧された方へ、お願いがある。もしも、引用・参照される方は、上記の通り、わざわざ何回も先の書籍名を明示しているので、必ず原本から参照願いたい。

 あと、上野は、先の長崎新聞の記事にある渡洋爆撃期間回数について、例えば、他にも当時の別の新聞が、センセーショナルに「世界初の渡洋爆撃」などと報道した内容や、アジア歴史資料センターなどに所蔵されている資料類(海軍などからの発表資料や戦時日報など)を調べている。そして、この当時の海軍発表資料と思われるので、その一部を下記に紹介したい。

海軍発表資料と当時の新聞報道内容


 (この項目の原稿は準備中。しばらく、お待ち下さい)



当時の国内外の反響と、その後の爆撃


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



補足

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



 (初回掲載日:2022年3月15日、第2次掲載日:3月23日、第3次掲載日:月 日、第4次掲載日:月 日)
--------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・
<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
       
   もくじページへ戻る

最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク