最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
大村の城シリーズ 新城(しんじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  新城(しんじょう)
(2)別名  杭出津砦(くいでつとりで)
(3)所在地  大村市杭出津1丁目(JAながさき県央・大村中央支店周辺)
(4)築城年代  戦国時代(築城は大村純忠の頃)
(5)形式・特徴  平城
(6)城主など  -
(7)現状(遺構)  城遺構などはない
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記
(9)土地や管理など  私有地

(10)補足、感想など
  新城は、江戸時代の(大村)郷村記には記述されている。近代・現代の書籍類で詳細に書いてあるのは、新編 大村市史第四巻 中世編(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行、822ページ)である。あと、いつも大村の城シリーズで、多く掲載してきた『大村市の文化財』には書いてない。

 また、このシリーズでは 江戸時代に描かれた大村藩領絵図も紹介している。この絵図には確かに「新城」と言う文字が海(大村湾)側に見えるが、これは同名の地名を表しているもので、城跡の新城を描いたものではないと思われる。なぜなら、陸地にあった城跡を、わざわざ海には描かないと思えるからだ。

 この周辺は、戦国時代ならば海の近くに漁村はあったかもしれないが、それ以外は何もさえぎるものがないくらいに平らな所である。そのためか築城しかかったものの、城には適さないなどの理由からと思われるが、途中で放棄したといわれている。そのため、城遺構や遺物などは、ほとんどないと推測される。

 先の状況からして現在の風景写真撮影はしたが、上野個人が何か特別に城跡調査をしたことはない。以上のことから今回このページには、冒頭に紹介した大村市史第四巻 中世編(822ページ)を引用・参照して書いていることは、あらかじめご了承願いたい。なお、引用される方は、必ず原本を参照願いたい。


1)新城を紹介するにあたって
 新城に関して記述してあるのは、主に江戸時代作成の(大村)郷村記及び(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行の)『新編 大村市史・中巻』です。(大村)郷村記紹介は、後の項目で書きます。その前に、『新編 大村市史・中巻』(822ページ)を引用して、下記< >内に書いていきます。

 ただし、原文は全て縦書きですが、ホームページ用に横書きに直し、改行なども変えています。引用される方は、必ず原本からお願いします。あと、念のため、このシリーズで毎回のように紹介しています『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会)には、記述がありません。

写真中央部(JAながさき県央・大村中央支店)周辺が新城跡(グーグルアースより)

写真中央部(JAながさき県央・大村中央支店)周辺が新城跡(2015年6月4日撮影)

  二.新城(杭出津砦)
 大上戸川河口の右岸に広がる標高約四メートルの平地上に立地する平城である。現状は 宅地と水田であり、当時の遺構はほとんど見られない。 『大村郷村記』には杭出津砦として、「大手は巽(北東)の方、搦手は戌(北西)の方 に向き、郭内三○○坪(約九九○平方メートル)」とあり、天正三年(一五七五)に大村純忠 が構えたという記述がある。

 当時、純忠は肥前佐賀の龍造寺隆信と交戦しており、 龍造寺氏と和睦して大村領内を攻めとらんとした平戸松浦氏の海域からの襲来に備 えるため、家臣の今里政勝、政清父子を置いて守ったという。 その後、喜前の代になり、朝鮮出兵時の経験から防御を考慮すると海際に近い位 置が望ましいということから、この杭出津で居城の築城を始めた。

 ただ、普請の途中で一部の家臣から要害としては適さないということから中止され、玖島の地に移されたという。矩形の水田に囲 まれた微高地にある大村市農協会館がある場所が城の中心地と考えられるが、現状の地形から判断することは難し い。 

写真説明について
 右側1番目と2番目写真の説明をします。両方とも写真中央部にあるのは、「JAながさき県央・大村中央支店」です。城遺構などはないのですが、この建物周辺だけが他の地面よりも、ほんの少し高いこともあり、新城(杭出津砦)中心地ではないかとも言われています。

  あと、(大村)郷村記には、「郭内300坪(約990平方メートル」と書いてあります。大村市内の農家(宅地)は、住居だけでなく農作業用の小屋や庭などもあるので、その敷地面積は現在でも300〜500坪程度の広さは、ざらにあります。

 つまり、先の(大村)郷村記内容が正しければ、新城(杭出津砦)の面積は、市内に沢山ある農家の敷地と、そう大きく変わらない程度だったということです。なお、ご参考までに、この「JAながさき県央・大村中央支店」の建物は、目算ながら長辺約55m、短辺約30mですから単純計算で1650平方メートル(約500坪)です。

 この建物面積対比で城(砦)の敷地は、約60%だったと言うことです。なお、市内に沢山ある城(砦)跡と比較しても、新城(杭出津砦)は小さい方だったと言っていいでしょう。

2)新城と大村郷村記の記述
  江戸時代の大村藩が編纂した郷村記(通称:大村郷村記)「久原・池田之部」の「古城蹟?古舘蹟之事」の項目に、「杭出津砦蹟」(注:新城のこと)として書いてあります。この大村郷村記によりますと、「杭出津砦」については、次の「 」内通りです。ただし、昔の難しい漢字のためパソコン変換できない文字は、それに似た文字に上野の方で変えるか、?文字にしています。また、2行になっている部分は( )の1行にもしています。

  あと、原文は縦書きの続き文ですが、ホームページ用に横書きに直し、見やすいように一部空白(スペース)を挿入し、改行も変えています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。

 「 一 杭出津砦蹟
大手 巽の方二向 搦手 戌の方二向 郭内三百坪、三方ハ堀 (今田の中に堀の形現存す) 南は川、未申酉の方海に属するなり (此砦は川嶋啓助先祖今里藏之允政清代、丹後守喜前より居屋鋪に賜り代々爰に佳居す、先是此所を高出崎と云、然るを政清に賜る時川嶋と改、政清四世の孫武兵衛長忠代、因幡守純長の命によつて氏を川嶋と稻す)

此砦蹟は玖嶋城下新城海邊にあり (今の川嶋啓助屋鋪是なり)  天正三?乙亥年大村丹後守純忠構之なり

家記ニ曰、純忠頃年龍造寺山城守隆信と藤津郡内二於て交戦止時なし、松浦氏龍造寺と和睦して大村領内を攻取らんと謀る、殊に海邊には平戸の海賊不意に來りて亂妨す、若龍造寺・松浦海陸より襲ひ來らん事を慮て、守禦の爲杭出津海邊に此塞を築、家臣今里主馬之允政勝、其子内藏之允政清父子をして守之しむ (此砦跡寛永十四年依臺命殿之) 

現代語訳
 上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、(大村)郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、杭出津砦蹟(新城)の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

写真中央部(JAながさき県央・大村中央支店)周辺が新城跡(2015年6月4日撮影)

   一つ 杭出津砦蹟」(新城のこと)
(城の)正面は東南に向いている。(城の)裏門は西北西に向いている。郭内(城内)の(広さ)は三百坪(約990平方メートル)である。三方は堀である。(今は田んぼの中に堀は現存している) 南(の方角)には川、南西(及び)西方向は海(大村湾)である。

(この砦は川嶋啓助の先祖にあたる今里藏之允政清の代に、丹後守(大村)喜前より住宅用の屋敷として賜ったので、それから代々、ここに居住している。以前からここを高出崎と言う。そのようなことから 政清に賜った時、川嶋と改め、政清の4代後の孫武兵衛長忠代は因幡守大村純長の命令によって氏名をかえた)

この砦蹟(跡)は玖嶋城下の新城の海辺にある。(今の川嶋啓助の屋敷がこれである) 天正3年(1575)乙亥(きのとい、いつがい)、大村丹後守純忠が構えたのが、これである。

(大村家)家記(記録)によると、(大村)純忠の頃、(佐賀の)龍造寺山城守隆信と、(佐賀の)藤津郡内において交戦が止むことはなかった。(また)松浦氏と龍造寺と和睦(和解)して、大村領内を攻撃して(領土を)取ろうと謀っていた。とりわけ海辺(海岸線)には平戸の海賊が不意に来て乱暴した。もしも龍造寺・松浦が海や陸より襲ってきたらと考えて防御(守備)のために杭出津の海辺に、この要塞(砦)を築いた。

  (大村家の)家臣の今里主馬之允政勝、その子どもの内藏之允政清の父子をして、これを守った。 (この砦跡は寛永14年=1637年に殿の命令により、この通りになった) 

補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


初回掲載日:2015年7月3日、第2次掲載日:7月4日、第3次掲載日:7月5日第4次掲載日:7月16日第5次掲載日:7月 日第6次掲載日:7月 日第7次掲載日: 月 日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

「大村の歴史」もくじ


最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク