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大村の城シリーズ 塔の峰城(とうのみねじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  塔の峰城(とうのみねじょう)
(2)別名  -
(3)所在地  大村市陰平町(かげひらまち)
(4)築城年代  (詳細は不明) 戦国時代
(5)形式・特徴  平山城 
(6)城主など  不明
(7)現状(遺構)  (現在は雑木林となっている。城址東側の5分1ほど道路拡張時に切り取られた)
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記に記載されている
(9)土地や管理など  -

(10)補足、感想など
  塔の峰城は、鈴田地区内の城址では、最も南西部に位置する。現在の道路上だけから考えれば、「なぜ、こんな所に城があったのか?」との疑問を持たれる方もおられるかもしれない。仮に大村市街地から陰平町や三浦地区の海岸沿いに行く場合、長崎県道37号大村貝津線で行く場合が多い。

 しかし、江戸時代に作成された大村藩領絵図の下鈴田村周辺当時の道は、もっと内陸部にあった。(戦国時代も同様と思われる)つまり、現在のJR大村線・岩松駅より東側へ約200m地点から、ほぼ直線状に三浦海岸沿いにある長崎県立精神医療センターの西側約300m地点を結んだ線上に道があった。そして、この道の西側数百メートルに塔の峰城は、位置していた。

  その状態からして、もしも諫早の軍勢が三浦海岸沿いで攻めてきた場合、鈴田川を背にして戦えば最後の防御ラインの城が、この塔の峰城だった。この城を突破されれば、あとは鈴田川を渡って進軍を許すことにもなりかねないので、その防御上の意味で、この城は重要な役割があったと思われる。

  江戸時代に編纂された(大村)郷村記によれば、朝長右衛門大夫純織が諫早勢に防戦し、打ち死にした城とも言われている。このように、この塔の峰城は、実戦の古記録が残る城址でもある。なお、書籍類で塔の峰城が紹介されているのは、先の(大村)郷村記や、現在も発売中の『大村市の文化財』(最新版は2012年3月29日)に書いてある。


1)塔の峰城を紹介するにあたって
 塔の峰城に関して記述してある江戸時代作成の(大村)郷村記紹介及び(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行の)『新編 大村市史・中巻』は、後の項目で書きます。その前に、『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会)27ページに、その概要が書いてありますので、先にこれを引用して、下記「 」内に書いていきます。

写真中央部から左側(西側)の山が塔の峰城址 <中央下部の道路建設によって城址右側(東側)は相当切り取らている>

 「 塔の峰城跡  この城は、現在のライスセンター前方の小山の所にありま した。 郷村記の鈴田村の項に「釜川内海際(うみぎわ)よ り109mほどの東の方…頂上平地の東西約46m、南北22mの雑木山、四方は切岸のように険し い。

東北の方は田原、南西の方は深い谷、南の方は高くなって尾根続きで途中に堀切があり、ここは大昔、諌早の領主西郷氏の軍勢が鈴田村に攻め込んで来た時に、朝長右衛門太夫純職(すみかね)がここで 防戦して、とうとう討死にをした所」と記録されています。 首は諌早に持ち去り、中井原という所に埋めてあり、胴体は六本松に埋葬したといわれ墓碑が建っています。  」

・右側1番目写真の説明
  この写真は、現在の南部地区ライスセンター周辺(南南東側)から撮ったものです。写真中央部から左側(西側)にかけて(尾根状の)小山が、塔の峰城址です。この写真では左端側が切れていますが、小山の現状は左側(西側)へ、もっと続いています。

  写真中央下部に市道(舗装道)があります。この道は、道路拡張時に尾根状の小山(塔の峰城址)東側を切り取って造られたものと思われます。私の想像ながら戦国時代頃の小山は、あと十数メートルもしくは数十メートル、東側へ伸びていたと思われます。

2)塔の峰城大村郷村記の記述
 江戸時代の大村藩が編纂した郷村記(通称:大村郷村記)鈴田村の古城蹟之事の項目に、「塔の峰古城」(注:塔の峰城のこと)として書いてあります。この大村郷村記によりますと、塔の峰城については、次の「 」内通りです。ただし、昔の難しい漢字のためパソコン変換できない文字は、それに似た文字や不明文字の?に上野の方で変えています。

  あと、原文は縦書きの続き文ですが、横書きに直し、見やすいように一部空白(スペース)を挿入し、改行もしています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。

写真中央部の山が塔の峰城址(グーグルアースより)

  一 塔の峰古城  釜川内海際より壹町程東の方塔の峰と云ふ所にあり、頂上平地東西貮拾六問、南北拾貮間、雑木山四面切岸の如し、東北田原、南西深谷、南の方高尾績にて堀切あり、又塔の峰より辰巳の方壹町程の所に萬作畠といふ所あり、此所往昔諫早の領主西郷の兵鈴田村へ攻入る時、朝長右衛門大夫純職、此處にて防き戦ひ遂に討死せしと云傳ふ 年月不詳

天和の比、此畠にて具足の札又ハ刀なと堀出セし事あり、數年土中に埋れありし故、?廢し立ちさりしとなり、又赤銅の笄を掘出せし由、右衛門大夫首は諌早の中居原と云所へ納めある由、今に標の松塚ありと云、胴は久原分須田の木六本松と云所へ納めあるよし、其時右塚の印に松六本を植、故に此所を今に六本松の墓と名付るよし云傳  

現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、(大村)郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、塔の峰城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。


< 一つ 塔の峰古城  (鈴田村の)釜川内(かまがわち)の海際(うみぎわ)より約109mほど東の方に塔の峰と言う所がある。頂上は平地で東西約46m、南北約22mである。雑木(林)の山で四面(四方)は切岸のようになっている。北東部は田畑で、南西部は深い谷である。南の方は高い尾根続きで堀切がある。

 また、塔の峰(城)から南東の方へ約109mほどの所に萬作畠と言う所がある。この場所は、昔、諫早の領主(であった)西郷の兵(軍勢)が鈴田村に攻め入った時に、朝長右衛門大夫純職(すみかね)がこの場所で防戦したが、ついに(結局は)討ち死にしたと伝わっている。(その戦の)年月は、分かっていない。

 天和(年間=1681〜1683年)の頃、この畑で具足(鎧、甲冑)の札または刀などが彫りだされたことがあった。何年か土の中の埋まっていたので、朽ち果ててしまっていた。また赤銅色の笄(こうがい、髪用の装飾具)も掘り出したと言われている。

 右衛門大夫の首は諌早の中居原という所へ納めてあると言う。今そのしるしに松塚があると言う。(右衛門大夫の)胴は、久原分、須田の木の六本松という所に収めてあるようだ。その時の右塚の目印に松の木6本を植えた。そのことから、この所を六本松の墓と名付けたと言う伝承がある。  >

塔の峰城の縄張図新編 大村市史 第二巻 中世編830ページより複写。作図は大野安生氏)

3)大村市史の記述と縄張り図
 2014年3月31日に『新編 大村市史 第二巻 中世編(大村市史編さん委員会)が、発行されました。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史830ページに「三 塔之峰城」の記述と「塔之峰城縄張図」があります。縄張り図の作図は、大野安生氏です。今回、下記の通り、市史の記述内容と縄張り図を紹介します。

 原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。また、縄張り図の縮尺比率は同じでも、サイズは違っていますので、その点もご了承願います。

「 塔之峰城 大村市陰平町に所在し、鈴田川流域を守る城の 一つである。鈴田川の南側に位置し、標高約四〇メートルの低丘陵上に立地している。

  『大村郷村記』には「頂上平地東西武拾六間(約四七メートル)、南北拾武間(約二二メートル)、雑木山四面切岸の如し」 とあり、昔諌早の領主西郷氏の軍勢が鈴田村に攻め込んできた時に、朝長右衛門太夫純職が防戦し討ち死にした戦に使った城といわれている
 
 中央に楕円形の自然地形を残した緩やかなつくりの主曲輪があり、その両側に切岸が明瞭な幅広の帯曲輪 が配置されている。

 曲輪の南側、現在市道の切り通しには堀切があった可能性がある。曲輪の北側には堀切(a)と土塁が見られ、 その北側には緩やかな細長い丘陵が伸びるが、切岸などの遺構を見ることはできない。  

補足



(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2014年11月29日、第2次掲載日:12月7日、第3次掲載日:12月11日第4次掲載日:12月14日第5次掲載日:12月31日第6次掲載日:2014年 月 日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

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