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大村の景色シリーズ 全国百選の地 野岳湖(野岳ため池)

野岳湖(野岳ため池)のデータ
項   目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  野岳湖(のだけこ)、野岳ため池(のだけためいけ)  一般には野岳湖の呼称である
(2)別名  野岳大堤(のだけおおづつみ、江戸時代の大村郷村記などの名称)
(3)所在地  大村市東野岳町(多良岳県立公園内)
(4)年代  1年7カ月の歳月をかけて寛文3年(1663)に完成した人造湖である
(5)形式・特徴・規模など  灌漑用(農業用水確保)ため池、全国ため池百選に選ばれた、周囲3km、貯水量120万トン

(6)現状や周辺施設など

 儀太夫記念館、ロザ・モタ広場、多目的広場、水辺の広場、トリム広場、キャンプ場など
(7)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  大村藩領絵図には「大堤」、(大村)郷村記には「野岳大堤」と書いてある
(8)土地や管理など  野岳湖の利水は水利組合関係、湖の周辺諸施設は主に大村市の管理
(9)景色のグレード  ☆☆☆☆☆最高ランク(郡岳などの連山を背景に前景の野岳湖は一幅の絵のようだ)

(10)補足、感想など


<野岳湖の名称について>

  上記(1)の通り、一般の名称は野岳湖である。念のため、ここでは「全国ため池百選」に選ばれたので”野岳ため池”とも書いているが、通常この名称は使用されていない。

 江戸時代に作成された大村藩領絵図には「大堤」、同じく(大村)郷村記には「野岳大堤」とかいてあるので昔の呼称は「野岳大堤」あるいは大村弁で「のだけんつつみ(野岳堤)」との言い方が一般的であったと推測される。

 野岳湖の呼称は、戦後しばらして「長崎県立公園条例」が制定され、その一つとして多良岳県立公園が選ばれ野岳湖周辺も入ることとなって、この名称が段々と県内で定着してきたと思われる。

<風光明美、豊かな自然が楽しめる野岳湖周辺>
 この場所へ、バスや車で来て降車したら目の前は豊かな自然が広がっている。このような観光地は県下有数といえる。春にはバス停横の駐車場脇や湖周辺で見事な桜が見学できる。

 また、野岳湖のまわりにある上記(6)の「周辺施設」あるいはゴルフ場を始めとする民間施設を含めれば観光用、レクレーション、家族連れで楽しめる各種施設は沢山ある。そのため春夏秋冬いつでも、ゆっくりと家族連れでも楽しめる場所である。

 あと、郡岳(826m)の山麓(ゴルフ場近く)には旧「ながさき自然休養林」があった所である。今でも散策コースは残っているので森林浴や野鳥観察などには、もってこいの場所である。


野岳湖(野岳ため池)の概要紹介
 野岳湖(野岳ため池)は、大村市東野岳町にあり、灌漑(農業)用水確保のために造られた溜池(人造湖)です。湖周辺は、多良岳県立公園内でもあります。湖の規模は、周囲3km、貯水能力120万トン、灌漑田畑は100haといわれています。築堤の歴史は、江戸時代初期、クジラ漁で財をなした深澤義太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)が、私財を投じ寛文元(1661)年8月に着工し1年7カ月の歳月をかけて寛文3(1663)年3月3日に完成しました。

  その当時は、「野岳大堤(のだけ おおづつみ)」などと呼ばれ、現在は野岳湖の名称が一般的です。完成後から現在まで松原、福重などの田畑へ農業用水を供給する役割を果たしています。あと、この野岳湖は、農業用だけではなく多良岳県立公園内で風光明美な所ということもあり、湖周辺には広場、キャンプ場、その他多くの施設があり、豊かな自然の中で楽しめる場所です。

郡岳(こおりだけ、826m、重井田町)
旧石器時代、野岳遺跡の細石器

野岳湖などの歴史紹介
 野岳湖(野岳ため池)は、江戸時代の造られたので、その件は後で書きます。まずは、湖が出来る以前、この周辺の地形がどうなっていたかについて先に概要を述べます。

旧石器時代の野岳遺跡も出土した地域
 この周辺の地形を造ったのは、多良系火山の活動によるものや、その後の雨水や川などによる浸食活動などと推測されます。多良山系の中でも、野岳湖から見える経ケ岳(1076m 黒木町)は60万年前にでき、郡岳(826m 重井田町)、鉢巻山(335m 野岳町)、武留路山(341m 東彼杵町)は、多良火山の溶岩の上に噴出した寄生火山と言われています。(詳細は「福重の土地の形成」または「大村の土地の形成」ページ参照)

 特に、この湖周辺とも関係が深い山でもある郡岳の溶岩は、安山岩で多良山系の最後の溶岩とも言われています。この溶岩の先端部みたいな所が、野岳湖から近い距離にある御手水の滝(通称「裏見の滝」、落差約30m)もある横幅約100m、高さ約40mの巨大な一枚岩です。

 そして、郡岳の中腹部に源を発した拂川(祓川、はらいがわ)は、下ると現在の野岳湖(築堤される以前は尾根、川、谷間や田畑だった)、さらに下流側へ行くと拂堤(はらいづつみ)御手水の滝(通称「裏見の滝」へと続き、この川と佐奈河内川(さながわちがわ)の合流地点が重井田ダムとなります。

 あと、湖西側近くにある公園管理事務所下側付近から、旧石器時代の野岳遺跡が出土しました。(この野岳遺跡の詳細内容は、「大村の原始時代」ページを参照) 概略言いますと、大村の原人は約1万3000年前頃から海抜200〜300mの山間部で、狩や木の実などの採取をして暮らし始めたものと考えられます。

 つまり、丘陵部には違いはありませんが、人が狩りや木の実などが採集できて、なおかつ住みやすい平坦な場所も、当時この周辺にはあったとも想像されます。時代は下って、人自ら食料を得るために稲作や耕作がおこなわれてきた縄文・弥生時代頃になると、水や耕作地の確保が容易な平野部(例えば今富町の岩名遺跡沖田町や黒丸町の黒丸遺跡など)に、人は主に移っていったと思われます。

深澤儀太夫勝清 (掛け軸の一部分を撮影)
 江戸時代、2基の木井桶(きいび)の改修工事記念碑
 
2014年5月3日当時、まだ工事中の野岳湖の堤防(堤体)
野岳湖(野岳ため池)の築堤
 野岳大堤(野岳湖)は、江戸時代初期の捕鯨業者の深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎいだいゆう かつきよ)によって、1年7か月の歳月を経て築堤され、寛文三年(1663)に完成しました。工事費は、当時の小判で4200両(今の金額で何十億円にも相当)でした。

 貯水量では、長崎県内最大で、(2015年現在)湖水周囲は約4キロ、貯水能力は約115万トンです。その水は、下流の田んぼ約123ha(ヘクタール)、農家121名へ供給しています。堤防 (堤体)の大きさは、長さ約172m、高さ約19mです。

築堤後の江戸時代の工事
 上記の項目通り、野岳大堤(野岳湖)は、寛文三年(1663)に完成しました。しかし、その後も、ため池の保全(維持)・管理のため、各種の工事が実施されてきました。そのことは、近代も現在も同様です。

 江戸時代にも何回となく改修工事されてきたことは、次に紹介する2基の記念碑で良く分かります。この記念碑のある場所は、湖水脇の堤防近くにあります。(このページ上から5番目の「木井桶(きいび)の改修工事記念碑」写真を参照)  記念碑の古い順に

 (1)寛文2(1742)年11月から翌年1月までの改修工事記念碑
 (2)寛政2年(1790)11月から翌年2月までの改修工事記念碑
があります。

 両工事とも堤防の近くにある洪水吐(こうずいばき)に設置の横幅約11m、高さ約61p、厚さ約12pの木井桶(きいび)の改修でした。その理由は、木製のため何十年か経てば痛むため、その交換と修繕工事が繰り返されていたと思われます。なお、この碑文には、御目付、手代、奉行など武士の肩書が付いた者が彫ってあるで、寄付者もしくは官製工事に近かった可能性もあります。

現代の大改修工事
 永い年月使用のため、堤防からの漏水・下流域への被害防止、農業用水の安定確保などを目的に農村地域防災減災事業(旧ため池等整備事業)が、2008年度の測量や設計から始まりました。

 そして、総事業費7億5千万円(国55%、長崎県25%、大村市20%)で堤防などの工事が8か年おこなわれ、2015年3月に竣工しました。(このページ上から8番目の「2014年5月3日当時、まだ工事中の野岳湖の堤防(堤体)」写真参照)

補足

------- (この原稿は準備中)-------




(初回掲載日:2013年2月24日、第二次掲載日:2013年2月26日、第三次掲載日:2013年3月1日、第四次掲載日:2018年7月5日、第五次掲載日:7月8日、第六次掲載日:7月11 日、第七次掲載日: 年 月 日)


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