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大村の歳時記シリーズ はじめに

はじめに
 長崎県大村市は、1万3千年前(旧石器時代)の野岳遺跡(東野岳町)、約7〜8千年前(縄文時代)の岩名遺跡(今富町)など、太古から人の歴史があります。その後も郡地区(松原、福重、竹松の3地区)を中心とした穀倉地帯には人が多く住み、多くの古墳や遺跡などもあります。このようなことは、この周辺には既にかなりの集落があり、そこを収めた豪族の存在をも示していると思われます。

 その後、時代は下り開発も進み、大村全域に村や町が形成されるようになったと思われます。このように人々は(極簡単に申せば)広範な社会生活を営むようになっていきますと、中には宗教的なことも含め地域に根差した風習などが根付いていきました。そのようなことは、発掘された遺跡や遺物に垣間見れる場合もあります。

 さらに、時代は下り、江戸・明治・大正・昭和時代となると、今で言う町内あるいは広範な地域単位、あるいは小規模な事柄なら家族単位で、このような風習は継続されてきました。しかし、戦後、特に高度経済成長期前頃から、それまで地域で根付き、継続されてきた風俗や風習などは、徐々になくなってきました。それには様々な要因が挙げられると考えれますが、いくつか思いつくままにままに列記してみます。

なぜ、地域の風習は絶えたのか

 (1)産業構造が大幅に変化した。(例えば農林水産業主体から工業化、第3次産業への変化など)
 (2)あらゆる分野で機械化、情報化(電子化)などが進んできた。(例えば農業でも農耕馬などは見られなくなった)
 (3)宗教的な地域行事への敬遠などもあった。
 (4)行事や付き合いなどが、地域より親戚・家族内あるいは個人同士へ変化していった。
 (5)色々な意味で伝統や風習を守る田舎の地域でも急激に都市化が進んできた。(それまでの価値観の変化)
 (6)1年中忙しい日常に変わってきた。(例えば農業では米麦作中心の頃なら農繁期と農閑期が分かれていた)
 (7)年齢構成の変化により伝統行事などができなくなってきた。

などを始め、それ以外にも様々なことが考えられると思います。上記の内容の中で、特に、大きい要因として考えられるのは、農林水産業主体の経済構造が続いてきた時代は、産業そのもの基盤がある面、狭い地域で済んでいました。そのようなことから色々な意味で考え方、感じ方も変わらずに済んだ(違った言い方をすれば”保守的”であった)とも思われます。ですから、地域の風習などは宗教的な行事あるいはその延長線上の事柄も多いですが、大昔から続いてきたような伝統行事も、ほとんど変わることなく遂行されてきたとも言えます。

 しかし、上記(1)〜(7)などに上げた変化の中で、地域での結び付き、考え方、感じ方含めて、大きく様変わりして伝統や風習にとらわれない生活スタイルになってきたと言えるのではないでしょうか。そのため、大昔から続いてきたであろう地域における風習、風俗、伝統行事なども多くが絶えていったと思われます。

 このような経過をたどってきた中で、現在ではほとんど見られない、あるいは年配の方の記憶にしかない、しかも写真や資料などもあまりない地域の風習や風俗などを今から記録してしていくのは困難なことだと思えます。私も最初の調査段階から、このことは痛感しています。ただ、私は田舎の農家生まれで、しかも高度経済成長期前に育った関係上、数は極めて少ないのですが、その当時までかろうじて残っていた風習のいくつかも見ました。また、当時そのような事柄を行われた経験のある方々が、まだまだ、ご健在で私でも直接聞く機会を持っています。

 あと、書籍関係では、大村史談会(1986年3月)発行『大村史話 続編1』の「大村藩の民俗 その1 大村歳時記」(河野忠博氏執筆)、やや広範囲になりますが、長崎県教育委員会社会教育課(1965年3月)発行『民俗資料調査報告書 昭和39年度 長崎県文化財調査報告書第3号』などを主に参考にしています。しかし、この書籍関係に書いてある事項と私が見聞きした主に大村市の郡地区(福重、松原、竹松)では、共通しているところも当然ありますが、明らかに違うなあと思う内容もありました。

 それは風習とか風俗などと言えば各地域ごと、町内ごと、さらには各家庭ごと違っていて当然ですし、年代によっても変化しています。そのようなことから、書籍類は参考にしますが、あくまでも今回のシリーズに主に書いていることは、私が見聞きしたこと中心にまとめようと思っています。かかる事情により、たとえ同じ名称の風習であっても「上野君の所と、私の住んでいる地域では内容が違う。やり方がおかしい」とのご指摘もあろうかと想像されますが、その点は先の理由により、どうかご了承願います。

 以上のような困難なことも述べつつ、現在も継続されている風習や民俗含めて、かつて大村全域に根付いていた風習なども、なんとか記録できないかなあと思い付きました。本来なら写真、図表や資料などを駆使して説明したページにしたいと思っているのですが、そのことは難しいことと思われますので文章のみにとどめる場合も多いかもしれませんが、ご了承願います。

 あと、 この大村歳時記シリーズは、最初からまとまった原稿がある訳ではありません。大村の民俗、風習、風物などの調査段階と原稿作成、さらにはホームページ掲載順については、ほぼ全て同時進行を考えています。分かりやすく申せば、最初から全て”泥縄式”で作成していこうと思っています。そのため、このシリーズに掲載する事柄や内容は、その都度増やしていきたいと思っています。

 そのような事情から文章、写真、資料、その他、相当の準備期間を要します。そのため、全部掲載終了するには、気が遠くなるくらい時間がかかると思いますが、気長にお付き合いのほどお願い申し上げます。また、何か情報をお持ちの方は、フォームメールページからeメールを頂ければ大変ありがたいです。どうか、その点も、よろしく、お願い致します。

補足:大村歳時記シリーズの掲載内容の変化について
 この大村歳時記シリーズは、掲載当初より取り上げている項目(内容)が変わってきています。もくじ」ページを閲覧してして頂ければ、最初の頃は、その名称通りといいますか、もっと分かりやすく表現しますと、先に紹介した書籍類を頼りに、大村に昔からある事柄や行事などを書いていました。

 しかし、その事柄に見合う適切な写真、史料(資料)やイメージ図などが、私の手元に少ないことも実感しました。逆に、古写真や史料類はあっても、私の文書作成能力の無さから具体的に、その事柄を書けない事項も多々ありました。このようなことから、国語辞典(例えば、広辞苑解説で「歳時記1年のうち、そのおりおりの自然・人事百般の事を記した書。歳事記」)風の「歳時記」内容だけでは掲載しにくいことも分かりました。

 そのため、掲載項目によっては、例えばスポーツや、近年に開始された祭り・行事なども掲載するようになっています。ただし、このような事柄も極端に考えれば、いずれ開催されなくなる可能性もあるでしょう。そして、何年後か何十年後になれば、その行事の主催者だった方さえも、開催年月日含めて忘れられていく可能性もあります。

 「記憶は一代、記録は末代」との言葉もあります。この意味は、何かの事柄を実施したとして当初は誰でも覚えていることであっても、徐々に記憶が薄れ、本人の代では概要は覚えていても、次の代では、その概要さえも正確には伝わらないという意味でしょう。その点、記録化しておけば長年(何世代にわたって)伝わるということでしょう。

 そのようなことから、たとえ、今現在は、「歳時記」という言葉に全て合致していなくても、大村の各地域などで人が関わっている祭り・スポーツ・各行事などを少しでも記録化していくことは、必要ではないだろうかと考えました。詳細かつ正確無比ではないかもしれませんが、せめてデータベース的に、その概要紹介だけでも掲載していこうと思っています。

 あと、ホームページだけではなく書籍類も同様ですが、何かの事柄を紹介する場合、文章だけでなく適切な写真、図、資料などが、「ある、ない」は大違いです。この「大村歳時記シリーズに掲載しても良い」写真・史料類を所有されている方は、管理人の上野へのメールページへ情報を寄せて頂けないでしょうか。ただし、全て掲載できないことも、あらかじめ、ご了承願います。


・初回掲載日:2009年8月20日、第二次掲載日:2019年3月3日

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