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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 今富城跡

(史跡案内標柱)今富城跡
 名称:今富城跡  様式:案内標柱
 場所:大村市皆同町の道路(歩道)脇(畑の脇)   設置者:大村市教育委員会
 設置年:2002年2月(平成14年2月)  GPS実測値:32度57分38.40秒 129度56分50.70秒
 全体の大きさ:高さ210cm、横幅15cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:(同上)  グーグルアース用数値:32°57'38.40"N,129°56'50.70"E

注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差もある。グーグルアースは航空写真上に表示するため若干の誤差もあるが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)

今富城址の案内標柱(写真中央部の銀色の細い柱)

史跡案内標柱写真周辺の説明
 右側の写真中央部に銀色の細く見える柱(高さ約210cm)が、今富城址の案内門柱です。手前側が市道で、案内標柱よりも奥側が畑と個人宅です。さらに最奥側左右に林が見えますが、ここの尾根上にあったのが今富城址です。

 案内標柱の設置場所及び今富城址は、皆同町なのに何故「今富の地名が付いているか?」との疑問を持たれる人もいるかと思われます。戦国時代、この周辺は今富村でしたし、この今富城は大村純忠も居城し大村領の政治・経済の中心地でした。だから、その当時は当然、今富城(別名、「郡城」)と呼ばれていました。また、江戸時代に今風で言うと”行政改革”がありましたが、それまではこの周辺含めて今富村で、その後は福重村に変わりました。

 この史跡案内標柱には、下記の通り書いてあります。ただし、「大村純伊」伝説事項は、ほぼ全てにわたって江戸時代の大村藩によって創作(偽装)された内容が多く、当然注意が必要です。後で注釈と補足を書いていきます。

史跡案内標柱の内容

 この今富城址の案内標柱に書いてある文章は、下記「 」内の通りです。ただし、先の項目にも書きました通り、江戸時代の大村藩が創作(偽装)した内容をそのまま引用して書いてあるので間違いや問題があることは、事前にご了承の上、ご覧頂きたいと思います。私の書いた(注1)(注4)で、その分の解釈はしていますので、ご覧願います。

 「  今富城跡 The Site of Imadomi Casle
  十六代(注1)領主大村純伊(すみこれ)(注2)が築城した大村氏の居城(注3)です。文明(ぶんめい)年間(1470年頃)(注4)の築城と言われています。
  明治の鉄道工事の時に大量に土砂が取られ、城の形は大きく変形(注5)しています。
 平成十四年二月 大村市教育委員会 」

今富城址、中央、Uの字に見えるのが横堀(空堀)の跡
(戦国時代、大村純忠の頃と言われている)
今富城址<中央の丘(左側に大手門、右側の高い所に主郭(本丸)があったと言う>(案内標柱の反対側=妙宣寺下側から撮影)

(注1):この大村氏系図での「初代」(大村直純)自体が存在がしなかったと言われている。つまり、「大村氏系図」は「初代」から大村純忠の数代前まで江戸時代の大村藩による創作(偽装)の歴史である。(詳細は、「お殿様の偽装」ページを参照)したがって「十六代」あるいは「十八代大村純忠」などの代数表記すること自体間違いである。ただし、江戸時代、大村藩主の代数で、初代藩主、二代目藩主、三代目藩主と表示するのは正確である。

(注2):この今富城の築城は江戸時代、大村藩が編さんした(大村)郷村記に記述されているが、「大村純伊」伝説自体が全く年代も合わないし、創作(偽装)の歴史である。佐賀の藤津郡から来た「大村純治が最初に好武城を築城したが、あまりにも狭いため直ぐに郡川上流約400mに位置する今富城を築城したのでは」と言う説が、むしろ自然に思える。「大村純伊」は大村純治の変名であるとも言われている。

(注3):2007年8月に今富城の北側で戦国時代末期(大村純忠の前後)頃の横堀(空堀)が発掘された。佐賀側から攻められるので川二つ(郡川、本堂川)先にある三城城に拠点を移すまで、この今富城が政治・経済の中心地だった。

(注4):明治時代の鉄道工事だけでなく、国道あるいは国道に架かる福重橋(通称:郡橋とも呼称)の盛土に今富城址の丘が利用され、南側(郡川方向)が大きく削られたと言う。ただし、北側面はほとんど残っており、だからこそ、2007年8月に戦国時代の横堀(空掘)が出土した。中央部南側には戦国時代の竪堀と思われる場所もある。


補足

 上記項目の通り、せっかく立てられた史跡案内標柱ですが、その内容について、江戸時代の大村藩が創作(偽装)した内容をそのまま引用、標示してあるため、その解釈や反論から書かざるを得ないという煩わしさがあります。

 また、鉄道、国道や橋建設などにより、この丘の半分近くがなくなり、さらに戦争中、(通称)”皆同砲台”が造られたため、周囲の状況が一変したのは確かです。しかし、北側あるいは東側部分は、一部畑になっていますが、城址の丘の形状は留めていますし、大村純忠時代の横掘(空堀)も2007年8月に出土しました。

 また、ここにはルイス・フロイスの記録によれば戦国時代にサンタクルス教会がありました。そして、大村純忠の死去時には、ここで盛大に葬式を執り行ったことまで書いてあります。(この件の詳細は、今富城址の「3)ルイス・フロイスの記録」からご覧下さい)

 しかし、この今富城址は、これまで市内で発行された郷土史の書籍類や城址紹介などには、『大村市の文化財』の本などを除けば、あまり多くは紹介されていません。まるで後で出来た三城城や玖島城(大村城)でしか、大村の城でないような扱いです。この大村市のやり方は、何十年間も同じやり方ですから、市民も地元の若い方さえも城址として認識されなくなってきた現実もあります。

 この城址に長崎県内で戦争遺跡(特に砲台跡)が、これほど集中して今なお現存していることは珍しいと思われます。まだ、発掘はされていませんが、サンタクルス教会跡もあろうかと推測されます。できれば、細くて見落としそうな案内標柱の今富城址だけでなく、戦争遺跡や戦国時代の教会跡など総合的でも良いので大村市は、もっとこの今富城址を大きく分かりやすく取り上げて欲しいと願っています。

・詳細な関係ページ:福重の名所旧跡や地形の『今富城址』 、大村の城シリーズ『今富城址

(初回掲載日:2013年4月14日、第2次掲載日:4月16日、第3次掲載日:4月18日) 


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