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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡(すずたばんしょあと・しもすずたしょうやあと)

(史跡説明板)鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡(すずたばんしょあと・しもすずたしょうやあと)
 名称:鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡  様式:説明板
 場所:大村市 岩松町(いわまつまち)  設置者:住みよい町づくリ「チーム鈴田」
 設置年:2017年3月31日(平成29年3月31日)  GPS実測値:32度53分26.82秒 129度59分03.06秒
 全体の大きさ:高さ148cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°53'26.82"N,129°59'03.06"E
(写真1) 右下側(南東方向)「(鈴田)小学校創立の地」記念碑右側(東側)に鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡史跡説明板がある。(写真はグーグルアースより)

(写真2) 中央部は鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡史跡説明板。<左側は(鈴田)小学校創立の地記念碑>

史跡説明板写真周辺の説明
 この鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡の史跡説明板がある場所は、岩松町にある岩松公園(写真1の右側下部を参照)内にあります。その公園東端側に、「(鈴田)小学校創立の地」記念碑があります。(写真2の左側参照) 

 さらに、この記念碑の脇(東側)に、今回紹介の史跡説明板が立っています。なお、岩松公園の直ぐ右横(東側)には、幸田水産があり、南側へ約70m行きますと国道34号線があります。

 ただし、鈴田番所下鈴田庄屋も最初の場所は、江戸時代、この史跡説明板のある所ではないです。このことは、実は今回立てられた史跡説明板の文中に書いてあります。(次の項目参照) まず、上記(写真1)の左上側の岩松公民館を参照願います。最初、この公民館の横に江戸時代、鈴田番所があった所のようです。このことについて、上野が大村藩領絵図で調べましたら、岩松権現が西側、その隣(東側)が鈴田番所として図示されていることが分かりました。

 下鈴田庄屋の江戸時代にあった場所は、管轄(上鈴田村との関係)などの変化で、変遷がありました。そして、後で現在の幸田水産の場所へ移ってきたようです。そして、この下鈴田庄屋は、先の鈴田番所も兼帯(兼務=一つで二つ以上の用を兼ねること)していました。その鈴田番所があった場所は、現在の岩松橋側だったと言われています。

史跡説明板の内容
  (写真2の中央部に白く写っています鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側の(写真3)です。

(写真3) 鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡の史跡説明板(本体のみ) <注:10行近くの文字が木陰になって見えにくかったのでCG加工して見やすくした>

 なお、(写真3)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

 鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡
 この番所は慶安二年(一六四九)二月、大坂浪人長井勘兵衛<豊臣秀頼家臣大野主馬(かずま)の子>を長崎で捕らえたとき、長崎奉行馬場三郎左衛門利重・山崎権八正信の命令により建てられたものです。非常改番所及び制札場の役割を持ち、村外の通行人の改めをしていました。場所は岩松公民館横と思われます。

  下鈴田庄屋は岩本宅で、村の調整まとめ役の仕事でした。その後、「詰事(つめごと)省略の時、下鈴田庄屋は上鈴田庄屋へ寄村となる」も「文政七年(一八二四)上鈴田庄屋を岩松へ移す(現在の幸田水産)」とあり、番所も兼帯(けんたい)することになりました。(番所は岩松橋側にあった。)

 また、学制発布により、岩松の庄屋を利用して明治六年一月、鈴田小学校として発足しました。その一部は、役所としての機能もありました。のちに明沿三〇年、鈴田村中央部にある平小川郷字茂手(もて)(現在地)に新築移転しました。

平成二十九年三月三十一日  住みよい町づくリ「チーム鈴田」 >


補足

(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2017年9月18日、第2次掲載日:9月21日、第3次掲載日:9月25日、第4次掲載日: 月 日) 


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