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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 旧・長崎街道(郡川の飛び石)

(史跡説明板)旧長崎街道(郡川の飛び石)
 名称:旧長崎街道(郡川の飛び石)(注1)  様式:説明板
 場所:大村市皆同町(福重橋北側から下流側へ10数m)  設置者:大村市教育委員会
 設置年:2001年3月(平成13年3月)  GPS実測値:32度57分40.90秒 129度56分36.86秒
 全体の大きさ:高さ180cm、横幅103cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ75cm、横幅90cm  グーグルアース用数値:32°57'40.90"N,129°56'36.86"E

注1この説明板の正式名称は「旧長崎街道」で( )内の「郡川の飛び石」との表現はない。しかし、長崎街道の案内門柱などは市内に沢山あるので、場所の明示上「郡川の飛び石」説明板との意味で補足で書いた。
注2:
GPS実測値について、場所によっては若干の誤差がある。グーグルアースは航空写真上に表示するため、かなりの誤差が出るが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)

旧長崎街道(郡川の飛び石)の史跡説明板(写真中央部やや左側、しの下側が郡川)

史跡説明板写真周辺の説明
 右側掲載写真の撮影地点について、郡川(こおりがわ)の右岸で皆同町側にある市道から撮ったものです。説明板の奥下側を流れるのが、郡川で写真中央部左右に壁みたいに見えるのが、左岸側の堤防です。さらに、その堤防奥側が沖田町になります。逆に、説明板のある右岸側を数百メートル下流側へ下ると、そこは寿古町になります。(郡川の詳細は、ここからご覧下さい)

  郡川は、今では長年の河川整備で、この周辺は本流のみとなっていますが、江戸時代頃までは、支流が一本(数百メートル上流部にあり、現在の郡中学校方向へ流れていたと思われる)あったようです。 そのことが、説明板にも書いてあります。

 昭和時代後期頃まで一部あった郡川の渡し(飛び石)は、江戸時代初期頃より、経済や運輸の発達によって長崎街道とも呼ばれています。しかし、それよりずっと昔から、実は古代の道(飛び石)でもありました。古代肥前国の首都(国府・政庁跡がある)=現在の佐賀大和から官道は、嬉野、野岳、草場、寿古、この飛び石、さらには竹松や諫早を経て、島原へ通じていました。(詳細は「大村の古代の道と駅」ページを参照)

史跡説明板の内容
 右上側写真に写っている史跡説明板には、下記「 」内の文章が書いてあります。なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに変えています。今回の説明板には、英語での紹介文もありましたので次に掲載しています。なお、(注1)(注4)などは、上野の注釈・補足です。

旧長崎街道(郡川の飛び石)の史跡説明板(写真中央部やや左側にある挿絵)

「 旧長崎街道(郡川の飛び石)
 この長崎街道は、江戸時代初期に整備された小倉から長崎・に至る五十七里(約二三〇q)の九州随一の幹線道路で、脇街道ながら、江戸と長崎を結ぶ重要な街道でした。

 江戸時代、長崎は幕府の鎖国(注1)政策のもと唯一海外に開かれた港(注2)で、オランダや中国等との貿易を行う場所でした。この貿易によってもたらされた情報や文物は大変貴重なもので、異国の文化にいち早く触れようとして学者や商人などが長崎に向かい大変賑わいました。また、 オランダ商館長などの異国人が江戸との往来に利用しました。このように、長崎街道は異国文化と江戸を結んだ道であり、江戸時代の文化・経済等に大きく関与しました。

 郡川は、大村宿と松原宿の途中を流れる河川で、オランダ商館医シーボルトの著書『日本』 には、「森を流れる川で深くはないが、ときには急流となり、このあたりでは二筋に分かれて海に注いでいる。大きな玄武岩が河床に横に並べてあって、それを渡って人や荷馬が通っていく。」と記述してあり、この郡川を飛び石(注3)で渡る様子が挿絵(注4)で描かれています。
 川を渡り、少し行くと玖島城の築城奉行を努めた長崎惣兵衛の墓があります。
 平成十三年三月 大村市教育委員会 

(注1):鎖国=「国が、外国との通商・交通を禁止または極端に制限すること。特に、江戸幕府による対外封鎖政策をいう。寛永16年(1639)から嘉永6年(1853)のペリー来航まで200年余り実施。キリスト教禁止・封建制度維持を目的とし、オランダ・中国・朝鮮を除く外国との通交を禁止した。」(国語辞典の大辞泉より)

(注2):この「唯一海外に開かれた港」と言う表現は、よく長崎県内で使われている用語である。しかし、疑問も出されている。江戸時代通して実際の海外との交易は、長崎以外にも、同じ県内の対馬藩は朝鮮と、薩摩藩は琉球、北海道の松前藩はアイヌと盛んになされたと言われている。幕府公認の港か非公認だったかは、実態の交易や流通経済から見れば、あまり意味がないようにも思われ、「唯一海外に開かれた港」と言う表現は避けるべきではないかとの説もある。私自身も、海外との交易実態や歴史を正しく述べたものではなく、この表現は、もう辞めるべきと思っている。

(注3):この飛び石の詳細は、『長崎街道の内、福重往還道、郡川の渡し(飛び石)』を参照願う。
(注4):このシーボルトの本に掲載されている挿絵は、あくまでも絵であるため写真みたいに正確ではないことは当然である。しかし、この飛び石の上流側から郡川河口、大村湾をイメージ含めて描かれた絵は、大変風情も情緒もある。たくさんある長崎街道の絵の中で、素晴らしい出来栄えと思える。

福重橋のたもとより下流方面を写す

英語説明文
 下記が旧長崎街道(郡川の飛び石)の英語説明文です。この英字による紹介文は、右側一番目写真でもお分かりになる通り、向かって左下側に書いてあります。上記日本語説明文と違って簡略化されて書いてあるようですが、かえって分かりやすい内容となっているようです。和訳はしていませんので、上記の日本語説明文と併せて、ご覧願います。

Nagasaki-Kaido (The Old Nagasaki Highway) 

 In the Edo Period the Nagasaki Highway, connecting Kokura in Northern Kyushu,(注5) and Nagasaki, was the finest road in Kyusyu.(注5) At that time Nagasaki was the only port in the nation open to foreign trade, and trade was conducted with Holland and China. The information and goods brought by this trade went up the Highway to Osaka, Kyoto, and Edo.

 As described by Philipp Franz von Siebold, the physician with the Dutch Trading Post, in his book Nippon, stepping stone were used to cross the Kohri River.

(注5):九州を現わす英字として前の方のつづりは「Kyushu」となっていて、後のほうは「Kyusyu」となって一文字違うが、一般には、どちらも使われているようだ。

中央部が福重橋下流にある堰(せき)。その少し下流側が郡川の飛び石跡 <下流より上流方面を写す>

補足
 郡川の飛び石は、先の項目でも述べた通り、単に江戸時代の長崎街道ではありません。上記の史跡説明板には何も書いてありませんが、古代肥前国時代からあった官道(それ以前から飛び石はあった可能性もあるが)から発達したものです。そして、江戸時代にさらに長崎、小倉・江戸間の往来に大きな発展を遂げました。

  明治維新以降の経済・流通・交通などの急激な発達に応えるために、1986(明治19)年に木造の福重橋が架けられました。(この木造の福重橋の写真と詳細は、「福重にある橋」シリーズの「福重橋」紹介ページを参照願います)架橋後に何回かの水害の影響は受けたようですが、この木造の橋は、太平洋戦争が開始される頃までありました。

 そして現在の鉄筋コンクリート製の頑丈な橋(福重橋)は 1941(昭和16)年3月に出来ました。(この鉄筋コンクリート製の福重橋詳細は、「福重にある橋」シリーズの「福重橋」紹介ページを参照願います)

 あと、この史跡説明板のある周辺は、例えば長崎街道ウォーク、郡川両岸の散歩コースとして、盛んに歩いておられる方々が多いです。近年、郡川河川工事も進んでいて、昭和後期まであった飛び石が発見されれば、さらに先のウォーキングなどに人気が加速することが予想されています。

・詳細な関係ページ:福重の名所旧跡や地形の『長崎街道の内、福重往還道、郡川の渡し(飛び石)』、『郡川

・福重橋の詳細は、「福重にある橋」シリーズ「福重橋」紹介ページを参照)

(初回掲載日:2013年5月3日、第2次掲載日:5月4日、第3次掲載日:5月5日、第4次掲載日:5月7日、第5次掲載日:5月8日、) 


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