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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 田下のキリシタン様式墓碑

(史跡説明板)田下のキリシタン様式墓碑(たじも の きりしたん ようしき ぼひ)
 名称:田下のキリシタン様式墓碑  様式:説明板
 場所:大村市田下町  設置者:大村市教育委員会
 設置年:1997(平成9)年3月  GPS実測値:32度57分02.34秒 129度59分35.43秒
 全体の大きさ:高さ175cm、横幅103cm  (国土地理院)地図検索用ページ地図は、こちらから。
 本体の大きさ:高さ70cm、横幅90cm  グーグルアース用数値:32°57'02.34"N,129°59'35.43"E
(写真1)  中央部の左側にあるステレンス板は田下のキリシタン様式墓碑の史跡説明板
手前側で平たい長方形をした2個の加工石などがキリシタン様式墓碑と思われる。 (大村市田下町)
 (写真2) 2基のキリシタン様式墓碑
・注意>---この史跡説明板設置年、その脇にある史跡標柱(大村市)指定年建設年は、各々その年月が違う

史跡説明板写真周辺の説明
  大村市街地から(萱瀬地区の)田下町に行く場合、坂口町から国道444号線(しあわせ街道)を走行していると左手に県営バス停「萱瀬小学校前」がある。そこから、さらに上流側へ行くと右手に「かやぜの湯」が見えてくる。

 その反対側(444号線の左手)から市道に入ると本流の郡川に注ぐ幅10m弱ほどの小さな川に架かる橋を渡る。その橋から数十mも行かない所の左側に人一人しか通れない草地の小道を数十m歩くと、田下のキリシタン様式墓碑や、その史跡説明板が見えてくる。

 なお、キリシタン様式墓碑は、(写真1、2 )の通り2基ある。この2基の墓碑は、キリシタン禁教が厳しくなっていく時代に地面に埋められて、後世になり雨水などによって後世に露出してきたものと言われている。また、墓碑の文字は仏式で彫られていると言う。この墓碑のできた当初の状況は不明であるが、現在見ると先の2基も含めて、この墓碑群全体は、市内にあまたある「町墓」と違う感じがする。(墓碑群の詳細は、後の項目の「史跡説明板の内容」を参照)

史跡説明板の内容
 (写真1)の左側に写っている「田下のキリシタン様式墓碑の史跡説明板」を、さらに、その説明板本体部を大きく写したのが、(写真3)です。その内容は、下記<>内の青文字が書いてあります。 ただし、上野の転記ミスなどもありますので、あくまでも参考程度に閲覧願います。もしも、引用・参照されるならば必ず実物の説明板からお願いします。

  市指定史跡 田下のキリシタン様式墓碑
 ここには、二基の平庵型キリシタン墓碑があり、墓碑に刻まれた銘からともに承応二年(一六五三)に建てられたものと考えられます。これは、幕府のキリシタン禁教後であり、潜伏キリシタンの大発覚事件となって大村藩を揺り動かした「郡崩れ(こおりくずれ)」直前という厳しい禁教の時代に建てられた大変貴重なものです。

 (写真3) 田下のキリシタン様式墓碑の史跡説明板本体部

 この墓碑の特徴は、キリシタン様式の墓碑であるにも関わらず仏教の戒名を刻んであることです。一基は側面に、一基は付属塔と思われるものに刻んであり、日本でも大変珍しいものです。

 大村藩では、「郡崩れ」以後、キリシタンの捜索も一層厳しくなり、残っていたキリシタンの墓なども破壊されたようです。この墓はそうした取り締まりから逃れるためにキリシタン様式の部分を土中に埋め、仏教の戒名を刻むなど仏教様式に改変したようです。

 長い間、地中に眠っていましたが、地表面の流出により再び隠されていた部分が現れてきました。他の一群の墓碑とともに大村の禁教時代をしのばせる貴重なものです。
平成九年三月
       大村市教育委員会
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補足

 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)

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(初回掲載日:2025年8月6日、第2次掲載日:8月13日、第3次掲載日:8月17日、第4次掲載日: 月 日) 


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