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福重の名所旧跡や地形

薬師如来(福重町)
薬師如来(やくしにょらい) 場所:長崎県大村市 福重町

  薬師如来の現在の場所は、大村市福重町(旧・矢上郷)の福重公民館南側にあります。(地元では「薬師さん」と呼称) ここは、大村市立福重小学校・東校舎の裏側(北東側)から、約110m離れた所です。

 薬師如来の創建は、(大村)郷村記によれば応徳2年(1085年)と言われています。(詳細は後で記述) ただし、この創建は、唐泉寺と同じではないかと推測されています。その後、天正2(1574)年、キリシタンによる他宗教弾圧攻撃により破壊されたため、史料の少ない状況です。
 (写真1)=左写真の中央部が薬師如来である。

(写真2) 中央上部:福重公民館(グーグルアース写真より)

薬師如来の場所について
 右側(写真2)のグーグルアース空中写真をご覧願います。この中央部に縦位置(南北)に見える大屋根が福重公民館です。その下部側(南東部)にあるのが、薬師如来です。また、この周辺は、既に紹介中の唐泉寺跡ではないかといわれている場所でもあります。

 ここへ来る場合、大村市街地からならば大村市立福重小学校・正門入口前の市道か、妙宣寺下側を走る市道から、(写真2)の中央部を縦位置(南北)走る道路へ着きます。そして、薬師如来の南側から階段で登る時、左手(西側)に「矢上の馬頭観音」があります。

 車ならば右側(写真2)に見える福重公民館の北側にある広い敷地(庭、広場)に直接入れます。

大村郷村記
 この項目、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)117ページを引用して書いていきます。まず、その全文を下記の太文字で書いていきます。また、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるた め、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。あと、文章の先頭に場所を表す「同所」とか「同殿」という文字があります。これは、薬師如来観世音の前の項目に天満宮の記述があり、そこには「矢上(やがみ)」という地名があるため、「前の場所と同じ」という意味で、「同所」と書いてあります。

写真中央が薬師如来
 「同殿」は、意味は当然違っていますが、場所は同じです。もしも、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本からお願いします。

 同所
 一 薬師如来 (神躰木座徐金彩色 例祭九月十二日) 妙宣寺勧請 氏子中之祭
      外ニ厨子の内唐金座像拾躰あり


 同殿
 一 観世音 壱躰石座像
     神殿 九尺ニ 弐間 萱宇
     拝殿 弐間ニ 三間 萱宇
    境内入弐拾三間 横拾弐間余

 古記曰此地 白河天皇の御宇応徳二年の草創なり 宗旨は真言宗 本尊は七仏薬師なり 右の脇は阿弥陀 左の脇は不動長壱丈脇立(こんこう せいたか)あり 又天和の比古老の咄に此堂元萱宇にて三拾三鉾葺たる堂なりと云伝たるよし  天正年中耶蘇の為に灰塵となる

  寛永十三丙子年所中より新に仏躰を調へ堂宇建立す 妙宜寺勧請 天和二壬戌年神躰紛失 正徳五乙未年木像に再建 導師深重山四世聖境院日邊 即今祭処の薬師如来是なり 脇檀へ安置する処の唐金仏拾躰は近年常最奇の畠中より堀出す 何の比土中に埋りしや其故知れす

  (接するに右唐金仏は蓋往古の仏躰 にて天正年中邪蘇の徒堂宇を焼亡するに依て土中に埋めしものならん 応徳二年より万延元年迄七百七十六年也) 

現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、大村郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。 

  同所(注:矢上のこと) 一つ 薬師如来  (ご神体は金色の彩色をしてある木製の座像である。例祭は9月12日) 妙宣寺に来てもらって氏子で祭っている。 ほかに厨子の内側に唐金座像(銅製の仏像?)が10体ある。

 同殿(注:薬師如来のある堂のこと) 一つ 観世音 石造の座像が1体ある。
   神殿は奥行2.7mに、横幅3.6mで、茅ぶき屋根である。
   拝殿は奥行3.6mに、横幅5.5mで 茅ぶき屋根である。
  境内(敷地の広さ)は奥行41.8m、横幅21.8m余りである。

写真奥側が福重町公民館、手前側が薬師如来

 古い記録によればこの地(場所)は、白河天皇(1053〜1129、在位1072〜1086)の御代(時代)の応徳2(1085)年の創建である。(上野注:この創建とは唐泉寺の創建」のこととも推測される) 宗旨(宗派)は真言宗で、本尊は七仏薬師(ななぶつやくし)である。右の脇には阿弥陀(あみだ)、左の脇には長さ一丈(いちじょう、約3メートル)の不動明王(ふどうみょうおう)の(こんこう せいたか)がある。

 また、天和(てんな、てんわ、1681〜1683年)時代の頃、古老の話しによると、「この堂(注:薬師堂のこと)は茅ぶき屋根で3重で3つの鉾葺(ほこぶき)がしてある堂(建物)だった」との言い伝えがある。天正年間(1573〜1592)に耶蘇(やそ=キリシタン)ために(注:焼き打ちをおこなった)灰塵(はいじん=灰とチリ)になってしまった。

 寛永13(1636)丙子(ひのえね、へいし)の年より新たに仏体(仏像)を調べて堂(建物)を建てた。妙宣寺に来てもらって祈っている。天和2(1682)壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)年に、ご神体が紛失した。正徳5(1715)乙未(きのとひつじ、いつび)年に木製の仏像を再建した。その導師(高僧)は深重山(妙宣寺)の第四代(住職の)聖境院日邊であった。すなわち、今祭られている薬師如来のことである。檀(仏壇)の脇に安置されている唐金座像(銅製の仏像?)10体は近年、最寄り(近く)の畑の中から掘り出された。何故この土の中に埋もれていたか、その理由は分からない。

 (併せて考えるに右の唐金仏は大昔の仏像だったが、天正年間(1573〜1592)に耶蘇(やそ=キリシタン)の者達が焼き打ちするので土の中に埋めたものかもしれない。応徳2年=1082年から万延元年=1860年まで775年間である)
 


補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:『唐泉寺跡

(初回掲載日:2018年5月28日、第二次掲載日:5月29日、第三次掲載日:6月1日、第四次掲載日:6月2日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月日)

  

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