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福重の名所旧跡や地形

唐泉寺跡(福重町)
唐泉寺跡(とうせんじあと) 場所:長崎県大村市 福重町


  この『
唐泉寺跡(とうせんじあと)』の場所は、大村市福重町(旧・矢上郷)の福重町公民館周辺と言われています。この公民館の隣(南側)にある薬師如来(地元では「薬師さん」と呼称されている)と、さらに南隣の民家周辺と推測されています。ここは、大村市立福重小学校・東校舎の裏側(北東側)から、約110m離れた所です。

 唐泉寺の創建は、応徳2年(1085年)とも言われています。(この件、詳細は後で記述) また、「紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんめいじえんぎ)」によりますと、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に唐泉寺の住職春輝が提唱して、14か寺の僧侶が集まり宗論が行われた所でもあります。それ以降の歴史、天正2(1574)年、キリシタンによる他宗教弾圧攻撃により破壊された前後の状況など史料の少ない状況もあります。、

 ・左写真の中央部やや上側が福重町公民館と広い敷地。公民館の直ぐ隣(南側)に薬師如来がある。(グーグルアース写真より)



大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した)

唐泉寺跡の場所について
 まず、右図をご覧願います。この図は、『おおむらの史記』(1982年9月30日、大村史談会青年部・発行)18ページに載っているものです。図の中央部より、やや上側(北側)に祇園寺(左側=西側)とともに唐泉寺(右側=東側)が、図示されています。

 この場所は、現在の福重町公民館周辺です。ここは、大村市立福重小学校・東校舎の裏側(北東側)から、約110m離れた所です。次に、下記の写真を、ご覧願います。

唐泉寺跡周辺にある泉

 このは、唐泉寺跡ではないかと言われている福重町公民館の隣(南側)にある薬師如来から、直ぐ南隣の民家の敷地にあるものです。いつも、コンコンと清らかな水が湧き出しています。なぜ、この唐泉寺跡と結びつくのか、それは大きな意味があります。

・丘陵地帯の神社仏閣は水と見晴らしが第一条件
 この項目については、既に「古墳と神社仏閣の場所」ページに詳細に書いています。大村市内で平地を除いて、例えば松原・福重・萱瀬地区の丘陵地帯(数10〜100メートル位)にある古い神社仏閣には、その場所に創建された条件、あるいは共通項があることを紹介しています。

 そして、「見晴らし(眺望)が良い所であること」、「泉(小川含む)が近くにあり水が入手しやすいこと」などを例に挙げています。一つひとつの説明は不要かと思いますが、特に、水(泉)は、今みたいに便利な水道などがない古い時代ですから、ほぼ絶対条件みたいなものです。つまり、は、宗教上でも用いますし、住職その他僧侶が生活する上でも不可欠なものです。

 そのような視点で神社仏閣跡を調査する場合、概要の地図さえあれば、あとは「泉があるか?」、あるいは「見晴らしが良いか?」を調べると、ほぼ特定できると言っても過言ではないでしょう。プラス何か遺物があれば、もっと精度があがることでしょう。そのようなことから、今回の唐泉寺跡も、個人宅の敷地内にある(左上の写真)は、根拠のあるものです。あと、この民家からの眺望は、昔ほどではなくても近くは福重地区の平野部、遠くは大村湾や西彼杵半島まで見渡せる所です。

 また、この個人宅周辺の畑の石垣には、五輪塔はじめ石塔類の欠けら(遺物)があります。この欠けら唐泉寺で使われていた石塔類が、天正2(1574年)、キリシタンによる他宗教弾圧事件があった時に、寺(本堂)とともに破壊され、その後散らばったものと推測されます。そして、昔から石垣に再利用されたのでしょう。

 このような泉(水)見晴らし遺物(石塔類の欠けら)などの状況から、私は、唐泉寺跡は、「福重町公民館の隣(南側)の薬師如来のある場所」よりも、その直ぐ南隣の民家の敷地周辺にあったのではと推測しています。

福重町公民館横、薬師如来 (唐泉寺があったと言われている周辺。ただし、右奥の民家周辺とも推測される)

大村郷村記内容について
 この項目、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)117ページを引用して書いていきます。ただし、史跡名称は、今回紹介の唐泉寺とはなっていません。薬師如来観世音となっていますので、あらかじめ、ご注意願います。まず、その全文を下記の太文字で書いていきます。

 また、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるた め、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。

 あと、文章の先頭に場所を表す「同所」とか「同殿」という文字があります。これは、薬師如来観世音の前の項目に天満宮の記述があり、そこには「矢上(やがみ)」という地名があるため、「前の場所と同じ」という意味で、「同所」と書いてあります。「同殿」は、意味は当然違っていますが、場所は同じです。なお、上野の推論として、この場所つまり薬師如来観世音のあった所は、元々は唐泉寺のあった場所として書いていますので、ご注意願います。もしも、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本からお願いします。

・大村郷村記の本文


 同所
 一 薬師如来 (神躰木座徐金彩色 例祭九月十二日) 妙宣寺勧請 氏子中之祭
      外ニ厨子の内唐金座像拾躰あり


 同殿
 一 観世音 壱躰石座像
     神殿 九尺ニ 弐間 萱宇
     拝殿 弐間ニ 三間 萱宇
    境内入弐拾三間 横拾弐間余

 古記曰此地 白河天皇の御宇応徳二年の草創なり 宗旨は真言宗 本尊は七仏薬師なり 右の脇は阿弥陀 左の脇は不動長壱丈脇立(こんこう せいたか)あり 又天和の比古老の咄に此堂元萱宇にて三拾三鉾葺たる堂なりと云伝たるよし  天正年中耶蘇の為に灰塵となる

  寛永十三丙子年所中より新に仏躰を調へ堂宇建立す 妙宜寺勧請 天和二壬戌年神躰紛失 正徳五乙未年木像に再建 導師深重山四世聖境院日邊 即今祭処の薬師如来是なり 脇檀へ安置する処の唐金仏拾躰は近年常最奇の畠中より堀出す 何の比土中に埋りしや其故知れす

  (接するに右唐金仏は蓋往古の仏躰 にて天正年中邪蘇の徒堂宇を焼亡するに依て土中に埋めしものならん 応徳二年より万延元年迄七百七十六年也)

・現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、大村郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

写真奥側が福重町公民館、手前側が薬師如来 (唐泉寺があったと言われている周辺。ただし、この東側にある民家周辺とも推測される)

  同所(注:矢上のこと) 一つ 薬師如来  (ご神体は金色の彩色をしてある木製の座像である。例祭は9月12日) 妙宣寺に来てもらって氏子で祭っている。 ほかに厨子の内側に唐金座像(銅製の仏像?)が10体ある。

 同殿(注:薬師如来のある堂のこと) 一つ 観世音 石造の座像が1体ある。
   神殿は奥行2.7mに、横幅3.6mで、茅ぶき屋根である。
   拝殿は奥行3.6mに、横幅5.5mで 茅ぶき屋根である。
  境内(敷地の広さ)は奥行41.8m、横幅21.8m余りである。

 古い記録によればこの地(場所)は、白河天皇(1053〜1129、在位1072〜1086)の御代(時代)の応徳2(1082)年の創建である。(上野注:この創建とは「唐泉寺の創建」のことと推測される) 宗旨(宗派)は真言宗で、本尊は七仏薬師(ななぶつやくし)である。右の脇には阿弥陀(あみだ)、左の脇には長さ一丈(いちじょう、約3メートル)の不動明王(ふどうみょうおう)の(こんこう せいたか)がある。

 また、天和(てんな、てんわ、1681〜1683年)時代の頃、古老の話しによると、「この堂(注:薬師堂のこと)は茅ぶき屋根で3重で3つの鉾葺(ほこぶき)がしてある堂(建物)だった」との言い伝えがある。天正年間(1573〜1592)に耶蘇(やそ=キリシタン)ために(注:焼き打ちをおこなった)灰塵(はいじん=灰とチリ)になってしまった。

 寛永13(1636)丙子(ひのえね、へいし)の年より新たに仏体(仏像)を調べて堂(建物)を建てた。妙宣寺に来てもらって祈っている。天和2(1682)壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)年に、ご神体が紛失した。正徳5(1715)乙未(きのとひつじ、いつび)年に木製の仏像を再建した。その導師(高僧)は深重山(妙宣寺)の第四代(住職の)聖境院日邊であった。すなわち、今祭られている薬師如来のことである。檀(仏壇)の脇に安置されている
唐金座像(銅製の仏像?)10体は近年、最寄り(近く)の畑の中から掘り出された。何故この土の中に埋もれていたか、その理由は分からない。

 (併せて考えるに右の唐金仏は大昔の仏像だったが、天正年間(1573〜1592)に耶蘇(やそ=キリシタン)の者達が焼き打ちするので土の中に埋めたものかもしれない。応徳2年=1082年から万延元年=1860年まで776年間である)
 

・現代語訳の補足解釈
 これから、下記項目「紫雲山延命寺縁起について」と、できるだけ重複しない形で大村郷村記の現代語訳の補足や注釈を書いていきます。

(1)仮に上野の推測が正しくて、今回の薬師如来観世音が、創建当時は唐泉寺のことを指しているとするならば、この唐泉寺の創建は応徳2(1082)年だったことが分かります。天正2(1574)年に起こったキリシタンによる他宗教弾圧事件によって大村市内の神社仏閣は全て焼き打ち、破壊されたため、その多くの寺社の創建年代も詳細分かっていません。しかし、そのような中で、大村郷村記にある先の唐泉寺の創建年応徳2(1082)年が判明していること、さらに別の古記録を引用して記述されていることは、注目に値します。

(2)現在の大村の郷土史では、「大村の仏教文化は中世時代に栄えた」あるいは、「奈良時代に寺院は創建されず、平安時代も、ほどんどなかった」みたいな仏教史の論調ばかりです。しかし、右側1番目の図にある有名な郡七山十坊ほどの広い穀倉地帯でない、(周囲に畑の多い)唐泉寺でさえも平安末期の100年も前に創建されているのです。ここから考えれば、(紫雲山)延命寺太郎岳大権現は、奈良時代の創建との記述もありますし、郡七山十坊の多くは平安時代の前期から中期頃には、その多くが創建されていたと思われます。

写真中央上部が福重町公民館、南隣(下部)が薬師如来 (唐泉寺があったと言われている周辺。ただし、この堂の下部側=南側にある民家周辺とも推測される)

 つまり、「大村の仏教文化は、平安時代に花開いた」との表現が正しいと思われます。そうでないと、平安末期、末法思想との関係で経塚の上に乗っていた(あるいは中にあった)滑石製の単体仏が、9体も造られなかったことでしょう。

(3)上記の内容などからして、現在、市内で否定的に言われている「紫雲山延命寺縁起」や「紫雲山延命寺の標石」は、それ自体は後世につくられたものとしても、寺の創建年などの内容自体は、基本的に正しいと思われます。先に紹介した経塚に乗っていたと思われる10体近くの単体仏は、考古学視点から「紫雲山延命寺縁起」らや「紫雲山延命寺の標石」内容の正しいことを裏付けているものです。

(4)現在語訳の最後に「応徳2年=1082年から万延元年=1860年まで776年間である」を書いています。この表現からして、薬師如来観世音項目が書かれたのは、「万延元年=1860年」ではないかと言う点です。現代風表現に直せば「1860年(現在)作成」と同じでしょう。

 大村郷村記は、全体では、「江戸時代の大村藩が約180年間(1681〜1862)かけて編纂した」ものです。しかし、各村ごと、あるいは各項目ごとの記述年を書いたものは、ほとんどありません。先の私の推論が正しければ、今回のように項目の記述年(作成年)が分かるのは珍しいと思われます。それは、大村郷村記全体完成の2年前のことでした。

紫雲山延命寺縁起と唐泉寺について
 先の項目にも書いていますが、今回の場所が、上野の推論ながら「薬師如来観世音の前身が、唐泉寺だった」が正しいこととして書いていきます。それならば、唐泉寺の創建は、大村郷村記内容通り、応徳2年(1085)となります。この唐泉寺が、別の古記録にも登場してきます。それは、「紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんめいじえんぎ)」です。 (次の内容は、極簡単に分かりやすく書いていますので、参照される方は必ず原本からお願いします)

 この「紫雲山延命寺縁起」(「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」ページを参照)によりますと、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)唐泉寺の住職春輝が提唱して、14か寺の僧侶が集まり宗論がおこなわれたと書いてあります。そして、その結果、唐泉寺は宗論に負けて、寺は破壊されてしまいました。先の縁起内容の簡単紹介は、以上です。しかし、これで平安時代の事柄で2回(応徳2年=1085年と、久寿2年=1155年)も、唐泉寺の名前が登場しています。これらは、大村の仏教寺院を考える意味で、注目すべき事柄でもあります。

 上記の破壊の後、唐泉寺がどうなったのか、例えば再建されたとか、そのまま無くなったとか、あるいは直線で南南東側約190mの所のあった祇園寺(現在、福重小学校の前付近)に吸収されたとか考えられますが、2016年8月現在で調べきれていません。ただし、これも先の項目に書いていますが、他の有名な郡七山十坊のように広い穀倉地帯ではなく、どちらかと言いますと、この周辺は畑が多い地域です。

 そのため、破壊された本堂などの再建は、仮にあったこととしても財政上も容易ではなかったと推測されます。そのようなこともあり、何故、大村郷村記に唐泉寺の記述がないのかと言いますと、 「紫雲山延命寺縁起」にある宗論の結果、唐泉寺は破壊されてしまって再建できず、結果として地元伝承も薄れ、そのため書いていないことも想像されます。 

補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2016年8月21日、第二次掲載日:8月25日、第三次掲載日:8月27日、第四次掲載日:8月28日、第五次掲載日:8月30日、第六次掲載日:8月31日、第七次掲載日:9月1日、第八次掲載日: 月 日、)

  

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