最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク


大村の歴史
太郎岳大権現(たろうだけだいごんげん)
(謎だった古代の寺院跡発見と紹介)
太郎岳大権現は、郡岳の旧称=太郎岳に奈良時代初期に開山された
主 な 内 容
掲載状況
 はじめに
掲載中

主な調査内容や期間など

掲載中
・用語解説(一部)
掲載中
・関係年表(一部)
掲載中
1)大村郷村記関係記述
掲載中
2)郡岳頂上にある太郎岳大権現の礎石跡について
掲載中
3)郡岳中腹の本坊跡(坊屋敷)について
掲載中
 太郎岳大権現の本坊跡(第一有力候補地について)
掲載中
4)私の推測含めた太郎岳大権現の礎石跡と本坊跡の推定位置のまとめ
掲載中
5)太郎岳大権現は、どんな宗教だったのか?
掲載中
6)謎の太郎岳大権現を調査した意義と今後の要望
掲載中
 あとがき
掲載中

はじめに
 郡岳(こおりだけ、826m、長崎県大村市重井田町)は、福重だけでなく松原・竹松地区含めて郡地区を代表する、故郷の山です。郡地区で生まれ育った人なら小学校・中学校当時、学校周辺やその行き帰りで、この郡岳を眺めながら最低でも9年間は毎日のように見る山でもあります。しかも、この山は、いつも優しい女性を思わせるような山容です。また、他の大村の山は連山がほとんどですが、この郡岳は、まるで独立鋒みたいにも見え、けっこう目立つ山でもあります。このように馴染み深い郡岳ですが、その旧称である太郎岳(たろうだけ)のことを知っている方は、地元の郡地区でもほとんどいらっしゃいません。

  しかし、この旧称である太郎岳には、江戸時代に編纂された(大村)郷村記が正確とするなら長崎県内でも相当古い宗教上の施設=太郎岳大権現があった所でもあります。あと、この山を馴染んでいたのは現代人だけではありません。まずは、、”大村の原人”とも言える大村に最初に住み始めた人の遺跡として名高い約1万3千年前の野岳遺跡(原始時代のページを参照)も、この山の中腹部に当たります。

左側:郡岳(826m、大村市重井田町)旧称:太郎岳、手前は郡川

  あと、江戸時代に大村藩が編纂した(大村)郷村記では主に、『郡村之内 福重村』の項などに郡岳太郎岳大権現のことが書かれています。 普通、(大村)郷村記といえば役人(武士)が書いた記録集で、分りやすく表現するなら味も素っ気もない文章ばかりです。

 しかし、この郡岳を述べている文章は、その山容、雨、霧、雲、川、水などの自然現象、さらには土地を肥えさせていることまで、豊かな表現を用いて書いてあります。
私が今まで読んだ郷村記の項目の中で、ベスト3に入る位の名文章と思えるものです。今回のシリーズは、この(大村)郷村記の記述を中心にして、また、 これを手引書にして郡岳の現地調査した途中経過の報告書みたいな形式にもなっています。

 あと、先にお断りも書いておきます。実は、このシリーズの前に私は既に次の『古代の道、福重の修験道』、『郡岳』、『坊岩』、『郡岳登山』の各ページに、バラバラの個別テーマながら今回これから書こうとすることと同じような内容を詳細に書いています。率直に申し上げて、今回のシリーズ内容と、先の各ページ記述と、ほとんど重複しているとも言えます。

 ただし、先のページ掲載年からの経過もありますし、その後いくつか分かった資料(史料)や何回かの郡岳への現地調査も実施しましたので、その当時と違った内容や補足みたいなことも当然書いています。

 また、先の違うテーマ別で一部分づつを小分けした作りではなく、今回のページで太郎岳大権現それ自体を主題にした書き方をやってみようと思いました。それと、ホームページ閲覧上の話しなりますが、何か別のシリーズで参照リンクを張る場合、「○○○ページの3段目記述参照」とか、全く違うページの「5段目を参照」みたいな方法は、全体の内容が把握できず分かりずらい面もあります。

 やはり、「詳細は、このページを参照」みたいなリンク方法が分かりやすいとも思ったからです。つまり、他のシリーズで今回のテーマを参照して頂くなら「太郎岳大権現については、このページをご参照下さい」と言う一本化の方が、より便利だと思ったからです。(これは何事もサボリ症の私自身の回避策でもあるのですが)そのような点から、先に挙げた各ページと重複した内容になりますが、この点はご了承の上、閲覧をお願いします。
なお、総合的なまとめも考えていますが、今回の場合、調査項目が現地別、内容別になっているため個別の簡潔なまとめも交えながら書き加えていく方式にしました。

謎だった古代の寺院跡の発見と紹介
 
上記や先に紹介しました個別ページに既に書いていますが、郡岳に現存している太郎岳大権現の寺院跡は、江戸時代の(大村)郷村記に書いてありましたが、近代になっては誰も語ることも書籍化されることもありませんでした。その結果、地元でも大村市内の郷土史愛好家の間でも、その存在さえ知らない、分かりやすく言いますと「謎の古代寺院跡」と言う状況でした。

 私は、2007年5月27日、郷土史研究目的で登山し、その時に郡岳頂上に現存する礎石跡を発見し、後日ホームページに「(大村の歴史)古代の道、福重の修験道(<9>三尊をまつった太郎岳大権現) 」として掲載しました。また、その数年後、郡岳の八合目東側付近にある本坊跡の発見もおこないました。そのような調査登山は、2012年現在まで約5年間で10数回にも及んでいます。また、2010年12月には2名の方と一緒に登山して本坊跡(大村郷村記内容では「縦9m、横36mの平坦な場所」)や礎石跡(4個の柱石跡)を確認して頂きました。このような経過もあり、今回のページは簡単に言えば、謎だった古代の寺院跡の発見と紹介内容でもあります。

太郎岳大権現の宗教は神仏習合で郡岳に開山し、その後、多良岳に遷座した

 なお、この太郎岳大権現は、大村郷村記の記述が正しければ奈良時代の和同年間(708〜715年)に郡岳(826m)の旧称の太郎岳に開山し、その後、戦国時代の文明年間(1469〜1486年)に現在の多良岳(996m)に遷座したことが書いてあります。また、私の推測ながら太郎岳大権現の宗教は、神仏習合(神仏混淆)だと思っています。このようなことも含めて、後の項目で詳細に書こうと思っています、

 現在の郡岳は、1年中登山客の絶えない山です。登山だけでなく、中腹部(ゴルフ場の上側周辺)には、林道や自然散策路もあり、森林浴、バードウォッチング、ハイキングなど家族でも楽しめる場所でもあります。そのような機会に、何か、この太郎岳大権現に直接、間接結びつくような情報を仕入れられたら、教えて頂けないでしょうか。そのようなことも要請しつつ、このページを閲覧して頂ける皆様、よろしくお願いします。

(初回掲載日:2010年5月15日

主な調査内容や期間など
 私は、今回の太郎岳大権現シリーズを書く前に、下記のような場所や項目の調査を行ってきました。また、調査期間も2003年をスタートとし、現在もこれからも継続しています。

郡岳、左側の八合目付近の岩が坊岩、
写真中央付近が推定の本坊跡(坊屋敷)

1)調査期間
  2003年11月10日福重郷土史同好会(当初、福重郷土史講座でスタート)発足当時から関心を持って現在(2010年)まで調査してきた。特に、2005年5月27日には、郡岳頂上にある礎石跡などを探して登頂した。(参照HP『郡岳登山』) また、約7年間で郡岳中腹部にあった本坊跡(坊屋敷)を探して合計5回ほど行った。(この後も2010年6月10日と16日、頂上へ調査登山した)

2)主な調査場所
  ・郡岳頂上礎石跡など
  ・坊岩(ぼうのいわ)=郡岳の西側八合目当たりにある高さ40m弱、幅約50m位の岩。
  ・本坊跡(坊屋敷)関係=江戸時代に)本坊跡周辺にあった(大村郷村記に書いてある)と言う郡岳の中腹部の平坦な所、泉(汲川)、周囲約106cmの杉の木など。

3) 概要地図や写真
  ・上記2)の場所で写真は主に撮った。(このページでも掲載予定)

4)資料(資料)関係

  大村郷村記に書いてある『郡村之内 福重村』の郡岳太郎岳大権現の項など。(前項
の現代語訳など)

上記は、今回のシリーズを書くにあたっての一つの調査の中間まとめみたいなものです。これらの諸取り組みは、今後も継続します。特に、郡岳中腹は、考えています。

(掲載日:2010年5月18日

用語解説(一部)
 下記の用語解説は、国語辞典『大辞泉』、大村史談会発行『大村史談』、大村郷村記(1982〜1987年、藤野保氏発行)などを引用、参照して書きました。(順不同) 下記「」内が国語辞典の大辞泉からの引用で、<>内は大村史談会発行『大村史談』、大村郷村記などからの引用です。さらに必要に応じて追加掲載する予定です。

用 語 (読み)
用 語 解 説
・仏教(ぶっきょう)
「釈迦(しゃか)の説いた仏となるための教え。キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。人生は苦であるということから出発し、八正道(はっしょうどう)の実践により解脱(げだつ)して涅槃(ねはん)に至ることを説く。前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある」

・神仏習合(しんぶつしゅうごう)

日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説。奈良時代、神社に付属して神宮寺が建てられ、平安時代以降、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)やその逆の反本地垂迹説などが起こり、明治政府の神仏分離政策まで人々の間に広く浸透した。神仏混淆。
・神仏混淆(しんぶつこんこう)  (上記の「神仏習合」を参照)
・法相宗(ほっそうしゅう)
「中国十三宗・日本南都六宗の一。瑜伽論(ゆがろん)・成唯識論(じょうゆいしきろん)などを根本典籍とし、万有は識すなわち心の働きによるものとして、存在するものの相を究明する宗派
・行基(ぎょうき)
「[668〜749]奈良時代の僧。百済(くだら)系の渡来人、高志(こし)氏の出身。和泉(いずみ)の人。法相(ほっそう)宗を学び、諸国を巡って布教。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが、僧尼令違反として禁止された。のち、聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。行基菩薩。ぎょうぎ」
・太郎岳(たろうだけ)
<現在の郡岳(826m)の旧称である>(詳細は、郡岳を参照)
・権現(ごんげん)
「1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れること。 2 仏・菩薩の垂迹(すいじゃく)として化身して現れた日本の神。本地垂迹説による。熊野権現・金毘羅(こんぴら)権現などの類。 3 仏・菩薩にならって称した神号。東照大権現(徳川家康)の類。」
・太郎岳大権現
(たろうだけだいごんげん)
<大村郷村記によると、僧の行基が奈良時代の和銅年間(708〜715年)に弥陀(みだ)、釈迦(しゃか)、観音(かんのん)の三尊をまつって太郎岳大権現を開山したことを伝えている。この太郎岳大権現は後世に現在の多良岳(たらだけ)に移ったと言われている。多良岳の語源は、この「たろうだけ」が変化したものと言われている>(詳細は、郡岳を参照)
・岩岳(ぼうのいわ)
大村郷村記によると、<西の方に坊岩とて高サ弐拾間余の大岩あり 山の八合目位にあたり郡往還より能みゆるなり >と記述されている岩である。現代語訳すると、”西の方に坊岩(ぼうのいわ)と言って高さ36mあまりの大きな岩がある。山の八合目くらいにあって郡村の道路から良く見える”と言う意味である。(詳細は、坊岩を参照)
・本坊(ほんぼう)
<1 末寺から本寺をいうときの呼び名。2 寺院で、住職の住む僧坊>(注:このページでは、2の意味である)
・礎石(そせき)
<1 建物の土台となる石。基礎となる石。いしずえ>
・汲川(くむかわ、くみかわ)

大村郷村記によると、(太郎岳大権現の本坊から見て)<此処辰巳の方に汲川とて清水あり>と記述されている泉である。現代語訳すると(本坊から見て)”南東の方角に汲川といって清水がある。”と言う意味である。

紫雲山延命寺
(しうんざんえんみょうじ)
旧・松原村北木場今山(現・松原三丁目)にあった禅宗の寺院である。下記の縁起には「本来、法相宗(ほっそうしゅう)であった」と記されている。
・紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんみょうじえんぎ)
大村郷村記「松原村」の項に、この寺の縁起(起源・沿革や由来)が記述されている。
紫雲山延命寺の標石
(しうんざんえんみょうじのひょうせき)
昭和30年代に当時の大村市矢上郷(現・福重町)妙宣寺で見つかった標石(土台石、礎石)で「天平念戊子八月(てんぴよう つちのとね はちがつ) <天平戊子=西暦748年>と彫りこまれている。現在は大村市立史料館所蔵。
・妙宣寺(みょうせんじ)
大村市福重町にある日蓮宗の寺院である。江戸時代1602年に宮小路にて創建され、その後1614年に現在地に移設された。 深重山妙宣寺。
・神宮寺(じんぐう‐じ) 「神社に付属して建てられた寺。神仏習合の結果生じたもので、社僧(別当)が、神前読経など神社の祭祀(さいし)を仏式で行った。明治の神仏分離令で分立または廃絶。神供寺。宮寺。別当寺。神護寺。」
- -

(掲載日:2010年5月21日

関係年表(一部)
 下記は、今回のテーマである太郎岳大権現関係の年表(一部)です。この表の作成にあたり、主に国語辞典の大辞泉と大村郷村記(1982〜1987年、藤野保氏発行)などを引用、参照しました。下記「」内が大辞泉からの引用です。また、主な出来事などは、これからも追加掲載していく予定です。

時代区分
主 な 出 来 事

古墳時代
(3世紀末頃

飛鳥時代
(6世紀末〜7世紀頃)

・「645(大化元)年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革=大化の改新」を行った。
・「680年、天武天皇により薬師寺建立を発願し、697年に持統天皇によって本尊開眼。」
・「701(大宝元)年、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふじわらのふひと)らが中心となって大宝律令を編集。」 この前後頃に肥前国は成立か。
奈良時代
(710年 - 794年)

・「710(和銅3)年、元明天皇の藤原京から平城京へ遷都し、桓武天皇が784(延暦3)年、長岡京に遷都するまでの間に奈良に都が置かれた。」
・大村郷村記によれば和銅年間(708〜715年)に太郎岳(郡岳の旧称)に三尊を祀る。=太郎岳大権現の開山
・732 年以後数年の間で肥前国風土記が成立か。
・741年、聖武天皇は諸国に国分寺建立の詔(みことのり=天子の命令)を発した。
・748年(天平念戊子八月)、紫雲山延命寺の創建。(当時は山号はなし。山号は後世に付いた)

・749(天平勝宝元)年、奈良東大寺大仏殿の本尊。(通称「奈良の大仏さん」)創建。752(天平勝宝4)年に開眼供養。

平安時代
(794年- 1185年)

・「794年(延暦13)、桓武天皇が平安京へ遷都。ここからから1185年(文治元年)の鎌倉幕府の成立までの約400年間を平安時代と言う。」
・「延喜式=弘仁式・貞観式以降の律令の施行細則を取捨・集大成したもの。50巻。三代式の一。延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長5年(927)成立。康保4年(967)施行。」
・「平安後期から鎌倉時代にかけて末法思想(仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想)が流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。」
1007(寛弘4)年の在銘がある藤原道長奉納の経筒がある。(金峯山経塚、きんぶせんきょうづか)日本最古の経筒と言われている。
・末法思想流行=大村の経筒の内、弥勒寺の経筒、草場の経筒さらには箕島の経筒<文治元年(1185年)や石堂屋敷の単体仏など建立。上八龍の線刻石仏もこの頃
でと言われている。

鎌倉時代
(1185年 - 1333年)

・「1185(文治元)年、源頼朝が守護・地頭を設置したときから、元弘3年(1333)北条高時が滅亡するまでの約150年間を鎌倉時代というが、始期については諸説がある。 」

室町時代
・「足利(あしかが)氏が京都室町に幕府をおいて政権を保持した時代。尊氏(たかうじ)が幕府を開いた延元元年=建武3年(1336)から15代将軍義昭が織田信長に追放される天正元年(1573)に至る約240年間。また、元中9=明徳3年(1392)の南北朝合一までを南北朝時代、応仁元年(1467)応仁の乱勃発以降を戦国時代とよぶこともある。足利時代。 」
戦国時代

・大村郷村記によれば文明年間(1469〜1486年)の頃に、太郎岳大権現(郡岳826m)が、萱瀬山の奥太郎岳に遷座した。(このことから現在の多良岳の名前の由来も、「たろうだけ」から「たらだけ=多良岳」に変化したものと言われている)後世に「太良山金泉寺」とも呼ばれた。

・1574(天正2)年、大村純忠は、この年以前より宣教師から度重なる要請(他宗教への弾圧などのこと)を受けていたが、ついに宣教師に対し許可した。そして、この年を中心に(それ以降も含め)キリシタンは神社仏閣のいっせい破壊・焼き討ち・略奪、仏教僧侶などの殺害、さらには大村家の墓を暴き郡川に流したことなどが起こった。当然、「太良山金泉寺」がキリシタンより焼き討ちにあった。


江戸時代

・1660(万治3)年、池田に多羅山宝円寺が建立(=「太良山金泉寺」の再建)され、多羅山大権現と言う神社もあった。

明治時代

・1871(明治4)年、多羅山宝円寺多羅山大権現とも廃社となった。

(掲載日:2010年5月22日

1)大村郷村記関係記述
  江戸時代に大村藩によって編纂された郷村記、現在、一般には
大村郷村記(1982〜1987年、藤野保氏発行)の復刻版で見れるため、以降、大村郷村記で表示します。この大村郷村記と今回の太郎岳大権現についての関係記述は、大村郷村記の『郡村之内 福重村』の『郡岳並坊屋鋪之事』の項に郡岳や太郎岳大権現について、下記の通り書かれています。

 今回分かりやすいように郡岳坊屋敷を二つに分け、現代語訳も同様にしています。なお、見やすくするために文章の区切りと思われる箇所に空白(スペース)を挿入しています。 また、太文字や下線(アンダーライン)は、上野が付けました。

郡岳について  大村郷村記は次の「」内の通りです。
 「 一 郡岳  当岳往古太郎岳と云 郡村の頂にあり 故に方今郡岳と唱ふ 此山峨々として麓を距る貳里余 萱瀬・千綿の諸岳山脈を是を伝ふ 夫山川は万物を生育するの具にして其一欠る時は土壌乾涸し 五穀生するあたはす 因て水面若しくは湫溢より上騰する浮遊の気風を得て山嶺に上り 冷気を請て聚凝し 或は靄雲と成て山脊を滋潤し 或は濃雲と成て水液を含蓄するもの山脊を衝触すれは忽破裂して雨を降し土壌をして肥腴富饒ならしむるなり ゆへに山川は国の至要たり 当山樹木森列として雲霧常に其頂を蔽ひ 又能驟雨を送る 因て郡村の土壌肥饒なり 曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す 今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり 当山鎮座の時太郎岳権現と称す文明の比皆是山の奥太郎岳に遷座して太郎岳大権現之唱ふ 万治年中池田の里に再興ありて多羅山大権現と号す 由来大村神社の条下に詳也 」

上記の現代語訳 下記<>内の通りです。
  郡岳 当岳(当山)は、大昔「太郎岳」と呼ばれていた。郡村(こおりむら)の一番高いところである。色々な理由や経過があって、今は郡岳と言う。この山はそびえ立っていて麓(ふもと)からの距離は、8km少々である。萱瀬(かやぜ)から千綿(ちわた)方面に伝わっている山並みに連なっている。  この山川は、万物(の動植物)を生育する栄養であり、その一つでも欠ければ土壌は乾燥して固まってしまい、総ての穀物が育たない。

 また、水面や低湿地より上がる蒸気の上昇気流に乗って山にのぼることにより冷気になって集合して固まり、あるいは、霧や雲となって山並みを潤して、あるいは濃い雲となって水を蓄えて山脈に触れると破裂して雨を降らし、土壌を肥沃にして豊かにしている。  そのため山川は国(この土地)にとって、大変大事である。当山は樹木も多くて、雲や霧が常にその山頂をおおっており、にわか雨をふらすこともある。そのため、郡村は土壌が肥えていて豊かである。

手前が野岳湖、奥の山が郡岳

  かつて、元明天皇の治世の和銅年間に管原寺の最高位の僧侶である行基が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ)、釈迦(しゃか)、観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した。今は大村の池田の里にあって多羅大権現となっている。大昔より(太郎岳大権現の)あった跡でもあるので、今も頂上にまつるための礎石跡が残っている 

  当山(後年の郡岳)鎮座の時には太郎岳大権現と呼ばれていた。文明年間(1469〜1486年)の頃に萱瀬山の奥太郎岳に遷座したため、これを太郎岳大権現と呼ばれた。万治年間(1658〜1660年)池田の里に再興(再建)されて多羅山大権現と言っている。由来は大村神社の項に詳細書いてある >

坊屋敷について 大村郷村記は次の「」内の通りです。
 「 坊屋鋪 郡岳南の方半腹に堅五間横弐拾間程の平地あり  此処往古太郎岳権現垂跡の時本坊ありし蹟にて今に此処を坊屋鋪と云 側に凡三尺五寸廻リの杉壱本あり 此処辰巳の方に汲川とて清水あり 又西の方に坊岩とて高サ弐拾間余の大岩あり 山の八合目位にあたり郡往還より能みゆるなり  (以下省略) 」

上記の現代語訳は下記<>内の通りです。
  坊屋敷(ぼうやしき) 郡岳南側の中腹に縦9m、横36mの平地がある。ここは大昔、太郎岳権現があった頃の本坊の跡で、現在ここを坊屋敷と言う。そばにおおよそ106cmの杉の木が1本ある。ここから南東の方角に汲川といって清水がある。また、西の方に坊岩(ぼうのいわ)と言って高さ36mあまりの大きな岩がある。山の八合目くらいにあって郡村の道路から良く見える。 


  以上が、大村郷村記と、その現代語訳です。坊屋敷は先にも書いている通り、太郎岳大権現の本坊跡です。この本坊跡周辺は、けっこうひろいため、その存在のヒント(平坦な所、泉、杉の木など)まで大村郷村記には書いてあります。また、郡岳頂上にある礎石跡について、簡単なながら記述されています。このようなことを手掛かりに次の項目から、私が探し歩いた内容を書いていきたいと思っています。

(初回掲載日:2010年5月27日

2)郡岳頂上にある太郎岳大権現の礎石跡について
 まず、大村郷村記(上記項目に現代語訳含めて掲載中)を参考にすると、郡岳(826m)の頂上に太郎岳大権現の三尊(
弥陀、釈迦、観音)をまつるための建物の礎石跡(柱石の跡)が残っていると言うことです。この記述を参照し、私は2005年5月27日に、(調査目的の第一回目の)郡岳登山しました。この時、頂上付近を約30分間探し、結果、草も一部かき分けたところ一箇所だけ興味深い平たい石3個だけを発見しました。(この時は、残り1個を見つけきれませんでした)

郡岳(826m)頂上(三角点がある)
下記写真=礎石跡の前方になる
太郎岳大権現の礎石跡(平らな4個)
やや中央右端1個は、重石目的の石か?
写真奥の方が三角点(大村湾)側
手前が遠目岳や南登山口側

4個の礎石跡(柱石跡)全部発見
 その後、今年(2010年)6月10日に(調査目的の第二回目の)登山をし、約1時間強かけて頂上部分の再調査をおこないました。結果、前回、萱(かや)と地中に埋まっていた最後の1個の柱石跡も発見し、これで合計4個そろいました。また、今回は巻尺で計測もおこないました。右側の上から2番目写真でもお分かりの通り、4個いずれも表面が平らです。しかも、一列目も二列目の石も間隔が、ほぼ同じです。また、左右あるいは前後の石同士の中心点間隔は、長さは同じでした。

 計測の結果、(写真で見れば横幅となる)中心点間隔は、前後の列とも同じ110cmです。また、(写真で見れば奥行きとなる)左列と右列の石の中心点間隔は、両列とも同じ長さの100cmでした。あと、自然石のため大きさに違いがあるので、石の両端同士なら前後の列間や左右の列間の長さの違いは若干あります。ただし、石一杯の大きさの柱を立てる訳はありませんので、長さの違いはないのと同じことでしょう。

 一目見て、これらの石は自然にあったものではなく、目的を持って配置されていることが直ぐに分かるものでした。つまり、これは太郎岳大権現の礎石跡(柱石跡)と思えるものです。4個の石の中心点間隔からして、拝殿の柱同士は横幅110cm、奥行き100cmに建てられたものと推測できました。ただし、拝殿そのものは屋根形状の関係から、もう少し大きいのは当然です。たぶんに屋根の横幅、奥行きとも、先の長さに数十センチメートルを足したものと予想できます。

 また、これ位の横幅があれば三尊は安置できるとも考えました。この礎石跡らしき所から約15メートル位行った先が郡岳頂上の三角点で大村湾などを始め、まるでパノラマのように見える所です。ただし、このようにこれだけ開けたのは(パラグライダーとの関係もあるのか)近年のことだろうと思われます。

 山の頂上ですから古代の当時も強風などの関係から、三角点側より少しでも風対策にもなる礎石跡らしき所が本殿には向いていたのではないでしょうか。次に 礎石跡から想像して、太郎岳頂上にあった大権現の大きさは、どのようなものかを想像してみました。

 まず(大村)郷村記には三尊(弥陀、釈迦、観音)が祀られていたと記述されています。それで、最低でも三尊を安置できる規模が必要です。しかし、なんと言っても風雪の強い郡岳(826m)の頂上にあった権現様なので、大きな規模(現在、大村市内に多く見られる神社や権現様みたいな大きさ)でなかったことは直ぐにでも推定できるものです。

 あと、先の三尊の内の一つの大きさとして想像上参照できるのが、江戸時代頃に制作された弥勒寺の妙見菩薩です。これは、目算ながら台座より上の部分が約25cm、高さ約70cmあり、全体的に細い感じがします。 もしも、この大きさで三尊を連続して並べたとしたら横幅合計が約75cmで間隔も含めても社(やしろ)の横幅は、1メートル数十センチか、それ以下でも充分可能と思われます。また、御神体が、市内の神社などで見られるような丸い鏡みたいな形式なら、上記よりもさらに拝殿の高さは必要ないかもしれません。

 この社のサイズに近いイメージとして10人位で担ぐ神輿(みこし)みたいな大きさを私は思い浮かべます。屋根は、瓦の可能性もありますが、山の頂上だったので運ぶのに困難だったら杉の皮か藁(わら)だったかもしれません。そして、板壁に囲まれた室内には、ご神体の三尊が横一列に安置され、拝観者は外から立ったままで拝んでいたのではないかと想像します。

 上記のことを参考にしつつ現在の建物で、どこか分かりやすい参考例はないか私なりに探してみました。そして、大村市草場町に松尾神社(まつのおじんじゃ)の本殿横に、元の松尾神社を祀る社(やしろ)があります。この大きさは、横幅約250cm、奥行き約180cmありますので、太郎岳大権現の頂上にあった社は、この約半分くらいの規模だったと想像しました。

 
私は、元の松尾神社を祀る社(やしろ)などを見て改めて思うのですが、元々山の頂上にあったのですから、中腹にあった本坊と、その目的も規模も全然違うはずです。頂上には、三尊を安置できる程度があれば充分だったと思っています。そのようなことから、上記写真の礎石跡は、丁度良いくらいの柱石と思われます。

(掲載日:2010年5月29日、第二次掲載日:2010年6月12日
次掲載日:2010年6月13日

3)郡岳中腹の本坊跡(坊屋敷)について
 この本坊跡(坊屋敷)を探すヒントは、(大村)郷村記に書いてあります。先に紹介しました大村郷村記の現代語訳を要約しますと、
(1)郡岳南側の中腹の平地=縦9m、横36mの平坦な場所(太郎岳権現があった頃の本坊の跡で、ここを坊屋敷と言う)がある。
(2)本坊近くの杉の木=106cmの杉の木が1本ある。
(3)本坊から南東の方角に汲川(くみかわ、くむかわ)と言う泉(清水)がある。
(4)郡岳(八合目付近)の西側西方に坊岩(ぼうのいわ)と言って高さ36mあまりの大きな岩がある。
などと書いてあります。

郡岳、左側の八合目付近の岩が坊岩、
写真中央付近が推定の本坊跡(坊屋敷)

郡岳の坊岩

 ここから、お断りを書きます。私は、本坊跡(坊屋敷)を調べて上記(1)、(2)、(3)、(4)の写真も何十枚と撮影しました。また、これらを基に2010年5月17日に開催された福重郷土史同好会・第32回例会と2011年1月14日の第36回例会に推定位置の写真や地図も含めて報告書を提出しています。ですから、このホームページにも、その地図や写真を付けての掲載も考えていました。しかし、この本坊跡の推定位置は、100%確定位置ではではありませんが、第一候補地として、かなり有力な場所です。その概要を下記に書きます。

太郎岳大権現の本坊跡(第一有力候補地について)
 念のため先に書いておきますが、この太郎岳大権現本坊跡は、決定的とも言える、例えば石碑(文字や宗教上の印など)、あるいはこの当時の遺物(日用品や食器類など)が見つかっていません。ですから、これから書いていますことは、本坊跡の一つの有力な候補地ではないかと思いつつも、まだまだ100%断定と言う訳ではありません。

 しかし、私なりに5か所近くの本坊跡候補地を具体的に調査、写真撮影、その他しながら、消去法で順次削除していくと、この項目の右側1番目写真=
推定の本坊跡(坊屋敷)となりました。この場所は、南登山口コース・7〜8合目の間付近で、「あと頂上まで、1.4km」の標識横にある横幅約50m、奥行き約10mの平地です。

 他の7〜8合目付近は全て(林で)傾斜のある土地、あるいは炭焼き小屋跡、登山道やけもの道ばかりです。しかし、この推定の本坊跡の平地は、ここだけが、まるで建物跡か、その後に炭焼き小屋の運搬用メイン基地なったのではないかと思える位の平らな土地なのです。

 しかも、現在は登山道=昔は修験道の真横になります。また、上記(大村)郷村記の「(2)本坊近くの杉の木=106cmの杉の木が1本ある」と同じ木かどうか不明ながら、似たようなサイズの大木が倒木として現在横たわってもいます。

 ここからだと、郡岳頂上の上宮(4個の礎石跡が現存)にお参りに行くのに、あと一息と言う位置関係です。また、木が繁っていなければ、上記(4)の坊岩も西側に見えたことでしょう。あと、上記の「(3)本坊から南東の方角に汲川(くみかわ、くむかわ)と言う泉(清水)がある」の件ですが、この方角が正しい記述とするなら現在、市民の方が湧水を汲みに来ておられる「大谷水神の湧水」かもしれません。

 以上のような根拠から私は、繰り返しになりますが「100%確定、断定」とまでは言いませんが、推定の本坊跡(坊屋敷)=南登山口コース・7〜8合目の間付近で、「あと頂上まで、1.4km」の標識横にある横幅約50m、奥行き約10mの平地は、かなり有力な候補地と思っています。また、何か新たな事柄が判明すれば、改訂もしたいと考えています。

(掲載日:2010年6月2日、第二次掲載日=改訂:2012年7月7日

郡岳、左側の八合目付近の岩が坊岩、
写真中央付近が推定の本坊跡(坊屋敷)

私の推測含めた太郎岳大権現の礎石跡と本坊跡の推定位置のまとめ
 太郎岳大権現の(郡岳頂上にある)礎石跡と(同じく中腹にある)本坊跡について、現時点(2012年7月現在)のまとめを下記(1)(2)に書いています。念のために、「これにて全て特定、100%確定であるから、この件は調査も文書化も終了」と、私自身も言っていません。さらに多くの方から情報を寄せて頂くための資料として下記の(1)(2)は、まとめています。

(1)郡岳頂上にある礎石跡について、先の「2)郡岳頂上にある太郎岳大権現の礎石跡について」の項目に写真付きで掲載していますが、これが礎石跡(柱石跡)と思っています。

(2) 郡岳中腹にあった本坊跡(坊屋敷)について
推定の本坊跡(坊屋敷)=南口登山口コース・7〜8合目の間付近で、「あと頂上まで、1.4km」の標識横にある横幅約50m、奥行き約10mの平地にあったと思われます。

 ただし、ここには上記の(1)みたいな礎石跡みたいな史料がないので断定できていないので、これからも、まだまだ調査は必要です。また、今後の調査で何か例えば文字や印の刻まれた石、本坊で使われた日用品(茶碗、食器類)などが、出土することを期待もしています。

 あと、上記(1)(2)は、あくまでも上野個人の推測と現時点(2012年7月現在)の判断であって、今後、新たな史料(資料)や遺物の発見があれば、この件について変える可能性がありますので、この点は、どうかご了承願います。

(掲載日:2010年6月5日
第二次掲載日=改訂:2012年7月7

5)太郎岳大権現は、どんな宗教だったのか?
 まず、(大村)郷村記を参照すれば、
この太郎岳大権現は「三尊(弥陀、釈迦、観音)を祀っていた」と書いてあります。併せて真偽のほど定かではありませんが、「僧の行基が開山した」こともあり、仏教施設と思われます。しかし、私は神仏習合(しんぶつしゅうごう)=神仏混淆(しんぶつこんこう)ではなかったかとも思っています。

 神仏習合は、文字数では4文字ながら、そのことをどう理解し、どう表現したらいいのか、なかなか私のような素人で不勉強者にとって率直に言いまして難しく、これから書いていることは、ピント外れもいいとこかもしれません。あくまでも一つの参考意見として、ご覧頂けないでしょうか。この神仏習合は、国語辞典の大辞泉によれば、次の<>内の通りです。

 日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説。奈良時代、神社に付属して神宮寺が建てられ、平安時代以降、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)やその逆の反本地垂迹説などが起こり、明治政府の神仏分離政策まで人々の間に広く浸透した

 あと、太郎岳大権現の名称になっている権現とは、上記と同じ辞典によれば、次の<>内の通りです。 1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れること。 2 仏・菩薩の垂迹(すいじゃく)として化身して現れた日本の神。本地垂迹説による。熊野権現・金毘羅(こんぴら)権現などの類。 3 仏・菩薩にならって称した神号。東照大権現(徳川家康)の類

左奥の山が郡岳、右側の川が郡川

 私は太郎岳大権現について、「三尊を祀っていた」と古記録にあるにも関わらず、なぜ、「神仏習合」説も挙げているかには、いくつか理由があります。

(1)太郎岳大権現という名称から考えて
(後世2回の移転後も”大権現”の名称は変わらなかった)
 「名称から話すのは単純過ぎないか?」とか、「奈良時代の宗教施設を後世のこと含めて話すのは関係ないのでは?」などの指摘があるかもしれません。しかし、古来から「名は体を表す」(=「名はそのものの実体を表している。名と実は相応ずる 」大辞泉より)という言葉もあります。この太郎岳大権現の名前そのものから宗教との関係も見ておく必要があるのではと、私は思いました。

 それで、仮に山の名前から例えば「太郎寺」とか地域名からして例えば「重井田寺」とか呼ばれていたとするなら、祀られていた三尊と併せ、名実ともに「なるほど、仏教寺院だったのだなあ」と直ぐに分かるはずです。しかし、実際は太郎岳大権現という名称でした。

 この名前は、年代は不明ながら後世に移転した(現在の多良岳にあった)太良岳大権現(金泉寺)でも同じでした。ただし、多良山金泉寺という明らかな仏教寺院の名前も、この所からは登場してきます。さらに時代は下り戦国時代に入り、キリシタンによって多良岳大権現(多良山金泉寺)は、焼き討ち、破壊、略奪などにあいました。

 その後、江戸時代になり現在の大村市池田に多羅山大権現の神社と、(多良山金泉寺が改名されて)多羅山宝円寺が再建されて、1871(明治4)年の廃社廃寺まで続きました。(この項、『大村市の文化財』改訂版63ページ参照)つまり、3箇所の変遷はありますが、(太郎岳)大権現の名前そのものは、ずっと変わっていないのです。

 名称の「大権現」からすれば、現在なら大村市内に沢山ある権現様=神社ですが、この様式は明治時代以降のことです。奈良時代初期も、同じような神社だったと考えるのは早計だと言うことは、今まで述べてきた通りです。あと、上記で引用した国語辞典にも書いてある通り、奈良時代頃の宗教の分け方は、日本固有のものと外来の仏教などが混在あるいは両方崇拝したなど、けっこう複雑なのです。また、宗教の伝播時期のズレから、後で一緒になった、逆に宗派別に分かれていったなどの可能性もあるかもしれません。

 ですから、豆腐切ったみたいに、奈良時代頃の宗教について「あれは仏教だ」、「これは神道だ」、「あそこは神仏習合だ」みたいに綺麗に区別できたものでしょうか。また、たとえ混在していたとしても、どちらが一方的に強い、逆に弱いと言うことではなく、いずれも同じように共存していたのではないかと思えます。私のように名称などから考えて「太郎岳大権現は神仏習合だったのでは?」と言ってみたところで、なかなか明快な根拠も言えないし、複雑なところがあります。

(2)三回移転し、キリシタンの破壊攻撃から逃れた太郎岳大権現の祭神
 太郎岳大権現のあった場所ですが、郡岳の旧称である(奈良時代頃の)太郎岳を1回目としたら、次に移転し2回目は(現在の)多良岳(太良山大権現、太良山金泉寺)、同じく3回目は現在の大村市池田(旧・多羅大権現、旧・池田山宝円寺)でした。(大村)郷村記には、この移転の初回から3回目に至るまで連綿と継続した祭神について記述されています。しかも、この祭神は戦国時代、キリシタンによる他宗教や僧侶に対する苛烈とも思える焼き討ち、破壊、略奪や殺害攻撃をくぐりぬけてきたものと思われます。

 この(大村)郷村記と今回の祭神についての関係記述は、大村郷村記の「大村池田之部 神社」の『多羅大権現』の項に下記の「」内の通り書かれています。ただし、原本は縦書きですので横書きにする時、改行なども変えています。さらに、旧漢字体の変換、見やすくするために文章の区切りと思われる箇所に空白(スペース)を挿入しています。 また、太文字や下線(アンダーライン)は、上野が付けました。下記はあくまでも参考程度にご覧になり、引用その他は是非原本から、お願いします。

 「 一 多羅山大権現 在玖嶋城鬼門池田山北、大村家鎭護宗廟  神宮寺 多羅山寳圓寺
祭神  阿彌陀如來  千手観世音  釈迦如来     
神躰三尊共唐金坐像、長八寸各径壹尺三寸、圓相之内二鑄附、此三尊往昔降臨于 郡岳之嶺之神霊也、縁起記載于末文 

 上記の現代語訳は、下記<>内の通りです。
ただし、素人訳なので、ご参考程度にご覧願います。また、分かりやすく、( )内など補足もして、さらにも付けています。

  多羅山大権現 玖嶋城(大村城)からみたら鬼門にあたる池田山の北に当たる所にある。大村家先祖のみたまを安置する所である。神宮寺(注1)は多羅山寳圓寺(注2)である。 (この多羅山大権現の)祭神は、阿彌陀如來千手観世音釈迦如来である。 御神体は三尊(注3)とも唐金坐像(注4)である。長さ8寸(24cm)、各々の直径は1尺3寸(約39cm)である。円形の中に鋳物が付いている。 この三尊(注3は大昔、天上から神が郡岳の頂きに降臨した時の神霊という。 (三尊の)由緒などは末尾に(説明)文章がある。  

右奥の山が、郡岳

注1:神宮寺とは、(国語辞典の大辞泉より「神社に付属して建てられた寺。神仏習合の結果生じたもので、社僧(別当)が、神前読経など神社の祭祀(さいし)を仏式で行った。明治の神仏分離令で分立または廃絶。神供寺。宮寺。別当寺。神護寺。 」のことである)
注2多羅山寳圓寺=多羅山宝円寺(たらさんほうえんじ)は、1871(明治4)年の廃寺となった。
注3太郎岳大権現の三尊=弥陀、釈迦、観音のこと。
注4:唐金坐像とは、青銅製で座っている像のことである。

 (大村)郷村記及びその現代語訳から太郎岳大権現の移転や祭神の状況が分かることが、いくつかあります。本テーマから脇道にそれる項目もありますが、それも含めて箇条書きにします。

・太郎岳大権現の3回目の移転先である池田山でも、多羅山大権現と多羅山宝円寺が同じ所にありました。
・太郎岳大権現の祭神(注:三尊のこと)は、「阿彌陀如來、千手観世音、釈迦如来」と書いてあります。
・(多良岳にあった頃の)戦国時代に激烈を極めたキリシタンによる焼き討ち・破壊攻撃から御神体は難を逃れ、太郎岳大権現(現在の郡岳)当時のまま池田山にも安置されていました。
・現在までに発行された書籍の一部に太良山大権現(太良山金泉寺)は、いきなり現在の多良岳で開山されたような記述も見受けられます。しかし、それは間違いで上記の御神体(三尊)の書き方を見ても、やはり郡岳の旧称である太郎岳に最初に開山され、その後に多良岳、さらに池田の山に移転していったことが良く分かる内容です。

  (大村)郷村記の記述内容が正しければ、上記のような事柄から太郎岳大権現の宗教上のことで分かるのは、やはり「仏教だ」、「神道だ」、「神仏習合だ」と簡単に区別して言いにくいことです。決して確定的に言うつもりはありませんが、太郎岳大権現の開山当時(奈良時代)の宗教は、単に仏教・神道だけと見るのではなく、やはり神仏習合(神仏混淆)も含めて考えていくべきではないかと言うのが、今まで述べてきた要旨です。

  以上、この項目は、「太郎岳大権現は、どんな宗教だったのか?」と言うテーマでした。冒頭にも書いていますが、この種の内容は率直に申し上げて私のような素人にはなかなか難しいものでした。また、今後この点についても変更の可能性もありますので、その時には改訂や補足もしてみようと思っています。

(掲載日:2010年6月9日、二次掲載日:2010年6月12日

6)謎の太郎岳大権現を調査した意義と今後の要望
 「太郎岳大権現は、郡岳の旧称=太郎岳に奈良時代初期に開山された」とのテーマで書いてます、この報告書も終りに近づいてきました。各々の項目でまとめをしている内容もありますので、今回は、この調査を行ってきた意義や要望など書いてみようと思いました。

(1)太郎岳大権現についての現地調査は初めてではないか
 太郎岳大権現は、(大村)郷村記に書かれていても、近代に大村の郷土史関係書籍類には、その名称程度で詳細な内容は、ほとんど紹介されていません。その意味から考えれば、太郎岳大権現についての現地調査や報告書作成は、始めてのことではないかと思われます。そのため、(大村)郷村記だけをたよりに調べたことは、なかなか困難でしたが、内容の不足を感じつつも私なりに意義があったと思っています。ただ、一人勝手な判断に陥りやすくもあり、中には思い違いや記述間違いなども、この報告書にはあるかとも考えています。

(2)多くの方からの情報提供を願う
 
この報告書は、これから調査される方の一つの参考材料になり、新たな調査や発見の呼び水になればと願っています。また、逆に新たに調査された方からの情報提供のきっかけになればとも思っています。とにかく、郡岳(こおりだけ、826m)は、そう高くはないものの横幅が広いのは私自身が体験上、実感しています。一人の目より家族やグループなどで郡岳登山される機会に多くの目で見られたら、また別の物が見えてくる可能性は大いにあるのかなあとも考えています。皆様からの情報をお待ちしています。

(3)多良大権現は多良岳でなく郡岳の旧称=太郎岳が発祥
 
長崎県内外広く一般には(郷土史家やマスコミまでも)、最初から多良岳(996m)にあった多良権現(金泉寺)=太良権現=多羅大権現と思っておられますが、それは間違いと思います。このことは、(大村)郷村記でも明確に(御神体や移転などが)記述されている通り、郡岳(826m)の旧称である太郎岳が太郎岳大権現の開山の地(発祥の地)であり、その後、太郎岳大権現が移ったため、「たろうだけ」から変化して「たらだけ」=多良岳となったと言われています。今回の調査報告書でも、郡岳頂上に今でも現存する礎石跡などから、より一層このことは明確になったと思います。今後、この件は、広く一般に知って頂ければなあと願ってもいます。

中央右奥の山が、郡岳
(4)史跡保存を願う
 私は、(奈良時代初期に開山されたと言う)郡岳頂上の礎石跡を歴史的な意義からしても、史跡としての保存を望むものです。できれば、簡単な案内板でも設置されれば、知らずに壊してしまったなどが、なくなると思います。また、このことは新たな観光資源にもなるのではとも考えてもいます。また、同時に郡岳中腹にあると言う本坊跡の本格調査、何らかの遺物の発見などを期待しています。

(5)長崎県内宗教史の再検討を願う
 今まで大村市内では松原地区の今山に748年(天平念戊子八月)に創建された紫雲山延命寺 (当時は山号はなし。山号は後世に付いた)が、一番古い仏教寺院と言われてきました。しかし、この太郎岳大権現は、(大村)郷村記が正しければ奈良時代初期(和銅年間=708〜715年)の開山ですので上記の紫雲山延命寺より更に古く、たぶんに長崎県内最古級の仏教、神道(宗教)施設とも言えるのではないでしょうか。ある種、今までの市内外の宗教史からも、この太郎岳大権現の歴史は、考慮してもいいテーマとも思っています。

 長崎県の古い歴史からすれば新しい時期とも言われている500年程前のキリシタン史ばかりしか毎年報道や紹介されないので、私の大阪の元同僚などからは「長崎県はたった400年か500年の歴史か。日本で一番新しい県やなあ」と誤った評価の声もあります。

 キリシタン史は、他県にない長崎の特徴事項ではあるのですが、そこに至る経過の宗教史は様々あったのだと広範に見ないと、現在のキリシタン史を中心とする”長崎県独特の歴史観”は、一面的で画一的と言われても否定できないと思います。是非その検討材料の一つに、この太郎岳大権現も加えて頂ければと願うものです。

 以上が、今回調査の意義や今後の要望内容でした。私は、これまで何回となく重複して書いていますが、「調査は、これにて終り」などとは全く思っていません。実際、このシリーズを掲載している最中でも頂上への調査登山を始め、中腹部には5回以上、本坊跡探しに行っています。今年より以前の調査を含めれば合計10回位行ったことになります。上記は、あくまでも2010年6月現在の記述であって、これからも郡岳調査は続け、結果、この報告書の改訂や補足もしてみたいと思っています。

(掲載日:2010年6月15日

あとがき
 郡岳は、とにかく中腹部の周囲(横幅)が広く、そのため今回のテーマの一つ太郎岳大権現の本坊跡探しも、2010年6月現在で正確な位置を特定できていません。そのような状況ながら、このシリーズも一旦は区切りをつけようとの思いから、あとがきを書きたいと思っています。

 郷土史に限らず歴史事項は、何か調査するにしても、その後に文章を書くにしても個人的感情や思い込みを極力排して淡々と事実関係のみの積み重ねが、正確性や信用性を増していくことは私なりに分かってはいます。ただ、そうは言っても、このシリーズ冒頭にも書きましたが、郡岳は、福重・松原・竹松地区(=郡地区)を代表する山、故郷の山です。

 私自身も福重幼稚園、福重小学校、郡中学校と約10年間、毎日のように通園通学時この山を見てきました。また、
福重小学校の校歌松原小学校の校歌にも歌われています。社会人になっても郡地区在住の方なら家から、あるいは外に出た時など日々の生活で、この山は見えます。あと、故郷を離れ遠くに住んでいても子どもの頃から見慣れた故郷の山河は、何かの時に思い出す懐かしいものです。私自身25年間の大阪時代が、そうでした。

左奥の山が郡岳、右側の川が郡川

 (大村)郷村記は、江戸時代の役人(侍)が書いている、通常は事実関係のみの味も素っけもない記述内容です。しかし、この郡岳記述部分は、その山容、雨、霧、雲、川、水などの自然現象、さらには土地を肥えさせていることまで表現豊かな書き方で、郷村記項目でベスト3に入る位の名文章です。そのくらい、当時のお侍さんにとっても、この郡岳は親しみのこもった大切な山だったのだなあと推測できます。

 また、連山が多い大村の山並みにあって、この郡岳はまるで独立鋒のように聳え立っています。しかし、その山容は非常に優しい女性か母親のような形をしています。この山麓には、野岳遺跡のように約1万3千年前の旧石器時代から人が住んでもいました。人の歴史も長いですが、それでも変わってもいきますし、当然のごとく現在生きている人でも変化や寿命は確実にあります。しかし、この山は、まるで悠然と不動のごとく太古から変わらずに私達人間の営みを見続けているような気がします。

 そのような山に(大村)郷村記内容が正しければ奈良時代初期に太郎岳大権現があったとは、私は近年まで知りませんでした。調査を開始して頂上の礎石跡は、先の項目の通り、ほぼ間違いないと思いますが、中腹部の本坊跡は確定的に言えない状況です。しかし、この礎石跡だけでも、(大村)郷村記内容の一部は証明できるものであり、そのことは同時に長い歴史のある大村の宗教史研究の材料になりうるテーマではないかとも思っています。

 長崎県内の宗教史においても、これだけ古い事項は、そう沢山あるものではないと私自身は思っています。この太郎岳大権現と『紫雲山延命寺(の標石)』は、多くの方に知って頂きたいし、願わくば研究の進むことを祈念しています。今までずっと謎で、しかも1300年前のことですから今後調査や解明は、どうなるかは予想できませんが、私にとって故郷の山、郡岳には変わりないことです。

 今後、また追加や補足を書く可能性もありますが、これまで閲覧して頂いた皆様、大変ありがとうございました。また、ご家族やグループ登山などで郡岳にいらっしゃった機会に、何か新しい発見をされたら、メールでの情報提供もお願いします。

(掲載日:2010年6月23日

郡岳関係ページ
坊岩
歴史関連ページ 大村の歴史を考えるシリーズ、お殿様の偽装
大村の歴史個別ページ目次ページに戻る

最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク