最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク

福重の名所旧跡や地形

郡岳の土砂崩れ重井田町)
郡岳の土砂崩れ(こおりだけのどしゃくずれ) 場所:長崎県大村市 重井田町
 郡岳の土砂崩れ現場は、当然一か所だけではないのですが、一番有名で国道34号線沿いの郡地区なら山頂(826m)や坊岩などともに、どこからでも視認できる所を紹介します。

 それは、左写真の中央部やや左上側(西側)に白く三日月模様に見える所です。(そこからさらに約100m先の左側にあるのが大きなな岩=坊岩) ここの土砂崩れは、過去何回も発生しています。大きさは、目測で上下の長さ約300m、横幅約30mです。現在は草木が生えて確認しずらくなっています。大きく崩れた年は、もう少し縦横とも大きく見えました。(左写真は2000年2月27日撮影で土砂崩れ直後ではなく数十年経ってからのもの)

なぜ郡岳の土砂崩れを取り上げたのか
 表題に沿って書く前に、私のもう一つのホームページに司馬遼太郎氏の言葉を引用して「自然こそ不変の価値なのである」と言うテーマを掲載中です。このページ内容は、極簡単に書きますと「(自然の姿形が変わらないとの主旨ではなく)地球上の生きとし生けるもの、人も動植物も全てが自然の恵みと支えによって生かされているということでは、過去も現在も不変ではないか」と言うことです。 

左から坊岩土砂崩れ(中央部左側)、郡岳頂上
(撮影年月日:2006年11月12日)

 その山・川・海などの自然は、通常ならばいつ見ても変わっていないように思えます。特に、自分の住んでいる周辺から見える山などは一生の間では何も変わっていないと感じておられる方も多いと推測しています。確かに山から何キロも離れた地点から見れば、その通りのように見えます。果たして全部が、ぜんぶそうでしょうか?

 私は、郷土史調査目的で2007年から郡岳登山を繰り返し、2012年現在で10数回おこないました。この間、登山道がある主に尾根状の場所だけなく、通常ならば水のないガレ場(岩石のある所で大雨時は川みたいに水が流れている所)、リンゴをガブリと食べた後のように山の地面が崩れ去った沢状の所なども見てきました。いくつかの場所では、「ここは以前見た感じと違うなあ」と思う所もありました。

 つまり、活火山みたいな変化ではないにしても、郡岳みたいに落ち着いた山でも少しずつ表情が違う=「不変ではない」と言うことが分かりました。その一つの例が今回ご紹介している土砂崩れ現場です。ここは、江戸時代からの史料(大村藩領絵図)や戦後の航空写真などから自然の変化が分かる場所でもあります。

  この場所は人家から相当離れている山の7合目〜9合目付近ですから、山岳宗教(太郎岳大権現)や炭焼き作業などを除けば直接人との関係がある歴史事項でもありません。また、将来に渡っても直ぐに人との生活上影響がある場所でもないでしょう。ただ、地形や自然の変化を何十年か単位で見ていける場所と言う意味では、市内にはそう多くはないと思われます。

  以上のようなことから今回このページでは、人の一生の内でも少しずつでも変わってきている山の変化を考えてみようと思い作成しました。ページ作成に当たり通常ならば近代に発行された本や資料を参照して書きますが、今回その種の書籍類はありません。そのようなことから、私が調べた範囲内で書いていきますが、何か思い違いなどもあるかもしれません。その点はあらかじめご容赦願います。

過去何回となく土砂崩れは発生している
 
この郡岳の土砂崩れ現場は、先の項目にも書いています通り、過去何回となく発生しています。それらについて、ご参考程度に史料や写真なども使いながら書いていきます。
右側の画像や説明文章を参照願います。なお、下記右側の大村藩領絵図は、九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )という本の附図・写真版(写真撮影者:神近義光氏)から複写しています。

(1)江戸時代の大村藩領絵図にも”沢状”の谷の描写
  右下側の絵図で、全体見にくいかもしれませんが、まず概要を説明します。中央上部に郡岳の文字があります。この文字の左右方向に尾根の連なる山容が太く描いてあります。中央部やや左側で上下に走るような形状で”沢状”の谷の描写もあります。また、その反対側で中央部からやや右側(東側)周辺が中央尾根の所で、ここには太郎岳大権現があった頃の本坊跡や修験道=現在の登山道もあります。

大村藩領絵図より中央上部に郡岳の文字、中央部やや左側上下に濃い"沢状”の谷、中央部からやや右側周辺が中央尾根(修験道跡=登山道もある)

 あと、中央部から少し左下側に片仮名の”ア”のような、あるいは梵字のようにも見える記号みたいなものがあります。これは、坊岩(ぼうのいわ)のある場所です。この坊岩から少し(約100m)右側(東側)に縦に走っている線(まるで深い谷のようにも見える)が、”沢状”の谷=現在の土砂崩れ現場です。ただし、実際の現場は、”深い谷”と言うほどではありません。

 郡岳全体は、優しい女性のなで肩みたいな山容です。ですから、画像右端側にやや幅広く黒い線で描かれている”大谷”(この下部の方に現在「水くみ場」でも有名な大谷水神がある)を除けば、郡岳の南西斜面側(大村湾側)は他に谷らしく描かれていません。

 そのような中で今回の画像では、中央部のやや左側を上下に走る”沢状”の描き方を見ると、やはり、この当時から、ここは他の山容に比べ既に崩れていたのではないでしょうか。

 私が10数回利用した南登山口コースは、ほとんどが中央尾根や、その周辺にありますが、そこでも”沢状”の谷が全くない訳ではありません。しかし、この画像を見ますと、そのような描き方がされていません。その意味からしても、現在の土砂崩れ現場は、江戸時代以前の大昔から徐々に崩れ落ち、くぼんだ形状になってきていたと思われます。

(2)戦後から現在までの航空写真などから
 残念ながら今回の項目、戦後から現在まで沢山撮られた航空写真を直接このページに掲載できません。航空写真は、他にもいくつかあるのですが多いのは、国土地理院の「国土変遷アーカイブス 空中写真閲覧」(検索サービス)だと思います。先のリンク先ページから長崎県、大村市を選択し、その後で郡岳周辺などを順次探していき、さらには撮影年別を指定してクリックすると、見たい所の航空写真が表示されます。(念のため、当初自分の思う通りにいかないかもしれませんが、慣れると目的の写真が短時間で見つかるようになります)

 ただし、上記紹介の写真は、あくまでも航空機からの撮影ですから郡岳などを上空から見たままものです。ですから、山の形は当然平面的で、今回のような土砂崩れ現場を下側方向から見上げた写真のようにキッチリとは、確認できません。また、太陽光線の関係上、影部分があったり、白い雲が邪魔しているように見える場合もあるでしょう。

 段々と見慣れてくると平野部の田畑や住宅地さらには道路の新設や拡張なども撮影年別の変化が分かってきます。このような要領で今回の郡岳土砂崩れ現場を見ていきますと、あくまでも平面的で分かりずらいですが、少しづつ変化しているように見えてきます。また、この周辺で炭焼き用または住宅用か木材が、伐採されて山の斜面が大きく白っぽくなっている場合や逆に植林されて年数が経ったのか、木が繁ってきたのは面積が広いため分かりやすいです。

 あと、検索サイトのヤフーグーグルグーなどの地図検索で「航空写真」表示サービスから目的地を見ることもできます。ただし、現在版の航空写真のみです。これからかも、検索サービス会社によっては、いくら現在版と言っても若干撮影年のズレがあるので、その差によって変化も分かってきます。

 以上、戦後から多数撮られた航空写真からも、郡岳の土砂崩れ、その後の草木の繁茂してきている状態が確認できると思われます。あと、私の個人的な感想ですが、山や自然の写真(風景全体)は、その撮った時の価値観は直ぐにはないように思えますが、長年経ると自然の変化を見る上でも、その他色々な要素から貴重な写真になっていくなあとつくづく思うことがあります。

郡岳の土砂崩れ(2000年2月27日撮影で土砂崩れ直後ではなく数十年経ってからのもの)

郡岳の土砂崩れ(中央部左側)
(撮影年月日:2006年11月12日)

(3)現在の写真から
 既に写真は、左右一番上側に掲載中ですが、再度その縮小サイズで左側に掲載しています。これまで何回か書きました通り、郡岳の土砂崩れ現場は、江戸時代以前以後も何十回となく繰り返し、さらには近代になっても発生したと思われます。

 その中でも、大きかったのは地元の方の話しによりますと、「昭和40(1965)年頃)の土砂崩れが一番大きかった。その後、三日月型の禿げた部分が、ずっと見えていた」、「雪が降ったら、そこが真っ白くに見えた」などとも聞きました。具体的な資料や写真が手元にないので、その大崩れの年月を特定できませんが、そのような年だったかなあと言う印象を私も持っています。

 あと、「1957(昭和32)年の大村大水害(一般には諫早大水害)時も一部崩れていたのでは」とも聞きますが、この時は大規模ではなく、起こっていたとりしても小規模だったと思われます。左側写真の上下を見比べて頂くと分かりますが、かつて崩れた所も草木の回復能力によって遠くから眺めれば既に元の状態に戻った感じです。

 ただ、先の項目にも書いていますが、私は、郷土史調査目的で2007年から郡岳登山を繰り返し、2012年現在で10数回おこないました。この時、毎回ではありませんが、この現場も何回となく見ました。その時に思ったのは、平地で遠望しているのと、現地は違うなあと言う印象です。

 特に、一般に思われている「8合目付近から土砂が来た」のではなく、「9合目もしくはそれ以上の高い所から大きい石が落ちているのだなあ」、「土砂もだが、大きな石の崩れも多いなあ」と感じました。また、毎回「少しづつながらも変化しているのだなあ」とも思いました。

先人の教訓から
 私は、このページを書いてきて昔からの先人の教えを思い出しました。それは、「家は川筋や沢筋の所に建てるな」との言葉です。この郡岳でも、それは同じことで古代に創建された太郎岳大権現本坊跡の場所(郡岳の8号目近く)は、中央尾根のしっかりした場所です。

 今でも横幅約50m、奥行約10mの平地がありますし、ここは現在でも崩れがあまりない場所です。あと、炭焼き小屋跡も7合目、8合目付近にも何ヶ所もありますが、これまた沢状の場所ではありません。あと、この先人からの教訓の補足です。何故このようなことを先人は、言い続けてこられたのでしょうか。

郡岳と野岳湖(2006年11月3日撮影)

 今では丘陵地帯あるいは平野部で一見したら「川筋も沢筋」も関係ないような所にも民家や会社の建物などがある場合もあります。かつて川の流路だった所とか、沢状の谷間を重機で造成したところもあります。

 そのような所は、例えば大村大水害時に床下床上浸水や土砂崩れなどの被害に遭われた場所も多くあったのではないでしょうか。通常の雨量程度では、何もない所でも大規模な集中豪雨などがあれば、大水は以前の地形=元の川の流路や沢状だった所に沿ってあふれ出たのかもしれません。

 だからこそ、先人達は自らの経験も含めて、山や自然の観察を良くされ、その教訓として先のような言葉をいい続けてこられたのではないでしょうか。そのような場所は、今でも用心に越したことはないと思われます。今回のテーマである郡岳の土砂崩れ現場さらには太郎岳大権現本坊跡、炭焼き小屋跡などを見て、改めて冒頭の言葉を思い出したしだいです。先人達は、色々な自然の変化も頭に入れながら、それらに対応するように考えながら生活してこられたのだと思います。

 以上のようなことも含めて、何も変わっていないようにも見える山ですが、やはり自然といえども長年の雨や雪などにより、少しづつ変化していることも具体的に書いてきました。今回の場合、登山や林業関係でないと身近に見えない場所です。それでも、丘陵地帯や平野部で生活している現代人にも、このような自然の変化は、いい意味でも逆の意味でも何かを教えているような気がします。

(初回掲載日:2012年8月28日、第2次掲載日:2012年8月30日、第3次掲載日:2012年8月31日、第4次掲載日:2012年9月9日、第5次掲載日:2012年9月10日、第6次掲載日:2012年9月11日)


2004年シャクナゲ写真集 2004年シャクナゲ写真集 2005年シャクナゲ写真集


最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク