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福重の名所旧跡や地形

弥勒寺の熊野権現(弥勒寺町)
弥勒寺の熊野権現 場所:長崎県大村市 弥勒寺町
 この弥勒寺の熊野権現の所在地は、大村市、弥勒寺町公民館の東側にあります。江戸時代に編纂された(大村)郷村記にも紹介されています。

 江戸時代の熊野権現の敷地内にあった陽林不動明王は、現在、直ぐ隣の弥勒寺町公民館敷地内にあります。なお、上八龍の線刻石仏三体仏は、熊野権現敷地内にあり、あります。(左写真は、改築前の熊野権現、右側が現在のもの)
 まずは、江戸時代に編纂された(大村)郷村記を引用して、熊野権現を紹介します。下記の 内が(大村)郷村記からの引用文です。(注:文章は続いている場合もありますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)また、 内の後に続く後半部分は、今回省略しています。なお、?は、私がパソコン変換できない文字です。

三体仏
(弥勒寺の熊野権現、敷地内)

 弥勒寺 一 熊野大権現 

神躰石座像彩色 例祭九月十二日 妙宣寺勧請 氏子中祭之
神殿 九尺ニ壱問 瓦宇 
拝殿 弐問梁三間萱宇 石鳥居壱基

地蔵 石立像 例祭不知 外ニ三躰石ニ切付有古仏本地不知 
不動 神躰野石 例祭九月十八日 近所中祭之
境内入弐拾六間横拾九間半

 当社は正保四丁亥年建立 元禄八乙亥年五月同十五丑午年宝暦二壬申年二月天保七丙申年再建 天和二年の書記に此社蓋弥勒寺の鎮守乎 神躰は無之 九月十六日祭之郡役郷役斗免許と云? 」


現代語訳
 上記を現代風に口語訳すると、次の 内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

  弥勒寺 熊野大権現
  御神体は彩色された石の座像である。例祭は9月12日で妙宣寺に来てもらって氏子(うじこ)で祭っている。 神殿は奥行き約2.7m、横幅約1.8mである。瓦屋根である。 拝殿は奥行き約3.6m、横幅約5.4mである。

 地蔵は石の立像で例祭は不明である。そのほか、石で彫刻された三体石(三体仏)があるが、元の本地仏は不明である。
 不動明王は自然石の御神体である。例祭は9月18日に近所で祭っている。
 (熊野大権現の)境内は奥行き約47.3m、横幅約35.3mである。

 当社(熊野大権現)は、正保4(1647)丁亥(ひのとい、ていがい)年に建立され、元禄8(1695)乙亥(きのとい、いつがい)年5月、同じ元禄15(1702)丑午(みずのえうま、じんご)年、宝暦二(1752)壬申(みずのえさる、じんしん)年2月、天保七(1836)丙申(ひのえさる、へいしん)年に再建された。天和2(1682)年の書き付け(記録)に、この社について書いてある。「弥勒寺(郷)の鎮守(守り神様)である。御神体はなし。9月16日に郡の役人や郷の役人で祭っている」と伝えられている。 

補足とまとめ
 『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)の68ページ「弥勒寺跡」には、(大村)郷村記を引用する形で、次の<>内(太文字)が書いてあります。<(前略) すぐ横の公民館の敷地内に、「陽林」と刻んだ大きな自然石が建っています。これは地蔵菩薩のことだといわれています。

 先の(大村)郷村記には、上記の引用部分と思える箇所で、次の<>内(太文字)が記述されています。<地蔵 石立像 例祭不知>(現代語訳=「地蔵は石の立像で例祭は不明である」) 

陽林(弥勒寺町公民館、敷地内)
(文字の白線部分はCG加工)

 このように『大村市の文化財(改訂版)』は、現在、陽林と呼ばれているものを「地蔵菩薩」と記述されています。当初、福重郷土史同好会も私も、その説は「そうかなあ」と思っていました。しかし、その後、疑問も湧いてきました。それは簡単に言えば「何故、自然石に文字が陽林と彫り込められただけで(大村)郷村記上で、”地蔵 石立像”と言うのだろうか?」が、その主な点です。

 同じ所にあった弥勒寺の不動明王は、「不動 神躰野石」と(大村)郷村記には書いてあります。この場合、不動明王が立像などの表現が書いてありません。ここで仮の話として、同じ自然石ならば (大村)郷村記の書き方として「地蔵 神躰野石、陽林の文字あり」と表現しても良かったはずです。

 また、(大村)郷村記で記述されている「地蔵 石立像」と言うのは、「」と表現される以上、私は自然石そのままではなく寿古町の竈権現(かまどごんげん)の地蔵に近い形ではないだろうかとも推測しました。つまり、「石工が加工して彫像した立像だったかもしれない」と言うことです。あと、この陽林の文字の下側1mくらいの所に何か宗教上のマークか文字があった跡らしきものもあります。このことも、これまでの従来説に対して疑問を増幅することになりました。

 結論を言えば、あくまでも私の考えですが、江戸時代に熊野大権現の敷地内にあって<地蔵 石立像 例祭不知>と表現されている立像は、陽林と違うのではないかと思っています。詳細は、陽林紹介ページも参照願います。

改築の記録が残っている弥勒寺の熊野権現と弥勒寺町公民館
 大村市内では、各町や集落ごとに、たいてい権現様があります。これは当然ながら、その地域の守り神様です。さらに、建物の利用経過からして、現在の公民館(地域コミュニティー会館)の役割も果たしていたと思われます。江戸時代から、どの地域にもあった権現様が、地域の会合(町内会)に使用されていました。そして、戦後しばらくしてから、その権現様近くなどに各地の公民館が建設され現在に至っています。

 実は、そのような権現様、公民館の建設や改築記録(記念碑)が、弥勒寺町の場合、良く残っています。先に紹介した(大村)郷村記にも、こうした記述が多く書いてあります。また、江戸時代以降についても弥勒寺町の場合、記念碑として3基あります。この石碑には、再建、改築などの経過や当時の建築状況や資金などが彫り込まれて良く残されているものです。

 以上、(大村)郷村記や『大村市の文化財(改訂版)』記述の関係上、補足も含めて書いてきました。弥勒寺という仏教寺院が戦国時代のキリシタンによる他宗教への弾圧攻撃(寺院の焼打ちなど)により、なくなってから、しばらく経った後、この熊野大権現が、この地では、宗教上の理由だけでなく、地域コミュティーの中心的役割も果たしてきたと思われます。

上八龍の線刻石仏(熊野権現の敷地内)

熊野権現の改築祝い(2012年11月18日)
 以前からあった熊野権現のお堂は、老朽化が進んでいたため、町内での積立金や町有林が売れたことを機会に2012年の秋口から改築工事が進められました。そして、同年11月に落成し、11月18日には町内全体で改築祝いが挙行されました。この時に、上野に町内会から郷土史講演依頼があり、弥勒寺の熊野権現(郷会場)増築記念碑や弥勒寺にある石仏などについて話しました。

熊野権現の境内に「上八龍の線刻石仏」を移転、安置(2014年3月26日)
 高速道路(長崎自動車道)近くの田んぼの土手にあった上八龍の線刻石仏を福重地域起こし団体と弥勒寺町内会の共同事業で移転することが、2013年内に決まっていました。その移設場所は、熊野権現の境内となりました。

 そして、工事前日(3月25日)には安全祈願のお祓い2014年3月26日にクレーン車やトラックにて、移転、安置作業が実施されました。<詳細は、「上八龍の線刻石仏」移転工事(概要報告)ページを参照>

 その後も数日間、土台の仕上げ工事が続きましたが、先に同年3月30日に、入魂式(魂入れ)が挙行されました。<詳細は、「上八龍の線刻石仏」移転後の魂入れ(概要報告)ページ参照> また、その直後に開催された弥勒寺町内会の花見会で、この移転工事や石仏が大きな話題となりました。

 また、同年4月4日には、史跡説明板の設置もおこなわれました。これら一連の工事のことについて、2014年4月9日付け長崎新聞に<福重地区の「石仏の里>として大きく報道されました。

弥勒寺の熊野権現関係ページ
 上八龍の線刻石仏
 陽林
 不動明王
 弥勒寺跡
 仏の里 福重


(初回掲載日:2012年4月16日、第二次掲載日:2012年4月18日、第三次掲載日:2012年4月20日、第四次掲載日:2014年4月15日)



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