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写真が語る福重の歴史や人
福重飛行場

福重飛行場

福重飛行場の場所:現在の長崎県大村市今富町(当時:今富郷)、皆同町(当時:皆同郷)
完成年月日:1945(昭和20)年5月27日 <地元の伝承で「昭和20年の海軍記念日(5月27日)に空港が開港し、一番機(ゼロ戦)が飛んだ」と何名も同じことを言われている>

滑走路の舗装:コンクリート舗装
  当時の飛行場は草地が多くコンクリートは少なかった。この舗装にした理由は平野部が狭かったため、航空機の離発着が短くても出来るようにコンクリー舗装の滑走路にしたのではないかと推測される。現在も当時のセメントの残りが固まった状態である。また、セメントを混ぜた作業場が矢次第二号橋(やつぎ だい2ごう きょう)から下流150m強(右岸側)にあったことが分かっている。

滑走路の長さと幅:
(下段で紹介の書籍記述内容の長さが、右写真と違うため再計測した)
 ・舗装面全体の長さで約885m、離発着時の実質使用可能と推測される滑走路面は約860m。
 ・滑走路の所在地の町名別長さでは、当時の今富郷部分が約695m、皆同郷部分が約190mだった。
 ・滑走路幅は下記内容と同じく約30mと思われる。

1945年頃の福重飛行場(滑走路の左側道路は、現在もほぼ同じ位置にあり)
右側の川が郡川、上部の橋が矢次橋、滑走路の下側左が福重小学校の跡地

 なぜ下記書籍記述の滑走路の長さ(950m)と上記(約885m)と違うかについて、今富町の古老の話では、「郡川(こおりがわ)の支流である佐奈河内川(さながわちがわ)の中まで施設の一部があった」と証言されているので、その長さも含めれば下記の「950m」と一致するものである。

 この「川の中の施設」とは、福重飛行場から竹松方面に行く誘導路や滑走路進入コースを示す何らかの目印みたいな設備と思われる。(現在なら滑走路両端の先にある着陸誘導灯みたいなものかもしれない)

現存している戦争遺跡:
 (1)福重飛行場跡は今も郡川(こおりがわ)寄りの幅が約2.5m、長さが約860mの一直線の農道としてある。(ただし。コンクリート舗装は戦後に農道や水道工事のため数回施工され分厚くなっている) 明確に分かる戦争遺跡(軍事施設)としては、長崎県内で最大級の大きさと思われる。

 (2)佐奈内河川(さながわちがわ)に掛かる矢次第二号橋(やつぎ だい2ごう きょう)上流の右岸側に飛行機の誘導路橋の柱跡(コンクリートと穴)が現存している。(コンクリート全体の大きさは目測で長さが約35m、奥行が約90cm) <駐:ここの件の詳細はページ下段の「佐奈河内川に残る誘導路跡」を参照>
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 今回紹介します福重飛行場は、戦前戦後の一時期存在した滑走路を中心とした飛行場です。(ただし、近くに防空壕などがあり、補給物資の貯蔵施設はあったと思われます)

 この福重飛行場の呼び名ついて、地元の方でも、あるいは数少ない資料でも、様々な呼び方がありました。なお存在していた場所は、当時の大村市今富郷と皆同郷(現在の長崎県大村市今富町と皆同町)にまたがり、その大部分が今富側にありました。

 例えば、「福重滑走路」、「大村第二航空隊」を始め、中には「隠し滑走路」とか「秘密飛行場」と呼称される方もいました。今回は、全て『福重飛行場』で呼称は統一致しました。この右上側写真は、何かの本に掲載されていたものです。(2007年7月)現在、どの本か確認できませんでした。(もしも、何か情報をお持ちの方はEメールで教えて頂けないでしょうか。お願いします) 実は、写真の右上部には、この福重飛行場について説明文がありました。下記に、その全文を掲載します。<>がその引用文です。

 福重飛行場(長崎県大村市福重) -大村市郊外の郡川(こおりがわ)の近くにつくられた飛行場。

 大村空のおかれていた大村飛行場よりあとにつくられ、草薙部隊の名で知られた第352空の零戦、雷電、月光がここを基地として長崎、佐世保、大村地区の防空にあたったほか、第254、256、652空なども使用したことがあり、第342空の月光隊が進出してきたこともある。滑走路は長さ950m×30m。戦後はいちはやく農地に転用され、昔のなごりをとどめるものはすでにない。 

 以上の通りですが、なにせ、60年以上前の戦前ことですから、今となっては文章中、意味が分からない箇所もいくつかあります。戦前の大村には、敷地面積で東洋一の規模と言われていた第21海軍航空廠も存在していました。大村海軍航空隊(飛行場)や第21海軍航空廠(工場)をめがけて、アメリカ軍の空襲は1944(昭和19)年秋頃から激しくなりました。

 特に、10月25日の大村空襲時、航空隊及び海軍航空廠は壊滅的打撃をこうむりました。そのため、航空機の製造工場をはじめ物資貯蔵施設その他、いっせいに疎開、引越しを余儀なくされました。その引越し先は、大村市だけでなく、周辺の市町村にも及びました。損害をこうむった航空隊や海軍航空廠近くにある福重地区は、多良山系からの尾根もいくつかあるため、防空壕などが築きやすい地域でもありました。

福重飛行場を滑走中の小型機
 この福重飛行場は、そのような状況下、建設月は資料なきため明らかではありませんが、大村大空襲があった1944(昭和19)年10月25日以降(たぶんに11月頃)より、開始されたと思われます。この飛行場建設のため、福重小学校もこの地から、現在地(当時の矢上郷、今の福重町)に引越しを余儀なくされました。いくつかの大村市や学校関係の資料には、「福重小学校の校舎に爆弾が落ち破壊されたため、矢上郷へ引越した」との記述もあります。

 なぜなら、当時の小学校に在籍した方が、まだまだ何十名も、ご健在で異口同音に「福重小学校は、飛行場建設のため立退きになった」と証言しておられます。ですから、(現在の)大村市や長崎県の資料は、記述間違いです。なお、福重小学校は、矢上郷に立ち退いたのですが校舎はなく、各地に分かれて授業していました。

 校舎が再建されたのは1945(昭和20)11月です。(当時の写真は、ここからご覧下さい)この写真をご覧頂くと、「福重小学校の校舎に爆弾が落ち破壊された」と言う現在の大村市の記述が間違いであることが、良く分かります。この飛行場建設時には、地元の大人だけではなく、福重小学校の生徒も勉強そっちのけで、近くを流れている郡川から丸い石をずっと運ばされたとのことです。(なお、完成後は小学生の石運びは必要ないので、今度は矢上郷で福重小学校の敷地作りを行いました。そのため、この期間当時の小学生は、勉強らしい勉強をしたことなかったとのことでした)

現在の福重飛行場跡地付近(一直線の道路)
(道路奥左は、九州火力発電所跡の煙突)
 また、ここに住んでおられた方及び地域の墓なども、引越しをさせられました。あと、この福重小学校校舎は、建設のための軍関係者の宿舎になっていました。この福重飛行場は、あくる1945(昭和20)年5月頃に完成しました。この開港について、地元の伝承で「昭和20年の海軍記念日(5月27日)に空港が開港し、一番機(ゼロ戦)が飛んだ」と何名も同じことを言われています。その後、飛行機の飛来はあったようですが、前の大村海軍航空隊のような活発な発着状況ではなかったようです。

 なお、戦時中、最上記右側写真右側下の滑走路横に木造の飛行機を置き、そこにめがけてくるアメリカ軍機を反対側(福重出張所裏山)に設置された機銃で弾を浴びせ、打ち落とす作戦もあったようです。しかし、アメリカ軍のグラマン機はスピードが速く、木造の飛行機を破壊し、機銃に打たれることなく、さっと飛び去ったと証言している方もいました。

 また、これは戦後の話ですが、この飛行場にアメリカ軍機が着陸時、エンジン不調か、あるいは滑走路距離が短いためか、滑走路先の農地に頓挫(オーバーランみたいなものか)を起こしたこともありました。地元の方が墜落した状況を見ていたところ、直ぐに駆けつけたMP(米軍憲兵隊)に追われたそうです。

<戦争遺跡や遺物について>

 既に、このページ冒頭部分でも戦争遺跡として紹介していますが、福重飛行場があった当時の遺跡や遺物としては、2017年4月現在でも下記の3箇所は確認できます。
 1,幅が約2.5m、長さが約860mの一直線の農道
 2,佐奈河内川に残る誘導路橋の柱跡(コンクリートと穴)---注:下段項目「佐奈河内川に残る誘導路跡」の写真と紹介文参照
 3, (矢次第二号橋から下流に約230m下った所にある農業用ビニールハウスの南西側周辺に)当時のセメントの残り(袋ごと固まったもの)や、滑走路などのコンクリート片などがある。

 先に紹介しました一直線の農道の地図などについては、前ページの『終戦前後の福重地区、戦跡概略図』のを参照願います。このような地図や、このページ掲載の一直線の農道写真を見ますと、元の滑走路と同じくらいの長さがあることが分かります。そして、一直線の農道の両端から、道路先端方向を見ますと、「ここに福重飛行場が、かつてあったのだなあ」と実感いたします。

 以上述べてきたように、この福重飛行場やその周辺でも第二次大戦による空襲などによる戦争被害は大きかったと言えます。ご参考までに『終戦前後の福重地区、戦跡概略図』も併せてご覧下さい。

佐奈河内川に残る誘導路跡(基礎のコンクリートと柱穴の跡)
 この福重飛行場の誘導路跡(基礎のコンクリートと柱穴の跡)は、(右下側写真参照)郡川の支流で佐奈河内川(さながわちがわ)下流=郡川との合流地点から約180m上流部に現在もあります。また、この佐奈河内川に架かる矢次第二号橋(やつぎ だい2ごう きょう)の直ぐ上流部でもあります。今回、地元の方に聞いた話を書いています。右側の「佐奈河内川に残る福重飛行場の誘導路跡」の写真をご覧下さらないでしょうか。この写真は、上流部の南側堤防上の道路から福重飛行場跡方面(下流側)を向きながら撮った写真です。

佐奈河内川に残る福重飛行場の誘導路跡<(基礎のコンクリートと柱穴の跡)>(写真中央から斜め川下へ見えるコンクリートと真柱跡。目測ながら長さは約35m、奥行約90cmあり、写真は上流部分側である)

佐奈河内川の上に架かっていた長方形のコンクリート跡(写真中央部、川に沿って長方形で白く見えるコンクリートに注目。写真はCG加工)

 写真中央部から斜め下流方向に細長いコンクリートが見えます。このコンクリートは、川の中にあるため(写真左奥側方向に)川ヨシや草が生えていて途中までしか写っていません。しかし、写っていない部分も含めれば目測ながら全体の長さは約35m、奥行約90cmあります。

 このコンクリート上には写真でもお分かりの通り1m強の間隔位で丸い穴が空いています。この穴は、丸太の心柱(しんばしら)のあった跡です。柱上部と堤防との間に厚さ30cm位の頑丈なコンクリート板があったそうです。なぜ、このようなものがあったかと言いますと、下記2項目が挙げられます。

(1)飛行機の誘導路として使用された
 (右下側写真「佐奈河内川の上に架かっていた長方形のコンクリート跡」参照)福重飛行場の東側先端部(写真では下側)から竹松方面に向かう所に矢次橋(やつぎばし)があって、さらに大村海軍航空隊あるいは草薙部隊との間に誘導路がありました。

 福重飛行場の滑走路(距離)を確保するため川の直近まで造ったので、飛行機の移動上、必要な誘導路を確保するために佐奈河内川に丸太の柱を立て、その上に厚さ30cm位の頑丈なコンクリート板を設置したものと思われます。

 さらに、この写真を説明します。写真中央部、佐奈河内川に福重飛行場東側(写真では下側)から続いて白い長方形コンクリートが見えます。この大きさは、推測で長さ約30m、奥行約10mでしょうか。

 この長方形部分が、飛行機の誘導路=駐機や移動する時の走行路あるいは方向転換などに使われた跡と思われます。この周辺は矢次橋側が数メートル高いので福重飛行場からは、かなりの坂道にもなるので、この長方形部分を設けて急な坂を避け、飛行機が方向転換しながら登ったり降りたりできる造りにした可能性もあります。

(2)滑走路延長のため
 あと、この長方形コンクリート板のもう一つの役割が、当時計画だけあって実現しませんでしたが、滑走路延長と関係があります。先の写真で、この長方形コンクリートの東側(写真では下側)方向約750m先(上流側)に郡川に架かる鬼橋(おにばし)があります。その橋の近くまで滑走路延長できるように田畑の整地だけは、当時してあったそうです。

 もしも整地だけでなく滑走路のコンクリート舗装が完了していたならば福重飛行場は、全体の長さ1300m〜1500m前後になっていたと思われます。これだけの滑走距離があれば戦闘機だけでなく当時、重装備の爆撃機でも離発着は可能だったと思われます。(ご参考までに、旧・大村空港=現・長崎空港A滑走路は1200mで64人乗りのYS11プロペラ機も離発着可能です。また、1500mの滑走路ならば民間の小型ジェット機も可能でしょう)

 この飛行場延長のためには、佐奈河内川に滑走路と同じ幅のコンクリート製の板を敷き詰める必要性がありました。今回説明している長方形のコンクリート板は、その一部にも使われていたかもしれません。福重飛行場自体の完成が、1945(昭和20)年5月だったので、終戦間際になり滑走路延長は田畑の整地のみで、途中終わらざるを得なかったのでしょう。

 蛇足的ですが戦後になっても、佐奈河内川に架かる橋が完成するまで、この長方形のコンクリート板は橋がわりに使用されたそうです。念のため当然、現在は残っていません。私が50年位前の子どもの頃、今回紹介していますコンクリート上の柱跡の穴には、まだ一部丸太が残っていたのを覚えています。しかし、その頃は、当然何なのか意味も分かりませんでしたが、今回地元の方に教えて頂き、やっと「あー、あれは福重飛行場の一部だったのか」と理解できました。

 その後、川を流れ下る土砂や水の力によって残っていた丸太部分は全てなくなり、現在はコンクリートと穴だけでしか残っていません。ただ、私は、別の面で感心しました。それは当時、資材も器材も少ない、しかも急ごしらえの建設とはいえ、川の中に頑丈なまま70年後も持つコンクリートの完成度の高さに目を見張りました。現在たまに問題になっているコンクリートの”手抜き工事”工法と、根本的に違った造りだったのでしょう。

(掲載日:2005年7月21日、第二次掲載日:2010年7月20日、第三次掲載日:2012年8月17日、第四次掲載日:2012年8月18日、第五次掲載日:2017年4月5日)

参考資料一覧


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