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大村の歴史
東光寺跡(とうこうじあと)
東光寺は戦国時代まで大村最大の仏教寺院だった
主 な 内 容
掲載状況
 東光寺跡の概要紹介
掲載中
 東光寺が書いてある(大村)郷村記
掲載中
  ・現代語訳
掲載中
 東光寺跡に残る年号入りの石塔類
準備中
  (1)正和五年の宝塔(ほうとう)
準備中
  (2)應永二十七年の石塔
掲載中
  (3)寶徳四年の石塔
掲載中
  (4)文明十年の石塔
掲載中
  (5)天文十年の石塔
準備中
 東光寺跡に残る年号不明の石塔類
準備中
  (イ)三伯
準備中
  (ロ)二体仏
準備中

東光寺跡の概要紹介
 東光寺遺跡は、大村市の指定史跡です。右下側写真の右端には、市指定史跡を示す門柱、左端には同様に案内板も設置されています。ここの所在地名の変遷についての詳細は書きませんが、元々は旧・福重村草場郷、字(あざ)東光寺で、現在は、大村市松原一丁目です。この場所付近は、見晴らしの良い所です。

 なお、指定史跡名称は東光寺遺跡ですが、このページでは『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)に習って東光寺跡で統一して呼称していきます。概要紹介については、『大村市の文化財(改訂版)』73ページの東光寺跡に次の<>内(最後半の一部は省略)の通り書いてあります。

 <東光寺跡 旧福重村草場(現松原三丁目)にあった禅宗の寺院です。もともとは真言宗の寺院で、郡七山十坊の一つです。寺領130石余りを有したと伝えられ、郡七山の中でも最も大きな寺院でした。境内には、「為東光院阿閣梨(あじゃり)性元(しょうげん)也 正和(しょうわ)五年十二月八日建立之 前十一月初四日丑克逝去 在世七十六年而己」という銘文をもつ石塔の竿石(さおいし)が残ってい ます。 これは正和5年(1316)11月4日に亡くなった東光寺住職性元の 墓石の一部です。ここに刻まれている正和5年の年号は、大村地方に残る金石史料の中では、最も古い年に当たります。

東光寺遺跡<大村市指定史跡>
(現・大村市松原三丁目、旧・福重村草場郷)

 「紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんめいじえんぎ)」によると、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に郡地方にあった唐泉寺の住職春輝が提唱して、各寺の僧侶により宗論が行われました。その時、14か寺から僧侶が集まりましたが、その中に東光寺も含まれています。天正(てんしょう) 2年(1574)にキリシタンによって壊されました。江戸時代に入り、正保(しようほう)、4年(1647)には、この地に薬師堂が建立され、現在に至っています。(後略) 

 上記の通り、天正2年(1574)には、大村領内全域でキリシタンによる神社仏閣の焼打ち・破壊・略奪さらには僧侶の峯阿乗の殺害まで発生しました。この弾圧事件の時に、東光寺にあったであろう貴重な古記録も全て焼かれたため、この寺院の創建が不明です。

 ただ、先に紹介した古記録・「紫雲山延命寺縁起」が正しければ、いくら新しい年代の創建と想定しても1155年(=平安時代後期)よりは、かなり以前でしょう。しかし、松原や福重にあった仏教寺院は、太郎岳大権現、紫雲山延命寺(「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など 」参照
)大村の経筒福重の石仏(単体仏、線刻石仏など古いのは平安末期の製作と言われている)などの具体的な存在を考えれば14か寺のいくつかの寺院は相当古い創建と思われますので、この東光寺も似たような経過があったものと推測されます。

・戦国時代まで
(寺領の石高では)、郡七山十坊で最大の仏教寺院だった
 そして、この東光寺は戦国時代、1574年のキリシタンによる他宗教への弾圧事件(神社仏閣の焼打ちや僧侶阿乗の殺害など)が発生するまで郡七山十坊で最大の仏教寺院 (寺領の石高=130石)だったと言われています。寺領の田んぼの境界までは分かっていないようですが、この寺院跡周辺広がる草場町の広い田んぼを見渡しますと、この石高が実感できるものです。

 あと、注意点として先の『大村市の文化財(改訂版)』で紹介されている正和五年の年号入りの石塔(通称で「東光寺跡の宝塔」とも言われている)の説明文章について、一部分ですが宝塔に彫られている実際の碑文と違っている箇所もあるようです。(この件は後の項目で詳細を掲載予定)

東光寺が書いてある(大村)郷村記
 東光寺について記述されている大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)の当該部分を引用し紹介します。下記の太文字が、その文章です。(注:文章は縦書きの続き文ですが、横書きに直して分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)

七山の内東光寺 一 薬師如来  神躰金座像 例祭九月八日 宮守亀太郎 宝円寺勧請 氏子中祭之
  石祠
  拝殿 弐間ニ三間 茅宇
  境内弐畝半程内入八間横六間 社地外は山なり 外ニ屋鋪畠壱段社領あり
  当社は往昔東光寺と云寺跡なり 天正二甲戌年耶蘇の徒破却尓後在家と成り 正保四丁亥年薬師如来を勧請す 寛政八丙辰年十二月再建

  棟札
  奉造立東光寺薬師如来堂 二間四面一宇 所願成就 二世安楽所
  信心大檀那大村丹後守藤原純信公 御武運長久 子孫繁昌 領内安全所 干時正保四年五月廿二日 権大僧都法印清尊 長久寺三世


・現代語訳
 上記、(大村)郷村記、東光寺の項の現代語訳は、次の<>内と思われます。( )内は送り仮名や上野の補足です。あと、全文続けますと読みにくくなりますので、文章の区切りと思えるところなどに句読点や改行もしています。また、あくまでも素人訳ですので、参考程度にご覧願います。なお、東光寺は、下記の通り、戦国時代(大村純忠の頃)の1574(天正2)年にキリシタンから焼打ち、破壊、略奪にあうまでは、郡七山十坊の一つでした。

  ()七山(十坊)の内、東光寺 薬師如来の御神体は金製の座像である。例祭は(毎年)9月8日、宮守は亀太郎で宝円寺に来てもらって氏子で祭っている。石祠(せきし)がある。拝殿は奥行きが3.6m、横幅が5.4mである。茅(かや)ぶきの屋根である。

 境内は約247平方メートルで奥行き約15m、横幅約11mである。寺社地以外は山である。この(敷地)外に1反(たん)=991平方メートルの
寺社領がある。当社は大昔、東光寺と言う寺院跡である。天正二甲戌(きのえいぬ、こうじゅつ)年(1574)のキリシタンによって破壊された後で在家となった。正保(しようほう)、4年(1647)には、(この地に)薬師堂が建立された。(また、この薬師堂は)寛政8(1796)八丙辰(ひのえたつ、へいしん)年12月に再建された。

(薬師堂の)棟札(むなふだ)注1
 東光寺の薬師如来堂を奉って建てた。一棟の(大きさは)(一辺の長さ)3.6m四方である。神仏にかけて願いがかないますように、仏の慈悲によって二世にわたって安楽を得るように(願いを込めた)。

 (薬師堂の創建時の)大きな寄付者は信仰心篤い(あつい)大村丹後守藤原純信公である。(純信公の)武運長久・子孫繁昌・領内安全を(祈る)ところとして、長久寺の第3代・権少僧都(ごんの しょうそうづ、僧の役職名)法印清尊が、正保(しようほう)4(1647)年5月22日に建てた。 

注1:「棟上げのとき、工事の由緒・年月日・建築者・工匠などを記して、棟木に打ちつける札。むねふだ 」(国語辞典の大辞泉より)



東光寺跡に残る年号入りの石塔類

  (原稿準備中、しばらくお待ち下さい)


(1)正和五年の宝塔(ほうとう)




  (原稿準備中、しばらくお待ち下さい)





(2)應永二十七年の石塔(注:應永応永
 東光寺跡には、年号入りの有無を問わなければ石塔・石碑類は沢山あります。この項目で紹介します「應永二十七年の石塔」は、(東光寺跡の敷地中央部にある)石祠に向かって右奥側(北側)にあります。(右側写真参照) なお、この石塔は、見た感じで推測すれば宝篋印塔(ほうきゅいんとう、下記の国語辞典参照)の残欠(ざんけつ、一部分という意味)と思われます。しかし、全体像が分からないため、断定的書くのは不正確なので表題名称は”石塔”としました。


上記点線内は右側の水色文字を活字化したもの。
(右側)碑文の活字化
應永二十七年の石塔(水色文字はCG)

  碑文のある基礎部の大きさは、高さ27cm、横幅30cm、周囲122cmです。この部分には、右側の写真(水色文字はCG加工)通り、碑文があります。(念のため右側CG加工写真はホームページ用に極端に縮小している関係上、文字が見えにくいですが、精密な原版は綺麗にみえています)

  その碑文を活字化したのが、左図(点線内)の青文字です。さらにホームページの関係もあり、横書きに直し文章を続けて書きますと、下記の青文字通りです。

 前住當山
 仲章和尚
  享年六十九
 永應廿七庚子年
 一月十五日


<注:宝篋印塔とは、「宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた」(国語辞典の大辞泉より)>

現代語訳
 上記の碑文(青文字)を現代語訳しますと、次の「」内の通りと思われます。ただし、素人訳ですので参考程度に、ご覧願えないでしょうか。

 「当山(東光寺)前住位の仲章和尚(上人)は、享年69歳だった。應永(応永)27年(1420年)庚子(かのえね、こうし)1月15日に宝篋印塔を建立した

注:「当山」を東光寺としているが、他の寺院から持ち込まれている可能性も否定は出来ない。そのような例は、他の寺院にもある。
注:「前住」=「前住位」との解釈をしているが、様々な僧位の一つと推測した。
注:「仲章」の読みは、「なかあきら」とも読めるが、「ちゅうしょう、ちゅうじょう」か、正確には不明だ。
注:應永(応永)27年は、西暦1420年である。


補足や感想
 別の項目に東光寺や石塔・石碑の全般内容は書く予定ですので、この項目では「應永二十七年の石塔」に絞った形で少しだけ補足や感想を書きます。

 この石の材質そのものは、悪い方ではありません。碑文の文字も彫り方も、一行一行まとまっていて見やすいものです。ただし、同じ東光寺跡にある石塔・石碑に比べても、「文字は素晴らしく達筆」と言うレベルではないだろうとも思われます。

(3)寶徳四年の石塔 (注:寶徳宝徳、ほうとく)
 この項目で紹介します「寶徳四年の石塔」は、(東光寺跡の敷地中央部にある)石祠に向かって右奥側(北側)にあります。(右側写真参照) 上記項目で紹介しています「應永二十七年の石塔」の隣です。


上記は右側の水色文字の活字化。「二二」は四の省略文字と解釈される。
(右側)碑文の活字化
寶徳四年の石塔(水色文字はCG)

 碑文のある基礎部の大きさは、高さ19cm、横幅34cm、周囲128cm です。この部分には、右側の写真(水色文字はCG加工)通り、碑文があります。(念のため右側CG加工写真はホームページ用に極端に縮小している関係上、文字が見えにくいですが、精密な原版は綺麗にみえています)

  注意:右側のCG写真でもお分かりの通り、碑文左側の年号部分で見た目「寶徳第二二壬申」の「二二」は、その通りに見えます。しかし、私は、「四」の省略文字と解釈しました。なぜなら宝徳の年代は4年間しかないためです。また、「壬申(みずのえさる、じんしん)」の年は、宝徳の年代では1年しかなく、それは寶徳(宝徳)4年=西暦1452年のことです。 また、この解釈を見て下さった方から、「四が死につながるため、四を”二二”にしたのでは」とのアドバイスも頂きました。

 あと、「開基」の「」文字中央部が、摩耗のため拓本も精密写真でも見えないので上下文字から推測して「」文字と判断しCG加工と活字化をしました。

 その碑文を活字化したのが、左図(点線内)の青文字です。さらにホームページの関係もあり、横書きに直し文章を続けて書きますと、下記の青文字通りです。なお、碑文上の年号「二二」は、上記にも書いてます通り、「」の省略文字と思われます。そのようなことから、次の現代語訳では、寶徳(宝徳)4年=西暦1452年で書いています。

 謹奉 造立
 當庵開基大極易公禅
 寶徳第二二
(注:)壬申三月十八日

現代語訳
 上記の碑文(青文字)を現代語訳しますと、次の「」内の通りと思われます。ただし、素人訳ですので参考程度に、ご覧願えないでしょうか。

  当庵の開基(寺を開山)した大極易の公禅のために、(これを)謹んで奉って造立(建立)する。 (造立年=建立年は) 寶徳(宝徳)4年(1452) 壬申(みずのえさる、じんしん)である。

補足や感想
 先に補足を箇条書き風に、次の(1)〜(5)を書いていきます。
(1)「謹奉 造立」の中央部に一文字分の空白がある。おそらく失敗文字か、石の損傷のため刻銘できなかったためだろうと想像した。
(2) 「当庵」は、東光寺ではないと思う。それは碑文内容と東光寺開山時期と合わないためだ。東光寺周辺の、どこかの寺院のことかもしれない。

(3)「寶徳第」の「第」文字は、今まで石塔・石碑類の年号に彫ってあるのは見ていないが、特別な意味はないと考えた。
(4)私の解釈間違いかもしれないが、「公禅」は僧侶の名前、「大極易」は推測ながら僧侶を褒め称える言葉・尊称みたいな表現と考えた。それとも、「大極易」は、全く別の意味があるのか?
(5) 「公禅」の読み方は、おそらく「こうぜん」であろう。

 これからは、碑文を見ての感想です。念のため、推測なども含めて書いていますので、ご注意願います。上記碑文にある「公禅」が、もしも僧侶名ならば名前に「禅」が付いているので、「当庵」というのは、禅宗の寺院だったのではないでしょうか。この寶徳四年の石塔や碑文の注目点は、東光寺ではない別の寺院関係としても、その開山した僧侶について彫ってあることです。

 この石塔は、普通に考えれば死去後しばらくして、その人を敬うために建立されたものでしょうから、そこから「当庵」を「開基」(開山=創建)した時期を逆算すれば寶徳(宝徳)4年=西暦1452年から何十年か前(50〜100年前位)ではないでしょうか。

 この考えが正しければ、1452年より何十年か前に開山(創建)した禅宗の仏教寺院の名称と、どこにあったのかという新たな疑問が湧いてきます。そして、その寺院は、1574(天正2)年、キリシタンによる他宗教弾圧事件(僧侶・阿乗の殺害や神社仏閣の焼き討ち略奪など)の起こる前の仏教寺院としては、最も創建が新しい寺院だった可能性も推測されます。

 ただし、別の解釈もできます。それは、福重地区と地域限定しても古い寺院の名称だけならば、延べで15も数えられます。これは、場所も建物も同じでも例えば宗派が変わったなどによる理由で寺院名称だけが変わってきたことも含まれます。

 そのようなことを考慮すれば、この石塔にある「当庵」の開山(創建)も、ずっと以前から同じ場所にあった寺院が、宗派変更や何らかの理由により、新たに開山された可能性もあります。そのことをもって新たに「當庵開基」と表現しても何ら不思議ではなく、むしろ記念すべきことなどで、この碑文を彫った可能性は充分あると思いました。

 また、そのようなものが、東光寺跡に何故あるのかという点からも、「当庵」を考える必要があります。ただし、いずれにしても東光寺は、福重村草場郷にあったのですから、重い石塔を遠い場所から持ち運んで来たと考えるより、おそらくは草場郷(東光寺)周辺の寺院だったろうと想像されます。

 私は、全く別の調査で「当寺」との碑文も、これまで見てきました。「当庵」は、国語辞典の大辞泉によれば「大きな禅寺に付属している小さな僧房」と解説されています。今回の「当庵」も辞典通りの解釈もできない訳ではないですし、むしろ東光寺みたいな大きな寺院でない小規模の寺院だったか、もしくは「当寺」表現の謙遜的な意味合いで使われているようにも思えます。

(4)文明十年の石塔
 この項目で紹介します「文明十年の石塔」は、(東光寺跡の敷地中央部にある)石祠に向かって右奥側(北側)にあります。(右側写真参照) 上記項目で紹介しています「(3)寶徳四年の石塔」の隣です。


上記は右側の黄色文字の活字化。
(右側)碑文の活字化
寶徳四年の石塔(黄色文字はCG)
 碑文のある基礎部の大きさは、高さ17cm、横幅18cm、周囲113cmです。この部分には、右側の写真(黄色文字はCG加工)通り、碑文があります。(念のため右側CG加工写真はホームページ用に極端に縮小している関係上、文字が見えにくいですが、精密な原版は綺麗にみえています)

 その碑文を活字化したのが、左図(点線内)の青文字です。さらにホームページの関係もあり、横書きに直し文章を続けて書きますと、下記の青文字通りです。

奉右志趣者
造立右塔婆一基
為物故道善 禅門 霊
文明十年戊戌四月


現代語訳
 上記の碑文(青文字)を現代語訳しますと、次の「」内の通りと思われます。ただし、素人訳ですので参考程度に、ご覧願えないでしょうか。<注:文明10年=西暦1478年。私の解釈間違いかもしれないが、「道善」は僧侶の名前(俗名か?)と解釈した>

  禅宗の物故者 (亡くなられた)道善の霊のために、右の趣旨(宗旨)の者は奉って、右の塔婆(とうば)1基を造立(建立)した。(造立年=建立年は)文明10年(1478) 戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)である。

補足や感想
 先に、注釈や補足などを箇条書き風に、次の(1)〜(4)を書いていきます。
(1)この石は緑泥岩の良い材質である。大村市内には、このような石は出ないので、たぶん彼杵半島産出と思われる。
(2)東光寺跡にあるので、なんらかの関係はあろうが、碑文内容だけでは当寺の僧侶(住職)関係と断定は出来ないだろう。ただし、東光寺は禅宗だったので碑文内容(「禅門」など)とは、合致しているの可能性は高いとも思える。

(3)「禅門」について、国語辞典の大辞泉に「1 禅宗の法門。禅宗。2 俗人のままで剃髪(ていはつ)し仏門に入った男子。禅定門(ぜんじょうもん)。入道。→禅尼(ぜんに)」と解説されている。

(4)碑文について、目の詰まった良い石材のため見やすい。一行ごとの文字のまとまりは良いが、文字全体や彫りも若干整っていないとも思われる。

 これからは、碑文を見ての感想です。念のため、推測なども含めて書いていますので、ご注意願います。先に書いていますが、「道善」が東光寺の僧侶(住職)とも、また別の寺院の僧侶とも断定は、この石塔だけでは出来ないと思われます。ただし、先に紹介しています「(3)寶徳四年の石塔」よりは、東光寺の僧侶の可能性は高いとも思っています。

 あと、東光寺跡のある石塔・石碑類で、年号の分かっている一部を改めて列記しますと、下記の通りです。制作年代順で、

(1)正和五年の宝塔(1316年、鎌倉時代)
(2)應永二十七年の石塔(1420年、室町時代)
(3)寶徳四年の石塔(1452年、室町時代)
(4)文明十年の石塔(1478年、戦国時代)
(5)天文十年の石塔(1541年、戦国時代)
などです。

 私は、東光寺の創建自体は現在、大村市内の郷土史の先生方の従来説より、相当古いと思っています。(このことは書けば長くなりますので、既に掲載中の「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」ページなどを参照) ただし、大村市内で石塔・石碑類が中世時代に多いのは、仏教伝播や寺院の創建とは関係なしに、碑文を彫るための石工技術の遅れと、その需要関係があるからだと思っています。

 つまり、(紫雲山)延命寺太郎岳大権現などの奈良時代創建を始め、郡七山十坊の内、相当数が平安時代中期頃までには開山・創建されたと思っています。(「大村の経筒」ページなども参照)しかし、それらの年号を示す碑文の彫られた石塔・石碑類が古代にないのは、石に文字を彫る技術そのもの伝わり方の遅れと、やはり、それなりの財力が必要なので需要そのものが少なかったためとも推測しています。

 また、当初の頃は、大村以外で碑文が彫られて持ち運んで来た可能性も否定できないと思われます。ただし、紙や板碑などの古記録類は当然あったはずですが、1574(天正2)年、キリシタンによる他宗教弾圧事件(僧侶・阿乗の殺害や神社仏閣の焼き討ち略奪など)発生時に全て焼却されて、わずかしか残っていない状況です。

 それにしても、なぜ、石塔・石碑類が上記のような年代別に飛びとびあるのか、私自身は正確には分かっていません。ここから、さらに私の推測・想像を重ねれば、このような石塔や石碑を建立出来るのは、やはり「力や財力のあった人だから」との考えも浮かびます。

(5)天文十年の石塔
 この項目で紹介します「天文十年の石塔」は、(東光寺跡の敷地中央部にある)石祠へ階段で5段登り、その登った直ぐ右側にあります。碑文の彫られた基礎部分は、手前側にあるブロックのため、写真を撮る場合に広角レンズ使用でないと写しにくいと思います。あと、先に紹介中の上記(2)〜(4)の石塔の碑文面に比べ、造りが少し違います。そのことも含めて、これから紹介していきます。


上記は右側の水色文字の活字化。
(右側)碑文の活字化
天文十年の石塔(水色文字はCG)
 

碑文のある基礎部の大きさは、高さ15cm、横幅39cm、周囲155cmです。この部分には、右側の写真(水文字はCG加工)通り、碑文があります。(念のため右側CG加工写真はホームページ用に極端に縮小している関係上、文字が見えにくいですが、精密な原版は綺麗にみえています)
 
  その碑文を活字化したのが、左図(点線内)の青文字です。(注:は不明文字) さらにホームページの関係もあり、横書きに直し文章を続けて書きますと、下記の青文字通りです。

天文十年辛丑
良秀禅定門
?月晦日逝去


現代語訳
 上記の碑文(青文字)を現代語訳しますと、次の「」内の通りと思われます。ただし、素人訳ですので参考程度に、ご覧願えないでしょうか。:<注:天文10年=西暦1541年。禅定門」は戒名に付けるもので「良秀」は法名であろう>

 良秀禅定門 (この石塔の建立年は) 天文10年(西暦1541年)辛丑(かのとうし、しんちゅう)である。(良秀は)?月の月末に亡くなった。

補足や感想
  注釈や補足などを箇条書き風に、次の(1)〜(6)を書いていきます。
(1)「天文」の「」文字上部は破損して見えないので、下部の「文十年」文字から推測して、「」と推測した。。
(2)戒名の「禅定門」は昔、禅宗や浄土宗に多くみられ、熱心な信者に多い戒名のようだ。ここから普通に解釈すれば、「良秀」という人は僧侶ではない一般信者(檀家)であろう。

(3 )「?月」の「」文字は破損のため、このマークを付けた。また、欠損のため「」文字も下部の極一部しか見えていない。その次の「晦日逝去」から推測して「」と考えた。

(4)文字ではないが中央部に四角枠があり、さらにその中に円マークがある。その円の中に「良秀禅定門」の戒名が彫ってある。これは私の推測だが、もしかしたら先の円マークは、禅宗系墓碑に見られる円相(下記の国語辞典参照)とも思われる。ただし、通常の円相は、中に文字などは彫らず、単に真円のマークだけが多い。そのことから推測すれば、単なる装飾彫りの可能性も充分に考えられる。

(5)円相とは、「禅宗で、悟りの形象として描くまるい形。心性の完全円満を表す」(国語辞典の大辞泉より) なお、補足ながら円相は石走道祖神を始め福重には数石塔に、その例がある。
(6)この石塔は、東光寺跡にある石塔関係で年号判明のものでは、一番新しい建立であろう。

 ここからは、私の感想です。このページに既に掲載中の『(2)應永二十七年の石塔』、『(3)寶徳四年の石塔』、『(4)文明十年の石塔』、『(5)天文十年の石塔』を年代順に見ても、あるいは私の場合、精密デジタル写真へCG加工をしていますので、そのことも併せて考えても、少し変化も感じています。それは、似たような石塔・石碑類といえども、年代とともに進化していることが、良く分かることです。

 あくまでも東光寺跡に残る石塔・石碑類と限定してみた場合、年代の古いものは表面の平らな面に碑文のみを彫っています。その文字も、技術的には全く問題ないのですが、ただ文字を彫っただけと言う印象も感じています。

 それらに比べ、新しくなるにしたがって、この『(5)天文十年の石塔』のように碑文面に装飾みたいな模様を施してみたり、碑文自体も(上手、下手は別としても)まとまった、「見せたいみたいな文字」も、数石塔あるようです。

東光寺跡に残る年号不明の石塔類


  (原稿準備中、しばらくお待ち下さい)



(初回掲載日:2012年5月18日第2次掲載日:2012年5月19日第3次掲載日:2012年6月6日第4次掲載日:2014年7月25日第5次掲載日:2014年7月27日、第6次掲載日:2014年7月28日、第7次掲載日:2014年8月3日、第8次掲載日:2014年8月4日、第9次掲載日:2014年8月10日、第10次掲載日:2014年8月13日、第11次掲載日:2014年 月 日、第12次掲載日:2014年 月 日

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