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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など
松尾神社の鳥居
 概要紹介
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 鳥居の大きさ
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 鳥居と碑文の評価
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 ・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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松尾神社の鳥居

概要紹介
 
大村市草場町にある松尾)神社(まつのお じんじゃ)の南西側に鳥居が一基あります。下側(南西側)の市道から階段で登れば、中段付近にあります。この鳥居の建立は、江戸時代の文政8(1825)年で、建立者は松尾)神社の氏子(うじこ)です。これらのことは、全て鳥居の東側と西側の柱にある碑文に彫られていいます。

 この鳥居の大きさは、大村市内に沢山ある同種同形のサイズと、ほぼ同じです。(詳細は下記項目を参照) なお、ご参考までに、拝殿に登る階段に向かって、この鳥居の右側(東側)に草場の大日如来があり、同じく左側(西側)には、草場の馬頭観音があります。

 松尾)神社も様々な変遷があるのですが、江戸時代までは(大村)郷村記を参照すれば松尾権現と呼ばれていました。このことから通常ならば鳥居の額束(がくづか、注:銘板のこと)は、「松尾権現」あるいは「松尾大権現」みたいに彫られていたはずです。<このことを物語るように古くて壊れた額束(銘板)の一部が、鳥居横付近にあります>

 しかし、現在の額束(銘板)の碑文は、松尾神社となっています。これは、推測するしかないですが、他の鳥居部分を除いて、この額束(銘板)のみを明治時代か大正時代頃に変えたと思われます。このことは、通称、(松尾神社の)元権現と呼ばれている石祠の側面にも「松尾権現」と彫らずに松尾宮となっていることと、同様のこと考えられます。<詳細は、(松尾神社の)元権現の石祠ページを参照

鳥居の大きさ
 松尾)神社の鳥居は、大村市草場町にあり、その場所は、市道から拝殿へ登る場合、階段中間部にあります。そして、その大きさは、下表の通りです。ただし、高さは、地面から一番高い位置にある笠木(かさぎ)まで、横幅は笠木の左右(東西)の長さです。また、鳥居の柱の胴囲は、地面から1m強の高さで巻尺計測しました。

松尾神社の鳥居の大きさ
 鳥居全体  高さ:250cm  横幅:380cm  柱の胴囲:133cm

 上表のサイズは、大村市内で多く見られる鳥居の大きさと、ほとんど同じです。江戸時代建立の鳥居としては、大きさも造りも標準的なものと言えます。あと、額束(がくづか、注:銘板のこと)は、松尾神社となっていて、近代にこの部分だけが変えられたと思われます。見た感じで、この額束(銘板)だけが、他の部位に比べ新しいような色合いです。(鳥居の碑文についての詳細は、下記項目を参照)

鳥居の碑文と評価
 松尾神社の鳥居には、碑文が三か所あります。その部位は、額束(がくづか、注:銘板のこと)左・右(東・西)の柱です。なお、両方の柱とも碑文が彫ってある面は、参詣者が階段で登る場合、見やすいように内側にあります。

 注意:下記の碑文で、柱の右(東)側は目視でも拓本なら、より一層文字が鮮明に見えています。しかし、左(西)側の柱の碑文は、拓本でも最上部の1文字と下部の3文字、合計4文字程度しか視認できません。しかし、漢字の形・作り、さらには文章(碑文)の流れから推測して、活字化しました。三か所の碑文は、下記「 」内の太文字です。

松尾神社の鳥居の柱碑文(合成写真、左右画像は縮尺比率が違う)、 左側が東側の柱、右側が西側の柱

・額束(銘板)  :「 松尾神社 」
・右(東)側の柱:「 文政八年乙酉十二月如意日 」
・左(西)側の柱:「 奉再興鳥居壹基氏子中 」


現代語訳
 上記の語句の並び上、下記<>内の読み順は、額束(銘板)左(西)側の柱右(東)側の柱の碑文順としました。なお、( )内は上野の補足・注釈です。

 < 松尾神社 (松尾神社の)氏子(うじこ)で鳥居一基を再興し(再建し)、奉納する。(この鳥居の建立年は)文政8(1825)年乙酉(きのととり、いつゆう)12月如意日(縁起の良い日)である>

 上記の碑文(現代語訳含めて)から考えれば、碑文の3要素(名称、建立年、建立者)がキッチリ入っていて、分かりやすいものです。あと、目視できる碑文だけからの感想ですが、文字自体も達筆で分かりやすく彫られているといえるでしょう。

補足:松尾神社の鳥居について、江戸時代、大村藩によって編纂された(大村)郷村記には、鳥居一基の存在は書いてあります。しかし、上記のような碑文については、何も記述されていません。鳥居建立年の文政8(1825)年は、江戸時代の後期で、この種の石碑類にしては年代的に新しい時代のものです。

 しかし、左(西)側の柱碑文の中間部は、先の項目でも述べた通り、判別しにくくなっています。この原因について、私の推測ながら考えてみました。それは、まず石の材質からの影響が大きいと思われますが、南東側からの風雨を左(西)側の柱はまともに受けやすかったためでしょう。逆に、右(東)側の柱碑文は、風雨に対して陰になっているため損傷が少なかったので現在でも視認しやすいものです。

関係ページ:
松尾)神社(まつのお じんじゃ) 、(松尾神社の)元権現の石祠 、「2009年 旧・松尾神社の社(やしろ)」紹介  、 (大村)郷村記

(初回掲
載日:2014年10月1日、第2次掲載日:10月2日、第3次掲載日:10月4日)

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