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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀碑文
 概要紹介
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 石垣塀の大きさ
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 石垣塀の碑文
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 石垣塀碑文の関係写真と説明
  (説明)
 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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概要紹介
 今回の碑文のある場所は、大村市大里町に鎮座する鈴田大神宮の社殿から西側へ、約9m行った石垣塀にあります。
この神社は、明治3年以前は、古松権現でした。その古松権現の創建は不明ですが、大村純忠時代、天正2(1574)年にキリシタンによる他宗教攻撃事件の時に、他の神社仏閣とともに破壊、略奪や焼き討ちに遭いました。

(写真1) 鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀碑文
(白い和紙が碑文石。拓本作業中。中央は小型電柱)

 そして、寛永13(1636)年、大村藩主・大村純信によって再興され、名称は古松権現でした。そして、明治3(1870もしくは1871)年に中里町にあった伊勢山大神宮(伊勢山大神宮の参道石垣碑文ページを参照)と、この古松権現が合祀され、現在の鈴田大神宮になっています。今回の碑文は、江戸時代のものですから、当然、古松権現当時のものです。

 この鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀碑文は、天保(てんぽう)8年(1837)年 3月、当時の鈴田村の村役人や武士など12名によって建立されています。そして、この建立目的は、碑文に彫られていないのですが、その碑文石のある場所から推測して、古松権現の社殿(境内)まわりの石垣塀、参道脇の高さ4m程の石垣や階段石などの工事竣工を記念したものと推測されます。

 また、社殿(境内)まわりにある石垣塀は全体の長さ約26m、平均の高さ約60cm、平均の奥行58cmあります。そのような中、この碑文石の状況は、二個の長方形の石に文字が彫られていて、石の大きさ は高さ42cm、(二個の石の合計で) 横幅153cm、 奥行30cm(奥行は目測) です。あと、碑文は、草書体の文字ながら、なかなか達筆です。磨滅(損傷)している一部の文字を除き、碑文全体は肉眼でも分かりやすいものです。

 なお、念のため現在、(上記の社殿まわりの境内とは別に)市道脇で参道入口付近=一の鳥居の左右にある石垣塀は、後世の大正時代に先の上部にある石垣塀と同じような様式で作られたものです。その証拠に、この参道入口付近の石垣塀には、上記とは別の竣工記念碑があります。


石垣塀の大きさ
 鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀碑文のある場所は、社殿から約9m西側へ行った所にあります。上記右側写真でもお分かりの石垣塀下部の一部です。その石垣塀の中で2個の石に碑文は、彫られています。

鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀碑文石の大きさ
 碑文石(2個) 高さ:42cm 横幅:153cm(2個の石の合計)、奥行は目測で約30cm  注:碑文石のみの大きさ
 石垣塀全体 合計の長さ約26m 平均の高さ約60cm、 平均の奥行58cm  注:屋根も含めた塀全体
(写真2) 鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀の一部
(奥側の白い和紙が碑文石で拓本作業中。その右側が小型電柱。社殿は約9m右側方向にある)

 上表や右側1と2番目写真でもお分かりの通り、社殿まわり(ただし、主に西側部分のみの)境内周囲には、三角形状の屋根の付いた石垣塀が、合計の長さで約26mあります。(あと、ご参考までに参道入口付近にも似た石垣塀がありますが、これは大正時代の工事ですから、今回のページとは関係ありません)

 この石垣塀は、その一部が地面に隠れているため詳細分かりませんが、さらにその下部は石垣(一部分ながら高さ4mの所もあり)があります。碑文石があるのは、(右側1と2番目写真参照)先の石垣塀の下部で、長方形に加工した二個の石に彫られています。


 二つの石の繋ぎ目は、右側1番目写真(拓本で縦に白く見えているライン)でもお分かりの通り、小型電柱の左側にあります。また、二つの碑文石の右側の石は、右側の一部に割れ目ができています。江戸時代当時か、後世の工事かで割れたものと推測されます。ただし、文字の判読は、出来る状態です。

 繰り返しになりますが、この三角形状の屋根石も、碑文石などがある土台石部分も江戸時代ですから、全部、自然石から一つひとつ加工して造られたものです。そのようなことから、この合計の長さ約26mの石垣塀だけでも、当時相当な金額を要したものと推測されます。

(写真1) 鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀碑文
(白い和紙が碑文石。拓本作業中。中央は小型電柱)
(上記の拓本から)碑文を活字化したもの

石垣塀の碑文
 上記項目でも紹介しました通り、今回の碑文石は、石垣塀の三角形状の屋根の下部にあります。この場所は、大きくはありませんが屋根がある分、雨水や風雪が少しはしのげる位置です。

 ただし、それでも屋外にあるのには変わりないため風雨の影響、さらには建立当時か後世の工事の時かは別としても、碑文の一部に磨滅(損傷)もあります。

 しかし、なんとか拓本や精密なデジタル写真を繰り返すなかで、ほぼ全文の文字解読ができました。この碑文の解読について、福重郷土史同好会の他の会員と大村市文化振興課の山下氏から丁寧なアドバイスを頂きました。

 右側表の
上側が拓本写真です。下側が、その拓本の文字から活字化したものです。なお、この碑文の実物は、上側写真の通り縦書き文字ですが、このホームページでは横書きに直し、改行位置も空白(スペース)も変えています。その文章は、次の< >内の通りです。

 <奉 寄進  天保八酉歳三月吉祥日  富永弥五兵衛 富永一太夫 永野庄助 橋口友八 井上兵右衛門 横山儀助 熊八  村役人 柳原貨一 喜々津源右衛門  小左司 弥吉   世話人 森磯治  石工 岩永元 >

現代語訳
 上記の碑文を、私の注釈や補足=( )内に書いた事項も含めてまとめ直しますと、次の「 」内の通りです。ただし、 この種の(上野表現で)“竣工記念碑の3大要素”(建立年、建立者、建立目的)からすれば、「建立目的」が、碑文の文章だけでは分かりづらいです。

(写真3) 鈴田大神宮の社殿(碑文石は社殿西側=左側9mの石垣塀の下部にある)

  そのため、下記( )内容など私の推測も含めて書いていますので、あくまでも、参考程度にご覧願います。また、下段の(注)の解説は、上野が意味上に補足を書いたものです。

 「 奉って(石垣塀、参道の階段や石垣を)(注1)寄進する。(この碑文=記念碑は)天保(てんぽう)八年(西暦1837年) 酉歳(とりどし)3月吉祥日(縁起の良い日)に建立(竣工)した。

  (工事寄進者は次の通り)
(注2) 富永弥五兵衛、富永一太夫、永野庄助、橋口友八、井上兵右衛門、横山儀助、熊八、村役人の柳原貨一、喜々津源右衛門、小左司(武士ではない村役人補佐)(注3) の弥吉、(工事の)世話人は森磯治、石工は岩永元である。  」

(注1):竣工記念碑のある場所から推測して、工事内容は「石垣塀、参道の階段、石垣」などと思われる。

(注2):碑文に寄進者とは書いていないが、記念碑の氏名の多くは先の通りの意味である。

(注3):「小左司(こさじ)」とは、大村藩では武士ではない村役人補佐みたいな役職と推測される。例えば「鈴田村」ならば、村長の補佐役みたい役人か役割であろう。先の「弥吉」は苗字がないので武士ではない人が、その役職を果たしていたと思われる。


石垣塀碑文の関係写真と説明
 先の項目に、「この種の(上野表現で)“竣工記念碑の3大要素”(建立年、建立者、建立目的)からすれば、「建立目的」が、碑文の文章だけでは分かりづらい」と書いています。ただし、この碑文(記念碑)は、普通に考えれば何かの工事の竣工を記念して(祝って)建立されたものだと、直ぐに推測はつきます。

(写真5) 階段上部、左側に長方形の石
(写真6) 右側に石垣塀と石垣、左側が階段
(写真4) 高さ約4mの石垣

 しかし、上記に書いてます通り、何の工事をしたのかという具体的な事柄までは、分かりずらいものです。そこで、この項目では、まず右側3枚(写真4、5、6)をもとに、説明していきます。

(写真4)=高さ4mある石垣で、この上部に三角形状の屋根の付いた石垣塀がある。

(写真5)=参道の階段上側から見た位置である。写真右端側に石灯籠しか写っていないが、この奥側に石垣塀がある。その反対側(左側)に長方形に加工された石が2段で並んでいる。

(写真6)=階段上側から下側方向を見たものである。右側に三角形状の屋根の付いた石垣塀があるのが良く分かる。その下部が高い石垣(写真4)である。

 以上の写真説明文の通り、
石垣塀は高い石垣の上部にあります。また、参道の階段を挟んで反対側に屋根はありませんが、(写真5)の通り左側に長方形の石が並んでいるのが分かると思います。

 結果、社殿のある境内周辺(西側)にある石垣塀、その下側にある高い石垣、参道の階段石と、全体まとまっています。つまり、当時の方々は、この工事に着手する前から良く考えられて、先の内容が全体的に統一感のあるような施工をされたのではないかと推測できるでしょう。

 あと、仮に私の推測が正しかったとして、全体を良く見てみると、一部分を除き、崩れやゆるみなども少ないものです。この石垣塀石垣階段石など、つまり約180年前の石造り技術は、なかなかのものであることが分かります。

まとめ
 既に先の項目に、碑文石や当時の工事内容などについて多くのことを述べましたので、ここでは私の感想を中心に数点書きます。今回のような石垣や石垣塀などの工事を現在では、建物などと区別する意味で一般に「外構工事」と言われているようです。江戸時代、神社仏閣の建物、鳥居、奉献塔や石灯籠などの目立つ碑文(記念碑)は、大村市内でも沢山あります。

(写真7) 鈴田大神宮の鳥居(参道入口にある)
(この鳥居両側にも大正時代初期に竣工した石垣塀がある)

 しかし、今回のような外構工事とか土木的な工事竣工記念碑は、江戸時代の建立としては珍しいものです。上野調べの範囲内ですが、今のところ既に掲載紹介中の「(大村市中里町にある)伊勢山大神宮跡、参道入口の石垣碑文」についで、今回の碑文(記念碑)は、同種のもととしては2例目です。

 あと、この鈴田大神宮(旧・古松権現)の石垣塀碑文には、既に書きました通り江戸時代の寄進した村役人、武士や石工の名前が彫ってあります。しかし、実際の工事は大規模だったこともあり、多くの方々それこそ当時の鈴田村の総力挙げて施工されたと推測されます。このような事柄から感じることは、有名無名は問わず先人の郷土愛です。

 このような先人の熱意や努力は、現代においても「住んでいる地域の者同士で協力協同すれば様々な事柄が出来るのだ」ということを教えておられるようにも見えます。 また、この碑文石は、鈴田地区の神社を代表する鈴田大神宮の境内にあります。そのため、誰でも参詣できるので郷土史ファンや史跡巡りをされる方だけでなく、一般の観光客の方にとっても行きやすい所です。

 この碑文石によって鈴田地区にある史跡の再評価、ひいては地域起こしの一助になればとも思いながら各種調査や拓本作業したことも、併せてご報告して、私の感想をまとめとします。

関係ページ:関係ページ:
伊勢山大神宮の参道石垣碑文大村藩領絵図 、(大村)郷村

(初回掲
載日:2015年2月13日、第2次掲載日:2月16日、第3次掲載日:2月17日、第4次掲載日:2月19 日、第5次掲載日:2月21日、第6次掲載日:2月22日)

 
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