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その36、立福寺の薬師如来
写真
所在地:大村市 立福寺町(六社権現の境内)


  この立福寺の薬師如来(りふくじ の やくしにょらい)は、立福寺町、六社権現(ろくしゃごんげん)の境内にあります。
(注:数十年前の工事の時、作業者の方が薬師如来と地蔵の土台石を取り違われ、現在この薬師如来は地蔵の土台石の上に乗っている)

 この薬師如来の土台石の碑文には、建立年月日として江戸時代、正徳6(1716)年5月8日、建立者は一瀬彦佐衛門の妹の妙相尼彫ってあります。。本体の大きさは、高さ39cm、横幅34cmです。

 この薬師如来は、元々ここにあったものではないと思われます。江戸時代に編さんされた(大村)郷村記には、(場所は)「鳥越」と書いてあります。現在、今富町の旧字(あざ)の一つである「鳥越(とりごえ)」の周辺(立福寺町の境界付近でもある)に建立当時、住んでおられた個人が立てられたものと推測されます。時期不明ながら(近代になってからと思われますが)六社権現の敷地内に移設されたと推測されます。

 薬師如来とは、国語辞典の大辞泉によれば、次の「 」内の通りです。「東方浄瑠璃(じょうるり)世界の教主。12の大願を立てて、人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏。古来、医薬の仏として信仰される。像は通例、右手に施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ。脇侍(きょうじ)に日光菩薩と月光菩薩、眷属(けんぞく)として十二神将が配される。薬師瑠璃光如来。薬師仏。 」

左から地蔵薬師如来馬頭観音(場所:六社権現の境内)

名称について
 この石仏名称について、通常は、土台石などに彫られた碑文や、江戸時代編さんの(大村)郷村記の記述内容、さらには建立当初の場所が伝承で判明している場合などを参考に付けています。

  その意味からすれば、この薬師如来は、大村郷村記(復刻版=活字版、第二巻122ページ)に、江戸時代当時は「鳥越(とりごえ)」にあったこと、また個人が祀っていることなどが書いてありますので、本来ならば「鳥越の薬師如来」とすべきだったかもしれません。

  しかし、この薬師如来は、時期不明ながら(近代になってからと思われますが)六社権現の敷地内に移設されたと推測されます。そして、この六社権現も元あった場所から遷座(移設)されて現在地にあります。このような経過をたどり、既に現在地でも相当古くから立福寺郷(町)の方々が、他の「立福寺の馬頭観音」、「立福寺の地蔵」なとの石仏と一緒に長年、祀って来られた歴史もあります。

 そのようなことから、今回から立福寺の薬師如来の名称として、紹介したいと考えました。
なお、現在は、上から2番目写真の通り、六社権現の境内に、立福寺の石仏三体が並んだ状態にあります。正面に向かって左側(北側)から順に、地蔵薬師如来馬頭観音です。

大きさや緯度経度など
 立福寺の薬師如来の大きさは、下表の通りです。既に本ページ冒頭の(注:)にも書いています通り、「数十年前の工事の時、作業者の方が薬師如来と地蔵の土台石を取り違われ、現在この薬師如来は地蔵の土台石の上に乗っている」状態です。ただし、下表には、碑文石のある本来の土台部分も測定して書いています。念のため、本体と土台石が正規になった場合の実測定ではありませんので、あくまでも参考程度に閲覧願います。

立福寺の薬師如来の大きさ
 本体  高さ:39cm  横幅:34cm  胴囲:52cm  下部の周囲:100cm
 蓮華座  高さ:17cm  横幅:42cm  胴囲:118cm  -
 土台  高さ:21cm  横幅:24cm  奥行き:22cm  胴囲:93cm


  下表が、携帯型GPS測定器で計測した緯度経度の数値です。なお、この薬師如来のある場所は、左横(北側)に六社権現社殿、後方(東側)や周囲に雑木(木立)がありますので計測上、影響はあったとも思えます。そのため、下表に若干の誤差があることは、あらかじめ、ご了承願います。
立福寺の薬師如来、GPS実測値
 名称:立福寺の薬師如来  場所:大村市 立福寺町 (六社権現の境内)
 実測値:北緯32度57分39.50秒、東経129度57分34.32秒  (国土地理院)地図検索用 
 32度57分39.50秒 129度57分34.32秒
 グーグルアース用数値:32°57'39.50"N,129°57'34.32"E  標高:GPS高度計は56m、気圧高度計は56m、地図上の標高は51m

右側の活字版
薬師如来、土台石の拓本

土台石の碑文など
 この薬師如来が本来乗っていた土台石には、碑文があります。 それは、右表の拓本および活字版通り原文は、縦書きです。今回、下記にホームページ用に横書きに直し、下記の太文字に変えて表記しています。なお、現代訳の( )内などは、上野の補足や注釈です。

   正徳六年五月八日
 奉寄進薬師如来
   施主 一瀬彦佐衛門妹 妙相尼

・土台石碑文の現代語訳
 上記の碑文を現代語訳しますと、下記の<>内の青文字通りと思われます。念のために、素人の訳ですので、ご参考程度に閲覧願います。

 < 薬師如来を寄進奉る。正徳6(1716)年5月8日、施主(建立者)は一瀬彦佐衛門の妹の妙相尼である。 >

 碑文や現代語訳の補足ですが、上記通り、この薬師如来の建立者は、女性です。江戸時代当時、この種の石仏あるいは記念碑の建立者(寄付者)として女性が登場するのは、大村藩内ではけっこう珍しいものと思われます。

 あと、「一瀬彦佐衛門の妹」との碑文でも、お分かりの通り、武士の家系であることが分かります。また、(大村)郷村記を参照しますと、この薬師如来の元あった場所は、字(あざ)の「鳥越(とりごえ)」と記述してあります。そのことからすれば、「鳥越」周辺に住んでいた「一瀬彦佐衛門の妹」が建立したということです。

大村郷村記
  この薬師如来について、大村郷村記(藤野保編)には、第二巻、122ページに記述されています。念のため、この記述内容では、石仏の所在地として、鳥越(とりごえ)となっていますので、今回の表現=立福寺の薬師如来とは違っていますので、その点は、ご注意願います。(この名称については、先の項目「名称について」を参照)

立福寺の薬師如来(やくしにょらい)

 なお、原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため「」内の太文字に変えています。ですから、あくまでも下記はご参考程度に、ご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。

 「鳥越 一 薬師
  石佛座像、宮代砂右徳門  例祭十一月八日、妙宣寺勧請 所中祭之   
  佛 殿  三尺ニ四尺 瓦宇
  拝 殿  九尺ニ弐間萱宇
  境内入九間、横七間程
 當杜は正徳四甲午年一瀬彦左衛門妹妙相と申者建立の よし云傳ふ
 」

・大村郷村記の現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記< >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。( )内は、大村郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。

 また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

 < 鳥越(とりごえ) 一つ 薬師(如来)(やくしにょらい)
 石仏は座像である。宮代(みやだい、宮守=みやもり)は砂右徳門である。例祭は(毎年)11月8日で妙宣寺に来てとりおこなっている。 (鳥越)周辺地域で祭っている。

 仏殿(ぶつでん、本堂)は、(奥行が)30.3cmに(横幅が)1m21cmの瓦(かわら)屋根である。

 拝殿(はいでん)は、(奥行が)2m73cmに(横幅が)3m64cmの萱(かや)吹き屋根である
 境内(けいだい)は、奥行きが16m38cm、横幅が12m74cmほどである。
 当社は、正徳4(1714)甲午(きのえうま、こうご)年に、一瀬彦佐衛門の妹の妙相尼と言う者が建立したと伝わっている。 


・土台石の碑文と大村郷村記の建立年違いについて

 この薬師如来の建立年について、土台石の碑文と大村郷村記の年違いがあります。改めて、その部分のみを抜き書きして、下記に書いていますので、ご参照願います。

土台石碑文の活字版

・土台石の碑文=「正徳6(1716)年5月8日(右側の土台石碑文の活字版参照)
・大村郷村記の記述=「正徳4(1714)年

  先の上下の行通り、薬師如来の建立年について、2年間違っています。しかし、後の建立者の氏名部分は、「一瀬彦佐衛門の妹の妙相尼」は同じです。なぜ、建立者は同じでも、建立年の方は、2年間違っているのかについて、上野の推測も含めて、下記<>内の説を考えてみました。

  <単純に土台石碑文の転記ミス説-----土台石の碑文にある「正徳六年」を、「正徳四年」と見間違って書き写したのではと思われる。>

  上記の説が正しいか、どうか、他に史料もないので、これ以上の再検証は出来ない状況です。ただ、大村郷村記の方には、 当時の年を書く場合に通例だった「正徳四甲午年」と、干支(えと)を入れて記述されています。 年さえ分かっていれば、、干支(えと)は後でも書けますが、当時、何か別の資料を見ながら記述した可能性もあるかもしれません。

 いずれにしても、この建立年当時は、鳥越の所で建立され、周辺地域の人々によって祭られていたのでしょう。そして、時期不明ながら近代になり、六社権現敷地内に移設されたものと推測されます。そして、この移設話しと、ほぼ似たような伝承を、私は立福寺町の方から聞きました。

補足説明
 

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


(初回掲載日:2017年6月12日、第2次掲載日:6月14日、第3次掲載日:6月18日、第4次掲載日:6月19日、第5次掲載日:6月26日、第6次掲載日:6月27日)

 

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