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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など   特攻隊員の文字と絵 
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項 目  主な内容 掲載状況
はじめに  このページの大まかな紹介 掲載中
事実関係  この文と絵についてのデータ関係 掲載中
経緯と紹介者など  調査に至る経過や、その紹介者など 掲載中
実物とCG写真  実物の写真と見やすいようにしたCG写真  掲載中
原文の活字化と口語訳  原文を活字化し、口語訳 掲載中
推測も含めた解説  資料不足もあり、推測含めた解説内容 掲載中
 用語解説  本ページ関係語句などの解 掲載中
 補足  上記の事柄の補足など -
(写真1) 旧松屋旅館2階、特攻隊員の文や絵は左側のガラス付き障子のすりガラスに書いてある

概要紹介
 まず、この特攻隊員(注:最下段の「用語解説」を参照)が書いたといわれている文と絵には、残念ながら、その氏名も年月日も、あるいは所属隊の名称も書いてありません。あくまでも長らく松原地区で、「この文は特攻隊員が書いたものではないか?」との伝承を元に紹介しています。そのため、断定的に言えないものです。

 ただし、2022年8月12日の長崎新聞を参照すると、戦前、松原の民家や旅館に特攻隊員が宿泊されたとの証言も書いてありますので、その内の一人が、松屋旅館すりガラス文や絵を書かれた可能性は、充分あり得ます。また、漢字やカタカナ混じり文からして、当時多く見られた文体(文面)です。

(写真2)  中央部やや右下側の)すりガラス文と絵がある。
旧松屋旅館の2階(写真奥下側は旧・長崎街道)
 あと、全国には特攻隊員が父母や家族宛てに出された手紙などには、大変優しい文面も多くあります。しかし、今回の文には、「決戦」「敵地」「南海へ」「飛ぶ」など、けっこう勇ましい表現が並んでいます。これは、多くの人が泊まる旅館という状況で、「出陣前の決意」とか「多くの人にも見て欲しい」との思いもあったからこそと推測されます。

 なお、の方ですが、自分が搭乗する愛機と、撃ち落とされていると想像されるアメリカ軍機が描いてあるようです。上野の見た目で、愛機は単座単発(一人乗りで1基のエンジン、プロペラ)戦闘機の描き方なので、特攻機に多く使われた航空機と同じ機種と思われます。

 さらに繰り返しになりますが、先に述べた通り、この特攻隊員の文字と絵は、真偽(しんぎ)の件が残ります。しかし、もしも、地元伝承が正確だとすれば、現在の大村市内で戦前の特攻隊員の書いたものが多くある訳ではないので、当時のことを想起させる文や絵が残っているのは、珍しいことといえます

事実関係
・名称:特攻隊隊員の文字と絵
 (注:念のため、氏名も筆記年月日も特攻隊の所属名も書いてなくて、あくまでも地域伝承からである)
・場所:大村市松原本町77-1、旧松屋旅館2階(旧・長崎街道側=東側近く)
・状況:ガラス付障子のすりガラスの一部分に文と絵が書いてある(掲載写真参照)
・大きさ:文と絵のみで、高さ約11cm、横幅約4cmである。

(写真3) 中央部に文と絵がある
経緯と紹介者など
 この特攻隊員の書いた文と絵についての経過と紹介者などは、次の通りである。
 (1) 2022年6月15日、この旧松屋旅館で、<大村高校と鎮西学院大学「長崎街道インフラさるくin大村、松原宿が、開催されていた。

 (2) 紹介者について、この旧旅館2階で両校の学生達に説明されていた松原宿活性化協議会の方から、「上野君、ここに(指で、すりガラスを示しながら)特攻隊が書いたのがある」などと教えて頂いた。(写真2、写真3を参照)

 (3) 早速、長崎新聞の記者さんと一緒に見て、消えかかった絵もしくは一文字以外は、その場でも判読できた。なお、後で再度調べたところ、この不明文字は、左右の文字行の並びや、全体の意味からして書き損じて消した文字とも思われる。そして、その一文字が仮に無くても、下記の活字化や、その口語訳の通り、本文そのものは、全文の判読と解釈ができるものである。

 あと、ご参考までに、上記とは別に2022年8月15日、私は、全7ページの「旧松屋旅館のすりガラスに書かれた特攻隊隊員の文と絵」の報告書を作成した。それをもとに、このページは作成している。

実物とCG写真
 この項目では、下記の通り、実物写真CG写真を並べて表記している。ただし、文字部分のみである。
(写真5) 青色文字CG写真 (写真4) 実物写真

 ・右側写真(写真4)が、すりガラスに書かれた特攻隊員の文字を、そのまま写したものである。ご参考までに、肉眼でも、実物に近寄って見れば、かなり分かる文字ではある。

 ・左側写真(写真5)が、CG(レタッチ)で青色に彩色したものである。なお、当然、色は例えば明るい赤色、紫色などにも変えられるが、実物の鉛筆色と大きな違和感のないように今回は、青色にしてみた。

 線の太さなどについて、実物は、すりガラスに鉛筆で書かれた文字なので、元々が細い線幅である。それを、なぞるようにしてCG描画してみた。なお、やや、CG写真の文字が太いようにも見えているが、それは、青色線を均一にしているので、クッキリ見えているだけで、線幅の大ききは、ほぼ変わっていない。

 戦前当時、片仮名が多いのと一部、独特の省略文字もあるので、注意しながら実物の線を上書きした。 なお、この文字の上部にある飛行機の絵は、次の項目で全体写真として表記している。

原文の活字化と口語訳
 先の項目通り、すりガラスに書かれた文字と絵の全体をCG写真にしたのが下記の右側写真である。そして、文字の活字化した写真は左側の画像である。
(写真7) 右側の文字の活字化 (写真6) 文字と絵全体のとCG写真

・ホームページ用に横文字に直すとと、次の太文字通りである。
  我ワ征ク 決戦ノ南海ヘ ! 
 愛機ハ飛ブ敵地ノ上ニ !
 敵機ハ尾ヲ引キ南海ヘ !
 

口語訳(現代語訳) <注:下記の太い青文字は、あくまでも上野の素人訳なので、ご参考程度に、ご覧願いたい>

  私は(体当り攻撃に)行く、決戦の南海へ !!
 
(自分の搭乗する機体=)愛機は飛んでいく、敵地の上に(攻撃する) !!
敵機
(敵の飛行機)は尻尾(しっぽ)丸めて南海へ(墜落するであろう) !!



推測も含めた解説
 念のため、この項目は上野の推測も含めて書いている
 標題の解説本題に入る前に、既に<「戦争史」(戦闘、空襲や戦争遺跡など)は一次資料からの調査を>ページにも記述している通り、歴史事項の場合、大事な事柄は、5W1Hと同じような事項(調査対象)を郷土史愛好家ならば、かなり時間を費やして調べておられると思う。そして、その5W1Hの中でも、特に、年月日作成者(建立者)目的などは、重要部分と考えられる。

 今回の「特攻隊員の文と絵」の作成者や作成年月日が、全く不明である。そのため、直接は関係していないが、先の大戦や特攻隊関係の書籍やホームページ類も参照して、また、上野の推測含めて、この項目は書いている。その点は、あらかじめ、ご了承の上、閲覧願いたい。もしも、今後、不明事項が解決(解釈)できる資料が発見されれば、再検討や改訂含めておこなうのは、当然でもある。

(1)この文字だけでは肝心な「年月日」と「作成者」が不明である
 今回の「特攻隊員の文と絵」には、先に書いた通り歴史事項では肝心な「作成者」と「作成年月日」の二つが、残念ながら不明である。この旧松屋旅館は、戦争当時、営業中の旅館だったので、宿泊者と宿泊年月日を記す「宿帳」などが残っていればと思った。なぜなら、特攻隊出撃時期は、幅はあるが、その年月は、後の項目や別途の国語辞典に書いている通り、ほぼ分かる。それをベースに「宿帳」を調べれば、この「文字と絵」を書いた宿泊者も分かるものと考えたが、それはないようだ。

(2)「文」の中に当時のことを想起させる字句がある
 この「特攻隊員の文と絵」の中に、いくつか当時のことを想起(推測)させる字句(キーワード)がある。それは、主に「決戦」「南海」「敵地ノ上ニ」「敵機」の文字であろう。次から一文字づつ箇条書き風に解説してみる。
(写真5) 青色文字CG写真

 「決戦」-----これは、主に「沖縄決戦」や「本土決戦」を指している言葉と思われる。サイパン島やフィリピンなどでの戦いも重要だったが、沖縄などとは、地形的にも戦略、戦術的にも、その比ではないと思われる。

 「南海」-----この「南海」の意味は、日本より南側の海(太平洋)を全て指している。しかし、それでは、あまりにも広過ぎる。特攻機の航続距離との関係で考えれば、本州の出撃最前線でもあった鹿児島県の鹿屋(海軍)、知覧(陸軍)などの飛行場から飛び立っていたので、かなり遠くまでも可能であったと思う。しかし、先の「決戦」の用語からして、この場合は、沖縄周辺海域だったろう。また、沖縄より南の海域へは、台湾の飛行場から出撃していた。

 「敵地ノ上ニ」-----この「敵地」のみを狭義に解釈すれば「敵側の土地」(国や軍事施設)を指していると思う。ただし、特攻機の場合、後の国語辞典の解説通り、「敵側の艦船」(航空母艦=空母、戦艦、巡洋艦など)が、主な目標であった。だが、これにとらわれず、広義に解釈すれば「敵側の土地」も「敵側の艦船」も入るのではないか。

 「敵機」-----この場合、アメリカ軍機である。特に、レーダーなどにより、事前に日本の特攻機を探知すれば、すぐさま迎撃態勢を取った。そして、アメリカの戦闘機は、日本軍機を待ち構えて格闘戦をおこなった。重い爆弾を装備した日本軍機は、機敏な動きがしずらかった。さらには、アメリカの各艦船からも猛烈な対空砲火が日本軍機に浴びせられた。

 その結果、特別攻撃(特攻)の初期段階は別だが、アメリカ軍が特攻対策を講じた後は、特攻隊機はアメリカ軍機の格闘戦や艦船からの対空砲撃によって、目標物の船に近づくことも難しくなって、当初目標の成果は挙げづらくなったといわれている。

(3)なぜ松原の旅館に宿泊していたのか
 まず、飛行場と旅館との距離や交通手段との関係である。竹松地区にあった大村海軍航空隊に最も近い当時の国鉄の駅は、竹松駅である。次に、松原駅である。先の航空隊周辺は、空襲の遭った時期、特に、1945(昭和20)年3月18日の空襲は、激しかった。(この詳細は上野が初公開した大村海軍航空隊全域の空襲写真も付けて2021年8月8日に発行した冊子「竹松地区の空襲」を参照願いたい)  当然この日以降も終戦まで竹松地区や隣の福重地区には、空襲が続いた。

(写真6) 右側:大村海軍航空隊 1994年の航空写真
<上記写真は「軍都」大村の歩みと市民の6~7ページより>
 しかし、松原地区には、軍事施設がほとんど無かったので、上野調べながら「松原には空襲がなかった」と同地区の人から聞いた。そのようなことから、この松屋旅館も空襲に遭ってない。今では、距離的に松原から竹松まで(約3~5km)歩く人は、ほとんどいないだろうが、当時は極普通だったろう。(戦後生まれの上野でも小中学校の通学距離は約4〜5kmあったが、通学は歩いたり自転車だったので実感として良く分かる)

 あと、角度を変えて、なぜ特攻隊員が松原の旅館に宿泊していたかである。通常、特攻隊は、全国の基地で編成を終えた後、航続距離(燃料補給のため)との関係上、どこかの経由地の飛行場を経て最前線の鹿児島へ飛んだ例が多い。海軍機の場合、その経由地で九州では、例えば大分県、宇佐海軍航隊(飛行場)大村海軍航空隊などがあり、その後、鹿児島県の鹿屋海軍航空隊である。

 ただし、念のため、大村で特攻隊が編成された例もあるので、その場合は経由地ではない。なお、大村での宿泊があったとしたら、例えば鹿児島での出撃日に合わせるためとか、あるいは天候上の理由ならば大村海軍航空隊の隊舎(官舎)も宿泊可能だったろう。

 しかし、先の「竹松地区の空襲」以降ならば、その隊舎宿泊も不可能となり、松原の旅館に来た可能性も考えられる。もしも、この推測が仮に正しいとすると、先の項目で「年月日は不明」との内容が、かなり月日の推定も狭くなってくる。あと、旅館に泊まっている関係上、この特攻隊員は、大村や周辺の市町村在住者ではないだろうとも思われる。

(4)


   (これ以降の原稿はできているが、掲載写真含めてHP掲載用に準備中。しばらく、お待ちください)


用語解説
 特攻隊(とっこうたい)<「特別攻撃隊」の略>=第二次大戦中,爆弾を積んだ飛行機などで敵艦に体当たり攻撃を行うために編成した部隊につけた名。(広辞苑より)
 特攻隊員(とっこうたいいん) =上記の「特攻隊」の隊員のこと。主には戦闘機の搭乗員を指す。
 旧松屋旅館(きゅう まつやりょかん) =明治時代から大正、昭和40年頃まで営業していた松屋旅館のことである。
 松原宿活性化協議会=松原地区の地域起こし団体である。旧松屋旅館を拠点に、一例として夏休みには「寺子屋塾」、冬季にはイルミネーション、春には「ひな祭り」、朝市などが取り組まれている。
補足

  (この原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい)

・関係ページ:「2022年8月12日の長崎新聞

 (初回掲載日:2022年8月23日、第二次掲載日:8月29日、第三次掲載日:9月6日、第四次掲載日:9月13日、第五次掲載日:9月16日、第六次掲載日:9月19日。第七次掲載日:9月22日、第八次掲載日:月 日)
-  引用・参考書籍一覧  本特集ページを作成するため引用・参照した書籍名など 掲載中
       
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