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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 長崎惣兵衛の墓

(史跡案内門柱)長崎惣兵衛の墓
 名称:長崎惣兵衛の墓(ながさき そうべえ の はか)  様式:案内標柱
 場所:大村市沖田町、墓地内  設置者:大村市教育委員会
 設置年:2002年2月(平成14年2月)  GPS実測値:32度57分35.78秒 129度56分34.56秒
 全体の大きさ:高さ210cm、横幅15cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:(同上)  グーグルアース用数値:32°57'35.78"N,129°56'34.56"E

注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差もある。グーグルアースは航空写真上に表示するため若干の誤差もあるが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)

長崎惣兵衛の墓の史跡案内門柱(写真左端側。奥側が墓碑など)

史跡案内標柱写真周辺の説明
 まず、この案内標柱は、沖田町の墓地にあり、国道34号線沿いからも見えています。そして、福重橋近くの国道から東側方向へ進めば直ぐに、この墓地はあります。また、墓地の前側(南西側)の道は、旧長崎街道です。そのため、この街道沿いには、旧長崎街道を表す案内標柱も東西の国道沿いには各々立てられています。

 右側写真は、墓地前の道路(旧長崎街道)から墓地方面を見ながら撮ったものです。写真左端側で銀色に見える細長い柱が、今回紹介の案内標柱です。なお、この墓碑そのものについては、既に紹介中の長崎惣兵衛の墓紹介ページに詳細に掲載しています。

 先のリン先ページにも書いていますが、元々、この墓碑は、現在の大村城南高校周辺にあったものですが、ご子孫の方が、こちらの墓地に移転されたようです。この墓のある位置、敷地や全体の造りからして、なかなか当時としては立派なものです。

 旧長崎街道ウォーキング途中の道からも、右上側写真と同じように見えますし、史跡案内標柱も(東西南北面の)文字が、道側からそのまま読めます。

史跡案内標柱の内容
 この長崎惣兵衛の墓の案内標柱に書いてある文章は、下記「 」内の通りです。今回、私の方からの注釈などはありません。下記の説明文以上に詳細を知りたい方は、長崎惣兵衛の墓紹介ページをご参照願います。

 「 長崎惣兵衛の墓 The tomb of Sobe Nagasaki
  長崎惣兵衛は、大村純忠の重心として活躍した長崎甚佐衛門の弟です。大村に住まい、玖島城の築城奉行を務めました。この墓は大正時代に下久原から移転されたものです。
 平成十四年二月 大村市教育委員会 

補足

 長崎惣兵衛は、上記の史跡案内標柱の文章や長崎惣兵衛の墓紹介ページでもお分かりの通り、元は長崎の領主長崎甚左衛門純景(すみかげ)の弟で長崎の戸町を治めていました。(名前も戸町惣兵衛重方だった) その後、しばらくして長崎姓を継ぎ大村に住むようになったようです。そして、現在の墓地は、旧・長崎街道の真横で、ご子孫は長崎医院の方とのことです。

 ここからは歴史とか史跡説明とか直接関係はないかもしれませんが、いずれにしても”長崎”という名前に縁のある方だったのだなあと考えました。この場所は、先の項目にも書きましたが、長崎街道ウォーキングの真横ですし、また郡川土手沿いの散歩コースからも、そんなに離れていませんので何かの機会に史跡案内標柱をご覧頂ければと思います。

・詳細な関係ページ:福重の名所旧跡や地形の『長崎惣兵衛の墓

(初回掲載日:2013年5月9日、第2次掲載日:5月10日、第3次掲載日:5月11日、第4次掲載日:5月17日) 


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