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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 六社権現(ろくしゃごんげん)

(史跡説明板)六社権現(ろくしゃごんげん)
 名称:六社権現  様式:説明板
 場所:大村市 立福寺町(りふくじまち、りゅうふくじまち)  設置者:立福寺町内会、福重地区活性化委員会
 設置年:2017年3月1日(平成29年3月1日)  GPS実測値:32度57分39.91秒 129度57分34.28秒
 全体の大きさ:高さ144cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°57'39.91"N,129°57'34.28"E
六社権現の史跡説明板(左端側) 、  六社権現 、  若宮権現(右端側の石祠)

史跡説明板写真周辺の説明
 まず、上記の横長写真を参照願います。左端側(北側)にあるのが、六社権現の史跡説明板です。中央部やや右側の建物が、六社権現です。2016年秋に改築がおこなわれ、同年11月29日には魂入れ、そして同年12月18日には、六社権現の改築祝いと馬頭観音祭(立福寺町の秋祭り)が、盛大に開催されました。

左端側:六社権現、左奥側:若宮権現、前例の左側:立福寺の地蔵、中央:鳥越の薬師如来、右側:立福寺の馬頭観音

 この六社権現の元あった場所は、龍福寺(跡)周辺と言われています。この場所は現在地より北北西側へ約100mの所に、通称で「権現山(ごんげんやま)」と呼ばれている雑木林があります。推測ながら、龍福寺が創建された同じ時期の平安時代頃に、先の雑木林もしくは、その下側(南側)周辺に龍福寺の守護神として、当初は七社権現(その後、六社権現)として出来たと思われます。(この変化の詳細は、次の項目参照)

 上記の横長写真右端側(南側)と、2番目写真の左奥側に石祠(せきし)が見えていますが、これが若宮権現です。この権現も、元々この場所ではありませんでした。大村藩領絵図には、現在の立福寺町公民館周辺あるいは長崎自動車道(高速道路)周辺に若宮権現の文字が表記されています。若宮権現の創建は不明ながら、江戸時代の弘化3(1846)年に現在の石祠は建立されています。

 先の若宮権現より、さらに右側(南側)で2番目写真手前側に写っていますのが、左から順に地蔵鳥越の薬師如来立福寺の馬頭観音です。この内、先の二体は、建立当初からここにあったのではなく、後で現在地に移設されたものと思われます。

七社権現から六社権現への経過について
 この六社権現や、それまでの変遷(へんせん)について、寿古町の増元氏は、立福寺町配布用資料(2005年12月1日文章作成)に、次の<>内のことを書いておられます。(下記は上野の方で今回掲載に当たり省略、改行、太文字、その他を実施しています)

立福寺の地蔵

 < (前略) 龍福寺・弥勒寺・東光寺・唐泉寺(現在の矢上の薬師堂)などは平安時代にはあったと思われます。 龍福寺は文献では1155年(平安時代末)にはあったとされており、南北朝時代の1366年に寺院群火災という事件で他の寺院とともに焼失したと思われます。その後、再建されて郡七山十坊の一つとして栄えますが、大村純忠時代の1574年にキリシタンによって他の寺社とともに破壊され、その後再建されることもなく、完全に消滅してしまいました。今は再建された六社権現と、寺山・寺屋敷という名前が残るだけです。

 六社権現・・・ 龍福寺が栄えたころ、龍福寺を守るために「七社権現」が祀られていました。七社権現は、比叡山の仏を守る鎮守神です。(今富にあった十二社権現は熊野の守り神)ところが、龍福寺に関する1459年(室町時代)の古文書には「地蔵並びに六所権現」と書かれています。

 七社権現とは、(1)小比叡(薬師)、 (2)三宮(普賢)、 (3)大宮(釈迦)、 (4)八王子(千手)、 (4)聖真子(阿弥陀)、 (6)客人権現(十一面)、 (7)禅師(地蔵)の七つを言います。その七つの内「禅師(地蔵)が独立して祀られるようになったため、残りの六つが「六社(所)権現」と呼ばれるようになったと考えられます。  (中略) 

 六社権現の再建・・・キリシタンによる寺社破壊で大村地方のお寺や神社は全て破壊されました。龍福寺をはじめ福重にあったお寺も一つ残らず破壊され、一つも再建されずに消えてしまいました。龍福寺・弥勒寺・冷泉寺・白水寺・東光寺・正蓮寺など地名として残るだけてす。 六社権現龍福寺内にありましたから、当然壊されました。しかし、大神宮、六社権現・松尾権現などは江戸時代になって再建されました。

 江戸時代末に大村藩が作成した郷村記」という村々の記録集によると 、「 (略) 正保4年(1647)5月建立 (略) 」  龍福寺の六社権現は、龍福寺内に七社権現として創建された平安時代からは800年以上、六社権現になってから600年ほど、再建されて約360年の歴史を持つ、極めて古い、由緒のある社です。 (後略)   

  上記に七社権現の概要説明はしてありますが、実は、この名称や内容については各宗派や様々な地域で若干違うこともあるようです。他にも本地仏などの説明も本来必要なのですが、これだけでも特別ページが必要なくらいの文章量になりますので、このページでは省略します。

 あと、上記には、七社権現から「禅師(地蔵)が独立して祀られるようになった」と書いてあります。その地蔵かどうか、あるいは江戸時代に再建されたものか、はたまた全く別の場所から移設されたのか、不明ながらも上から2、3番目写真の通り、ここの境内には現在、立福寺の地蔵があります。

六社権現の史跡説明板(PDFデータより加工)

史跡説明板の内容
 このページ最上部写真の左端部(北側)に写っています六社権現の史跡説明板には、下記< >内の文章が書いてあります。(右側の説明板の画像=PDFデータより加工を参照)

  原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直しています。  また、見やすくするために改行、行間なども一部変えています。 なお、この史跡の詳細説明は、「福重の名所旧跡と地形」の『六社権現』紹介ページなどから参照願います。

 < 六社権現
  六社権現の創建は不明である。しかし、古記録によると一一五五年(平安時代末期)には既にあった龍福寺の鎮守神の役割として「七社権現」が祀られていたという。また龍福寺に関する一四五九年(室町時代)の古文書には「地蔵並びに六所権現」と記述されている。

 そして七社権現とは仏を守る小比叡(薬師)、三宮(普賢)、「禅師(地蔵)」など七つの鎮守神のことである。その内の「禅師(地蔵)が独立して祀られるようになったため、残りの六つが「六社(所)権現」になったと推測される。

 大村郷村記によれば「ご神体は座像で鏡形をした鋳物に模様付き」、「元・竜(龍)福寺跡に正保四(一六四七)年五月に六社権現として建設された」などと書いてある。

 ただし、当時の場所は現在地と違い龍福寺跡にあった。その後ここに遷座された。二〇一六年一二月一八日には新改築の落成式が開催された。

 境内には他に若宮権現、地蔵、薬師如来、馬頭観音などもある。立福寺町民が毎年祀っている。

二〇一七年三月一日  立福寺町内会・福重地区活性化委員会  >

補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)

・詳細な関係ページ:『六社権現

(初回掲載日:2017年5月27日、第2次掲載日:5月31日、第3次掲載日:6月4日、第4次掲載日:6月17日、第6次掲載日: 月 日) 


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