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福重・今富・皆同三ヶ村

福重・今富・皆同三ヶ村 場所:旧・福重村=現在の長崎県大村市福重地区10町内
(図1) 大村藩領絵図、「今富村」の文字中心の図(今富と弥勒寺はほぼ全部。立福寺と野田は一部、重井田は上記にない)

概要紹介
 今回のページには、江戸時代、福重には、合併後の福重村(現在の長崎県大村市福重地区の10町内=福重小学校の校区)になるまでに存在した福重・皆同・今富の三ヶ村について書いています。まずは、その当時の三ヶ村の状況から列記します。(右側下図の福重の区域図=緑色:今富村、黄色:皆同村、赤色:福重村も参照)

 ・今富村=今富郷(町)、弥勒寺郷(町)、龍福寺郷(町)、重井田郷(町)、野田郷(町)
 ・皆同村=皆同郷(町)、矢上郷(福重町)、沖田郷(町)
 ・福重村=寿古郷(町)、草場郷(町)--東光寺含む

 上記の三ヶ村は、行政・管理・庄屋(村役場みたいなもの)・役人も、それぞれ各村にありました。しかし、(江戸時代の)文化11年(1814)、主に大村藩の財政上の理由から、この三ヶ村は合併して、その後、福重村(1942年2月11日、大村市政の発足以降は現在の大村市福重地区)になりました。

(図2) 福重の区域図(福重村へ合併前。赤色:福重村、黄色:皆同村、緑色:今富村)

  この三ヶ村の特徴の一つとして、一番広かったのは、上記の郷(町)数あるいは右側の福重の区域図通り、今富村でした。さらに面積の広さからして、当時の政治経済上、最も重要だったコメの石高(こくだか)も多かったことが分かります。また、戦国時代、大村純忠も居城し、当時の一時期、大村の政治経済の中心地だったのは、今富城です。

 この今富城の場所は、現在、皆同町(福重出張所の裏山)にあるにも関わらず、その「今富」の名称が付いているのは、戦国時代、豪族の「今富氏」の居城だったので、その城名称で呼ばれたのか、あるいは当時、今富村だった可能性もあり、その名残とも言えます。

 後の項目で紹介しています江戸時代に編さんされた(大村)郷村記に、この福重・皆同・今富の三ヶ村ついて詳細に記述されています。なお、この(大村)郷村記を参照しますと、今富村の名称の由緒は、この周辺にいた豪族の「今富氏」に起因しているように書いてあります。

 いずれ別ページで紹介予定ですが、実は現在のJR大村線・皆同ガード近く(昔は国道側、現在は元の皆同バス停側)に、旧・福重村と旧・皆同村の村境の石が数個、現存しています。伝承ながら、このような村境の石を見ても、江戸時代の合併前には、三ヶ村が現存していたのが分かるものです。

 三ヶ村合併後の福重村の庄屋は、当時の須古郷(明治時代からは”寿古郷”)の株田に置かれました。そして、1872(明治5)年8月には、福重小学校が同じ場所(当時:福重村役場)に開校しました。

1)大村郷村記と現代語訳
 江戸時代に編さんされた(大村)郷村記に、今回の福重・皆同・今富の三ヶ村について記述されています。この内容は、復刻版(活字版)大村郷村記でも見れ、その第二巻・福重村の124ページに、「由緒之事」の項目に書いてあります。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。また、原文2行表記部分は、<>内通り1行に変えています。

(図3) 大村藩領絵図、「皆同村」は中央上部、「福重村」は左側。(右下(側の紺色は郡川、斜め黒色線は長崎街道、上部の薄い紺色線は石走川)

 さらに、見やすくするため太文字に変えたり、改行もおこない、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記は、ご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。

  「 由緒之事
 一 今富村往古今冨氏知行す、喜禎三丁酉年十二月十九日、 關東の御教書に、肥前國彼杵荘御家人等ハ、右大將家 の時令勤仕京都大番と有之、右人撒大村七郎太郎<丹後守親澄、小字七郎太郎> 千綿太郎・時津四郎・長崎小太郎・浦上小大夫・同三郎・戸田藤次・今冨次郎・同三郎・同四郎なり、

 又正李二十五庚戌年<北朝鷹安三> の書記に今冨兵庫介・同勘解由左衛門・同八郎とあり(長崎氏家記に貞鷹年中肥前國彼杵郡に下り深江浦へ居すとあり、

一説に建久四癸丑年、頼朝公富士牧狩りの節の賞として當國へ下りしとも云> 長崎氏・今冨氏當家の臣となり、今に家名相続す<按するに、今富村ハ 今冨氏の號を以村名とせしか、長崎の名長崎氏徒住せしより始る、其外此類多し>

 一 當村は先年より福重・皆同・今富三ヶ村に相分荘屋ありしなり、然るに文化十一甲戌年省略二付、今富・皆同 爾村荘屋相引、福重へ寄村に相成、物成諸運上一切同所に於て取立るなり、

 皆同荘屋跡畠九畝拾武歩、高萱斗四舛壼合、文政十丁亥年同村百姓畳左衛門へ永々賣方に相成、

 今富村荘屋跡畠萱段七畝拾萱歩、高四斗三舛七合威勺、文政五壬午年山口伊兵衛へ永々賣方に相成、則山口圭次郎屋鋪是なり

 一 往古より年禮として村中惣代に、小左司・小頭の内頭立し百姓九人宛、在城年正月四日廣間白洲にて目見へ、 五明包茶正月郡屋へ納む、是古來よりの例式なり

 一 福重・皆同・今富村横目役、文化十四丁丑年以前ハ自宅懸勤なり、然るに頃年相引候今富村荘屋宅の内、右役場に相極、同年七月佐藤唯之丞始て徒住す 」

現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、上野が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

正平十七年九月・正平十八年八月・応安五年九月の彼杵一揆 連判帳暑名の豪族分布(上図は全体図のほんの一部分を拡大したもの)

右図は『大村史話 続編1』 (大村史談会1986年3月発行)の「第四章 彼杵荘に咲く最後の花 彼杵一揆の小地頭達」(論文執筆、満井録郎氏)58ページより、一部分を拡大したもの

 < 由緒の事
 今富村は昔、今富氏が領有支配していた。嘉禎(かてい)三丁酉(ひのとり、ていゆう)年(1237)の(鎌倉幕府の)関東の御教書に肥前国彼杵荘の御家人で右の大将家の者が、この当時の京都大番役として仕えていた。その右の名前は、大村七郎太郎<丹後守親澄、小字七郎太郎>、千綿太郎、時津四郎、長崎小太郎、浦上小太夫、浦上三郎、戸田藤次、今冨次郎、今富三郎 今富四郎である。

  また、正平(しょうへい)二十五庚戌(かのえいぬ、こうじゅつ)年(1370)、北朝の元号で応安(おうあん)三(1370)の書き留めには、今富兵庫介 今富勘解由佐衛門尉、今富八郎とある。

 長崎氏家記には、貞応年間(1222年4月13日〜1224年11月20日)に肥前国彼杵郡に下り深江浦に居たと書いてある。一説によると建久四癸丑(みずのとうし、きちゅう)年(1193)に源頼朝公の狩猟などで功績をあげ、その褒美(ほうび)として当国(肥前国彼杵郡)へ下ってきたとも言われている。

 長崎氏、今富氏とも今は当家(大村家)の家臣となり、家名を相続している。考えてみると、今富村は今富氏の名前をもって村の名称であるし、長崎は長崎氏の名前から始まっているなど、このような例が多い。

 一つ、 当村(この場合、福重村のこと)は先年より福重・皆同・今富三ヶ村に互いに庄屋(役場)があった。しかし、文化11甲戌(きのえいぬ、こうじゅつ)年(1814)、省略(この場合、大村藩による村の統廃合)によって今富・皆同(の庄屋=役場は)ここの村が引継ぎ、福重村に合併した。田畑からの年貢(ねんぐ)その他の税金全部を同所(福重村の庄屋)で取り立てることになった。

 一つ、大昔から年齢順に村中の総代(村役人の代表)に、小左司(こさし)・小頭(こがしら)(注1)の中から立ち(担当して)、(村の庶務などに)百姓9人を割り当てた。城があった頃、正月4日には広間白洲(しらす)にて会合し、五明包茶(注2)を正月に郡屋(ぐんや、村役人の集会場)へ納めることが、古来よりのしきたりである。

 福重・皆同・今富村の横目役(よこめやく)(注2)は、文化十四丁丑(ひのとうし、ていちゅう)年(1817)以前は、自宅で勤めていた。しかし、近年の村合併の頃、今富村の庄屋宅にあり、(合併までは)右役場(この場合、今富村の庄屋)にあった。(三ヶ村合併後から3年後の1817年=)同年7月に佐藤唯之丞(宅に)初めて落ち着いた。


(注1):小左司(こさし)・小頭(こがしら)は、村役人の役職名である。小頭は一般には何かの組の頭(かしら)、代表(まとめ役)の意味もある。
(注2)
五明包茶は、お茶の種類の一つと思われる。
(注3):横目役(よこめやく)は、現代風表現で言えば「村のおまわりさん(警察官)」であろう。

(図2) 福重の区域図(福重村へ合併前。赤色:福重村、黄色:皆同村、緑色:今富村)

・現代語訳の補足
 上記の大村郷村記や、その現代語訳でもお分かりの通り、江戸時代後期からの福重村(現在の大村市福重地区)は、元々、福重・皆同・今富の三ヶ村であったことが良く分かります。

 そして、その村別の郷(町)名は、現在も一部を除き、ほとんど変わっていませんが、念のため書いておきます。元の福重村=須古郷(寿古郷)、草場郷で、元の皆同村=皆同郷、矢上郷、沖田郷で、元の今富村=今富郷、弥勒寺郷、龍福寺郷、野田郷、重井田郷です。(右図の福重の区域図も参照)

  そして、この三ヶ村にとって大きなターニングポイントとなったのが、大村藩の財政上から考えられ、文化11年(1814)に藩内でおこなわれた村の合併でした。現代風に言うならば「行制改革、市町村合併」です。

 そして、この合併後のことで記述されている内容で、藩にとって大事なことだけが記述されています。それは、藩の重要事項である年貢(税金)を徴収する場所つまり庄屋(役場)のこと、村の代表や役人、そして横目役(村の警察官)のいた場所の経過などです。

 現在の大村市福重地区(旧・福重村)は、大村市内で3番目に広い面積を有する地区です。また、米(コメ)が経済、税金の中心だった江戸時代は当然のことながら、現在も長崎県下有数の穀倉地帯です。ここからは、上野の推測ながら、先のような藩にとっても重要な村がゆえに、本来既に終わったことなのに、大村郷村記に村合併前後のことを詳細に記録したのかもしれません。

2)村境石について
 元の福重村<須古郷(寿古郷)、草場郷>と、元の皆同村<皆同郷、矢上郷、沖田郷>の間には、村境石が置かれていました。まず、下記の横長写真(写真1)と、村境石紹介文右側の(写真2)を参照願います。下記写真1のAが現在、村境石が置かれている場所です。Bは、元あった場所の周辺です。

(写真1) 村境石が現在ある所。 B元あった周辺(道路拡幅工事で移設されたという)



 福重地区の皆同町や寿古町で伝わってきた村境石についての内容は、次の「」内通りです。 「福重村と皆同村の村境石が元あった場所は、JR大村線の皆同町ガードより西側の三差路周辺(写真1のB周辺)にあった。市道の工事で邪魔になったので、ガードの反対側(東側、写真1のA地点)へ移設した」、「その場所は現在、福重商工振興会設置の大きな案内板の前にある石の数個だ」

(写真3)現在地の村境石(植栽の中に3個。上部右側は福重商工振興会の案内板)

 右側の(写真2)をご覧になると分かりますが、先の大きな案内板の前(市道の三差路東側。旧・皆同バス停の北側)にサツキと思われる植栽があります。これが、やや高くなっている現在、3個ある石全部を一回では確認できません。数メートルほど真上(空中写真)からでないとは見れない状況なので、(写真2)で、ご了承願います。

 合計3個の石は、この写真の左下側に1個、中央部に1個、その右下側に石は見えていませんが、植栽が窪んでいるような所に1個あります。植栽が低かった頃は、3個全部が視認できたと思われます。

 あと、元の場所にあった当時、村境石が、どのように置かれていたのか詳細分かっていません。ここからは、上野の推測ながら、3個とも横幅1メートルはないので、石二つを土台にして、その上に1個を重ね置きしていたか、あるいは3個を三角形状のようにして置いていたのではないでしょうか。

 いずれにしても、元あった場所(上記写真1のB)周辺は、皆同ー寿古、皆同ー沖田、皆同ー今富方面の道が三差路みたいにしてあった所と推測されますので、この村境石は、けっこう目立つものだったのではないでしょうか。

補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい)


関係ページ:「彼杵郡家(そのぎぐうけ)=彼杵郡衙(そのぎぐんが)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」 、 今富城(いまどみじょう) 、 尾崎城(おさきじょう)  、 岩名城(いわなじょう)  、 好武城(よしたけじょう) 、 江良城(えらじょう) 、


(掲載日:201年10月20日、第二次掲載日:10月24日、第三次掲載日:10月27日、第四次掲載日:11月18日、第五次掲載日:11月22日、第六次掲載日:12月17日、第七次掲載日: 月 日 

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