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大村の城シリーズ 好武城(よしたけじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  好武城(よしたけじょう)
(2)別名  なし 
(3)所在地  大村市寿古町<字「好武(よしたけ)」>
(4)築城年代  (詳細は不明) 戦国時代
(5)形式・特徴  平山城 
(6)城主など  不明
(7)現状(遺構)  個人宅周辺がほとんどで、遺構は一部あり
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記に記載されている
(9)土地や管理など  個人所有の宅地(住宅地)、畑地

(10)補足、感想など
 <好武城の情報などについて> この城跡は、福重地区では皆同町にある今富城址とともに(大村市教育委員会の案内標柱も設置されているので)有名である。また、江戸時代に編纂された(大村)郷村記にも記述されている。

 ただし、この郷村記の内容は一部において問題があり、現在では創作説もしくは異説ではないかとも言われている。特に、本来なら佐賀の藤津郡から来た大村純治の内容が根本的に違う書き方がしてある。(この大村純治についての詳細は『お殿様の偽装』シリーズの「大村純治その1」、「大村純治その2」ページをご覧下さい)

 この好武城は戦国時代に城として使われたことは確かだが、本城としての期間は短く、あとは出城の役割があったと推測されている。遺物も戦国時代の物より、それ以前の古代・肥前国時代頃より好武城が出来るまでの間が多く出土している。つまり、今では好武城跡と言うより、ここは古代肥前国の杵郡家や、その後の彼杵庄園の役所跡と言う表現が、よりふさわしくなってきている。


好武城跡(大村市寿古町)

1)好武城を紹介するにあたって
  まず、この好武城を記述するにあたって大村市文化振興課の大野氏の講演内容(2008年2月2日、第3回福重郷土史講演会)を参考にしています。掲載にあたり改めて感謝申し上げます。

  この好武城は、江戸時代に大村藩によって編纂された(大村)郷村記に記述されています。ただし、上記のデータ表にも書いていますが、この郷村記の内容は一部において問題があります。しかし、城の規模などは、特に偽装とか創作とかとは関係ないので問題ないと思われます。(この件は、後の項目で取り上げる予定)

 あと、この大村の城シリーズで福重地区にある城址で岩名城尾崎城江良城、(今後、今富城も掲載予定)を紹介してきました。その4城とも江戸時代に描かれた大村藩領絵図に載っています。この好武城も同様に、この絵図に描かれています。このようなことから、史料(資料)的には、(大村)郷村記と大村藩領絵図と二つに載っていますので、この地に好武城が存在したのは間違いないと思われます。

 しかし、上記のデータ表にも書いている通り、今までの寿古遺跡から発掘されている遺物などからは、戦国時代の物が少ないと言われています。その理由は何なのかついては、後の項目で寿古遺跡の紹介も含めて考えていますので、そこで詳細は取り上げる予定です。

 ここでは極簡単に書きますと、この寿古町の好武周辺は、古代・肥前国時代から長崎県央地域の政治の中心地及び庄園管理の役所としての存在が長く、戦国時代の本城としての役割は短期間だったのではないかと推測されると言うことです。つまり、城の規模が小さすぎて、この城のそばを流れる郡川の、ここから400メートル上流側にある今富城が、戦国時代の本城としての期間は長く使われていたとも想像されています。好武城は、出城として使われていたとも推測されます。
 
 あと、繰り返しになりますが、上記にご紹介した二つの史料は、この好武城を語る上で貴重です。しかし、城として戦国時代に本城として使われた期間が短かった分、今後の寿古遺跡発掘が他の場所でもおこなわれない限り、なかなか、この城の全体像や役割を詳細にまとめるには、やや資料不足とも思えます。その点も考慮に入れて頂きながら、これから好武城について紹介していきたいと考えています。

江戸時代、大村藩領絵図の一部分
(中央下部付近、紺色極太線は郡川=こおりがわ)
<郡川の直角部分の右岸が寿古(当時は「須古」と表記)>
(「須古」の小さな丘みたいな所が好武城=古代肥前国の彼杵郡家があった場所)
絵図中央部を東西に流れているのが石走川(いしばしりがわ)

2)好武城と大村藩領絵図
 まず、右側の大村藩領絵図(福重地区の一部分)をご覧願えないでしょうか。(大村藩領絵図の詳細は、ここからご覧下さい)この絵図の中央左側の最下部に、やや見にくいですが、好武城という文字が見えます。

 この文字のやや右上方向、または極太い線で紺色に見える郡川(こおりがわ)の直角に曲がった部分の右岸(絵図では左側)部分に、やや山林みたいにこんもりとした形状が描かれていますが、この周辺が好武城です。この城の南西方向(絵図では下側)が郡川の河口や大村湾となります。

 あと、ご参考までに、郡川の上流約400メートル(絵図では皆同村の文字が見える右側方向に)大村純忠も居城した今富城も見えます。さらに、絵図左側の松原村と草場との文字中間部に「エラノ城」(江良城)」も見えます。絵図中央部を右から左へ流れているのが、石走川(いしばしりがわ、最下流部は松原川とも呼ばれていた。この川は現在、通称”よし川”とも呼称されている)

 大村藩領絵図が描かれた江戸時代も、さらにはそれ以前の戦国時代も、郡川と石走川の中間部やその周辺は、好武城と今富城の丘部分、民家や長崎街道などの道路などを除き、当時はほとんど田んぼだったと推測されます。このことは後で書く予定の(大村)郷村記の記述の項目でも登場してきます。

 後世に描かれた絵図ではあるのですが、この好武城が戦国時代に短期間だったとはいえ「なぜ、この地に城が築かれたのか?」と言う疑問に一目瞭然に答えるように分かりやすいものです。つまり、直近に郡川があり水害や敵からも守りやすい丘だったこと、周りが田んぼだらけだったこと(穀倉地帯でもあった)、交通も便利だったことなどが挙げられると思います。

 ただし、この大村藩領絵図でもお分かりの通り好武城のあった丘は、今富城のあった丘に比べても小規模です。戦国時代に一時期、城としてあったことは事実ですが、狭いため直ぐに今富城に本拠地が移ったことは、この絵図を見ても容易に推測できるものです。

3)好武城と大村郷村記の記述
好武城を記述している江戸時代の郷村記内容は一部に問題あり
 この項目は、江戸時代の大村藩が編纂した郷村記(以降、大村郷村記と表記する)を取り上げます。既に『お殿様の偽装』シリーズの「大村純治その1」、「大村純治その2」ページをご覧になられた方は、お気づきだと思いますが、江戸時代作成の大村郷村記や大村氏系図など、大村氏に関係する記述は一部分で史実にない創作があります。つまり、当時大村藩を支配していた大村氏を「古くから続く素晴らしい家系で、偉大で、立派に見せる」ために偽装したものと思われます。

 その中でも特に、ひどい二大偽装の歴史が、(1)「大村千年の歴史」記述<大村氏は994年に四国から下向(大村に来た)説や大村氏系図などの書き方>と、(2)「大村純伊」伝説記述<全国的にも有名な大村寿司、寿古踊・沖田踊・黒丸踊の起源など>です。これら江戸時代から続く偽装の記述内容が現在でも大村市役所始め公的機関、民間有力団体、有名会社などのパンフレットやホームページ類で堂々と展開されています。

 その偽装の歴史が一般にも明らかに(1980年代から)なった頃は、徐々に公的機関も是正の方向でした。しかし、大村市の公的機関などが偽装の歴史に固執しているため近年またぞろ偽装の歴史が復活し、さらには検証することもなく新聞、テレビ、ラジオなどの報道を始め雑誌や個人の皆様なども書籍やホームページ類で、そのまま同じ表現で記述されています。私は一市民ですが、これらのことは実に残念で、特に何も知らずに大村市に来て下さる観光客の方々に対して大変申し訳ないことだとも思っています。

郡川の本庄渕(本城渕)<写真中央右の奥側>
(左側の土手後方が好武周辺、左後方の山は郡岳)

 これらのことは、先の『お殿様の偽装』シリーズと重複していますので詳細に書きませんが、史実の年代も事柄も合わないことばかりであることは申し上げておきます。そのことを前提にしつつ、今回、大村郷村記に書かれている好武城のことを取り上げていきます。そのため、閲覧されている皆様、どうかその部分は、上記の件をご了解の上、お読み下さらないでしょうか。

 ここに登場する大村純治(おおむらすみはる)は、郷土史の先生方が何回も記述されている通り、本来なら佐賀の藤津郡から来た大村純治のことと思われます。しかし、大村郷村記には(現在、大村市久原町に当たる)「久原城」あるいは(同じく乾馬場町=いぬいばばまちの)「大村館(おおむらやかた)」から移ってきた」と書かれています。また、本来なら大村純治が戦った相手も千葉勢が多く戦場も主に藤津郡などでした。(この大村純治についての詳細は、『お殿様の偽装』シリーズの「大村純治その1」、「大村純治その2」ページをご覧下さい)

 この項目で大村純治のことを詳細に書くのは、主目的ではないので、これ以上書くのは控えますが、大村純治と同一人物とも言われている「大村純伊(おおむらすみこれ)」含めての年代頃は、個人的に「大村の戦国史、最大の謎」と思っています。

 先にご紹介しました通り、大村郷村記の一部内容は史実と根本的に違う書き方がしてあるため、私は、この『大村の城』シリーズに大村郷村記の当該部分を未掲載するか、どうか迷いました。ただ、その当該部分だけを省略しましたら前後の文脈のつながりが分かりにくくなりますので、今回は全文載せることにしました。

好武の古城(大村郷村記の記述内容)
 私は、(大村)郷村記に記されている好武城周辺の地形、城の規模などの部分は、偽装とか創作とかとは関係ないと思っていますので、そこを参照する分は問題ないと考えています。ただし、大村氏関係の記述は、充分気をつけて、下記はご覧願います。この好武城は、(大村)郷村記に「好武の古城」と記述されています。この郷村記によりますと次の通り書いてあります。「 」内引用部分、ただし、原文は続き文ですが、見やすいように一部空白(スペース)を挿入しています。

 「一 好武の古城  大手巽の方搦手丑の方本丸三百坪余 二の郭三千六百坪四方 隍南の方郡川西北は深田なり 申酉の方六町程 に海あり 大村民部太輔純治築之純治有馬と数年合戦に及しかは郡村福重の里に於て要害の地を撰み城を 築て移り居す 是を好武城と号す 是より以前代々久原の城に居住し或は大村の館に居ると云 築年月不知今 は畠地となり人家山林あり 天和二年の書記に先年より好武城と云は福重庄屋の事なりと云  

 上記の大村郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

 < 好武の古城 大手門(城の正門)から搦め手(城の裏門)は北から東へ30度の方角になり、本丸部分は300坪(990平方メートル)である。二の廓(二の丸)は全体で3600坪(11,880平方メートル)である。城の堀の南方角には郡川があり、西北側は深い田んぼである。西南西の方向約654メートルには海(大村湾のこと)がある。(好武城は)大村民部太輔純治が築城し有馬と数年合戦をおこない郡村の福重の里に要害の地(注:地形がけわしく守りに有利なこと。戦略上、重要な場所に築いたとりで=大辞泉より)を選び移り住んだ。これを好武城と呼んでいる。

好武城の西北側周辺(大村市寿古町)
(旧・発電所屋上から撮影、中央付近に郡川も見える)

 これより以前は久原城に居住していたか、あるいは大村館に居たと言われている。築城の年月は不明である。今は民家、山林となっている。天和二年(てんな2=1682年)の書記(書き留め)によると「昔から好武と呼んでいるのは(ここ周辺が)福重村の庄屋(村役場みたいな所)であった」と言うことである。 

 以上が、好武城に関する大村郷村記と、その現代語訳です。このページ重複して何回も書いていますが、大村氏関係の記述は史実とも合いませんし、これらの事項は江戸時代の創作と私は思っています。また、私が郷土史講演会などで「大村氏に関係している城は、けっこう詳細に書いてある。でも、関係していない例えば城の尾城みたいな城は、あっさり書いてある」と聞きました。

 当然、この基準が全て当てはまるものではないのですが、この好武城も武将の名前として大村氏が二人も関係している割にあっさりしている感じの記述にも思えます。それは、もう一つの要因として城として使用された期間が短期間だったことも挙げられるのではないでしょうか。なお、念のため城の期間=戦国時代の遺物が、今までの寿古遺跡からの発掘からは少なく、それ以前の時代が多いのも注目に値します。

 なお、寿古遺跡の遺物関係についての詳細は、後の項目にも書く予定です。ご参考までに既に掲載中の『彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった』の「3)寿古遺跡の遺物が語るもの」をご覧頂けないでしょうか。

4)好武城周辺から発掘された遺物の語るもの
 この項目については、既に掲載中の「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」のページに、寿古遺跡の遺物の紹介文に詳細に書いています。最初の部分は重複してしまいますが、この項目でも再録致します。太文字は上野が付けました。

戦国時代以前の輸入陶器が大量に出土した
  まず、やや引用が長くなりますが、黒丸遺跡ほか発掘調査概報Vol.5 (大村市教育委員会2005年3月発行)23ページから24ページの関係部分を次の<>内の通り、ご紹介します。

 < (前略) 好武城外縁に広がる寿古遺跡では、圃場整備に伴う発掘調査が実施されている(大村市文化財保護協会1992)。特に好武城西辺及び北辺付近の調査区において、古墳時代〜古代の須恵器・土師器、中世輸入陶磁器及び瓦器、石鍋、近世陶磁器が大量に出土した。特に中世遺物は「爆発的に増加する」と報告されるほどである。報告ではそれを「好武城」の成立に伴うとしている。史料による好武城の築城は具体的ではないものの、せいぜい戦国初期頃までしか遡ることはできない。したがって中世前期の「好武城」を想定しなければならない。これについて満井録郎は「本城」地名を「本荘」とし、九条家領彼杵本荘における惣政所代所と述べた(満井1987)。発掘調査では多量の未使用石鍋が出土しているが、そのような状況は木戸雅寿によると、荘園を通じた中央の権門と深く関係するといい(木戸1993)、満井説を補強するものである。  (後略)  

寿古遺跡、輸入陶磁器(青磁)(大村市寿古町)好武城以前の遺物

 上記のことで分かるのは、戦国時代に好武城として築城されたのは、事実かもしれませんが、戦国時代の遺物があまりないと言うことです。これは何を意味するのかについても、既に「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」に詳細に書いています。再度簡潔にまとめますと、主に次の二つのことが言えると思います。

(1)寿古遺跡の遺物は、戦国時代以前つまり古代・肥前国時代には郡役所あるいは、その後の彼杵庄の役所に関係する遺物が大量に出土している。

(2)戦国時代の好武城時代の遺物が少ないのは、城として短命であった
。(先に紹介中で大村氏が関係していない城の尾城は、あまり長い年月使用された城ではないように思われるが、それでも戦国時代の遺物は出土している。しかし、大村郷村記が仮に正しとして述べるなら大村氏の二氏と最低関係している好武城は、その当時の遺物が沢山出土してもおかしくないのだが、城時代の遺物が少ない)

 ここ寿古町の好武周辺は、現在でも確かに土塁のような形状も道路脇にありますので、戦国時代に築城されたのは事実でしょう。仮に急場の城と考えても、守りを固め、それなりの武将を住まわせる城の規模としては狭い所です。私は冒頭のデータ部分に(ここには丘も一応ありますので)「平山城形式」(現在よりはもう少し当時は高かったと推測)みたいに書いていますが、事実上「平坦な所」と言っても過言ではありません。

 好武城は大村郷村記にも書いてある通り、東に郡川、西北部に深い水田などもあり、このことは防備に役立ったことでしょう。しかし、例えば同じ福重にある尾崎城江良城、今富城などと比較しても、かなり平坦な丘です。決して無防備と言うことではないのですが、戦に明け暮れていた戦国時代の城としてふさわしい所だったかと言うと、やや疑問の残るものです。また、丘の所だけを考えれば城の規模としては他の城と比較しても、やや狭い感じもします。

 以上のような遺物や地域の環境からして、好武城は何十年間とかではなく、築城主と言われている大村純治は自分の代に、せいぜい長くても数年位で今富城に本城を移したのではないでしょうか。このこと含めて、大村純治と好武城・今富城のことを次の項目に書きます。

5)好武城は、別名「郡城」だったのだろうか?
 実は、私の見た範囲内で(大村)郷村記に「郡城」と言う表現は、出てないようです。ただし、他の文献には、いくつか「郡城」の文字があります。その代表例を下記に挙げます。念のために、郡城の"郡"とは、郡村(松原村、福重村、竹松村の総称)のことですが、「郡城とは、郡村で一番大きい城=代表的な城」との意味も言外にあろうかと推測できます。

郡城とは(上側の)今富城(大村市皆同町)のことか

(1)歴代鎮西志に、「永正四年二月(1507年)(中略) 大村純治もまた郡城に入る」と書かれています。 (この件の詳細は、『お殿様の偽装』の「大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その1」ページをご覧下さい)

(2)宣教師ルイス・フロイスの記録
、郡城の名前が登場してきます。(『完訳フロイス 日本史9』(ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)の第25章(第一部九九章)の347ページの5行目からの文章)
 ただし、この場合の郡城とは、今富城(現在の皆同町)のことです。(この件は、既に掲載中の『今富城』の「3)ルイス・フロイスの記録」をご覧下さい)

 上記の内、(2)は最初から「郡城とは、今富城のこと」との主旨で書いていますので、特に問題ありません。ただし、(1)の歴代鎮西志の解釈で私は今までずっと(大村)郷村記の「大村純治が好武城を築いた」の主旨も参照し、佐賀から進出してきた大村純治が最初に築いた城として「郡城とは、好武城のこと」と書いてきました。そして、「大村純伊」と変名した時代に今富城を築いたみたいに書いてきました。

 果たして、この記述が正しかったのだろうかと考え直しています。なぜなら、上記の歴代鎮西志に記述されている「郡城」は好武城ではなく、永正四年二月(1507年)に佐賀から進出して最初から今富城に入った、あるいは短期間(例えば数ヶ月とか半年以内くらい)好武城にいたかもしれないが、後世に書かれた歴代鎮西志には、その位の期間は大したことではないので、その部分は省略して「郡城に入った(最初から今富城を指していた)」のではないだろうか」と言う推測も成り立つ訳です。

 つまり、宣教師ルイス・フロイスの記録だけでなく、後世に書かれた文献は、県内外や、歴代鎮西志も含めて広く一般には「郡城」は好武城ではなく、(現在の皆同町にある)今富城を指しているのではないかと言うことです。この説と歴代鎮西志の記述が、もしも正しければ先に書いた通り大村純治は佐賀から、ほどんとストレートに今富城に居城したと言うことにもなります。この説は、逆に(大村)郷村記の好武城も今富城の書き方にも疑問が出てくる内容でもあります。

好武城縄張図

好武城縄張図(上図の中心部を拡大した図)

 なぜ、このようなことを考え直しているかについての最大の要因は、やはり上記項目「4)好武城周辺から発掘された遺物の語るもの」にも書きました通り、戦国時代の好武城当時の遺物が少ないからです。もっと、何らかの理由により城跡中心部付近の遺物の発見や発掘などがあれば、また状況は変わる可能性もありますが、今のところ、この好武城は城として短期間だったと言えます。

 いずれにしても、この項目を述べるにしては、史料(資料)や遺物などが少なくて、なかなか確定的に言えない状況です。ただし、この年代のことを分析するのは、大村における戦国史の一つの大きなターニングポイントには間違いないと思われますので、今後の新たな史料や遺物の発見を待ちたいと考えています。

6)大村市史の記述と縄張図
 この好武城について、2014年3月31日に発行された『新編 大村市史 第二巻 中世編(大村市史編さん委員会)に記述があります。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史817〜818ページに、「二、 好武城」として下記<>内の通り書いてあります。

 なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。あと、この市史の818ページには、大野安生氏の作図による好武城の縄張図も掲載されています。(右側の画像参照)

< 好武城
 
大村市寿古町に所在する平城である。周りを水田で囲まれた隅丸方形の集落地であり、中は宅地と畑となっているためため旧状は不明である。

 『大村郷村記』 には 「大手は巽(南東) の方、搦手は丑(北東) の方にあり、本丸は三○○坪(約九九○平方メートル) 、二の郭は三、 六○○坪(約一一、 九○○平方メートル) 、四方に城壁があって、南の方は郡川、西北は深田なり。 」 とある。

 城の南西部は比高差が約三メートルあり、石垣が見られるが東側に行くに連れ比高差がなくなっている。『大村郷村記』にいう本丸は恐らく南西隅にある土塁と石垣に囲まれた曲輪()と考えられ、城域の中で最も高い部分に当たる。

 ただし、現在見られる石垣は近世以降の特徴であり、後世の改変を受けている可能性が強い。城の東側には幅二メートル程の水路() が見られ、城に伴う堀とも考えられるが、郡川対岸には律令時代から続く条里跡(12)があり、 当地域に郡衙の中心が予想されることから、その区画溝の可能性が強い。北西隅には御堂が所在する高台(c)があり、城の一部で櫓台と考えられる。

 平成十六年(二〇〇四)大村市教育委員会により南側裾部分の発掘調査が行われており(13)、古代から中世前期にかけての多くの遺物が出土している。

 『大村郷村記』 には十五世紀後半に一五代純治が築き、有馬氏と数年間戦いを行った際この場所に拠点を移したというが、調査では、戦国期の遺物は非常に少なく、城の機能がどの程度あったかについては疑問が残る。 >

7)好武城の遺構など
 好武城跡周辺は、住宅地や田畑がほとんどです。そのため、「これが城らしい遺構だ」というくらい、誰でも直ぐに分かりやすいようなものは、下記に書くこと以外ありません。ただし、一目で分からなくても、現地を見学すると、やはり上記の大村市史にも書いてある内容があります。そのいくつかをこれから、紹介していきます。

好武城の主郭(本丸)跡と呼ばれている場所(私有地)

(1)主郭(本丸)跡
 この好武城の主郭(本丸)跡は、現在空き地や民家になっていますが、個人の所有地です。(右側写真を参照) また、この地や周辺は、本格的な遺跡発掘などがされていませんので、詳細まだまだ不明な部分も多い状況です。ただし、一般には、この場所周辺が本丸跡(主郭跡)だろう」と言われているので、このページでも、それに沿って書いていきます。

 上記の「6)大村市史の記述と縄張図」から引用しますと、
主郭(本丸)の広さは、「本丸は三○○坪(約九九○平方メートル)」と書いてあります。現在の空き地部分だけならば、目算ながら東西約30m、南北約40mはあるようです。戦国時代の主郭(本丸)敷地の詳細は不明ながら、好武の一番高い所は、ほぼ全部そうだったと言われています。そして、その周囲に本丸の10倍以上の広さを持つ副郭(二の丸)があったと言われています。

 また、この地は、古代肥前国時代には、彼杵郡家(郡衙)=彼杵郡を管理する役所(分かりやすい表現に直せば”長崎県央地域の県庁”)のあった場所との説もあります。(この件の詳細は、「彼杵郡家(そのぎぐうけ)=彼杵郡衙(そのぎぐんが)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」ページを参照)

 そのことから、好武城の東側にある郡川の「本庄(城)渕(ほんしょうふち、ほんじょうぶち)」の由来は、「役所の前にある渕」と言われてきました。いずれにしても、古代肥前国時代以前の縄文・弥生時代の頃より、この周辺は長崎県有数の穀倉地帯でした。そのようなことから、先の説が正しければ役所も置かれ、そして戦国時代になり、豪族も同じように支配するために好武城を築いたと思われます。

好武城跡の土塁<左側:土塁、右側:道路>

(2)土塁(どるい)
まず、城関係用語集 ページを参照願います。このページに、「土塁= 土を盛り上げて築いたとりで」と書いています。次に右側の土塁写真をご覧願います。この場所は、上記項目の縄張図「a(一説には主郭=本丸跡ではないかとも言われている所)の北側(上側)と一部東側(右側)に黒い太い線のように描いてある部分です。

ここに現在も残る土塁全体の長さは、(目算で)50m位、高さで80cm〜1m強で、厚さ(幅)は木や竹が邪魔して分かりにくいですが、1m位と思われます。なお、戦国時代は、当然もっと長く、高かったと推測されます。あと、西側部分は、後世に石垣が築かれたのではないかと思われます。

このように土塁部分のみが高くなっていて、「a」(主郭=本丸跡(?)の所も、周囲の(現在)道路部分も一段低くなっています。なぜ、土塁部分だけ高くしたのか。それは、先に紹介した城用語の通り、主郭(本丸)周囲を土で高く盛り上げることにより、敵が進入しにくくするためと思われます。

ここの土塁は、道路脇にあるため好武城跡の見学、または、この周辺の散策時に誰でも簡単に見つけやすい城遺構の一つです。

(3)櫓台跡
(やぐらだいあと)
 まず、この櫓台は、どこにあるかと言いますと、先の項目の「6)大村市史の記述と縄張図」のCの所にあります。(櫓台跡の写真は右下側を参照) 念のため、先の項目にも「北西隅には御堂が所在する高台(c)があり、城の一部で櫓台と考えられる」と書いてある通り、断定的表現でないことは、ご注意願います。

好武城の櫓台跡と呼ばれている場所(私有地)

 あと、好武城の主郭(本丸)跡の中心部からの距離ならば、北北西方向へ約130m地点にあり、好武の小高い地域の端側に当たります。そして、この場所から先は、北・西・南側とも全て広い田んぼや畑がひろがっています。戦国時代も、ほぼ同様な状況と推測されます。

  この櫓台は、文字通りではあるのですが、改めての役割を書きますと、主に次の二つと思われます。
  1,櫓の中に武器(鉄砲、弓、槍、刀など)(多少は別としても)収納して、非常時に備えた。
  2,(この櫓台では)主に北・西・南側に広がる低地(田畑)から侵入してくる敵を見張っていた。

 なぜ、ここに櫓台が置かれたかと言いますと、上記2,と重複表現になりますが、主に北・西・南側の低地からは敵が浸入しやすい状況です。そして、ここを突破されたら、主郭(本丸)まで、あと130m位しかないため危険と考えたので、を建てて敵を見張っていたのではないでしょうか。

  この櫓台跡の下側には、井手(用水路)もあります。
戦国時代の井手の幅の詳細は不明ながら、もしも広かったとしたら、この井手も少しなりとも敵浸入の障害物になった可能性もあるでしょう。あと、補足ながら現在この建物(右側写真参照)は、個人が「住吉様」を祀っておられると、私は地元の方に聞きました。

(4)堀

(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


8)好武城のまとめ
この好武城シリーズも、まとめを書く段階になりましたが、簡単にまだまだまとめきれない状況です。それは、けっこう名前の知れた城にしては、史料も発掘された遺物なども少ないのが影響しているかもしれません。

私は、今回、寿古遺跡で発掘された遺物などから「好武城は戦国時代に築城されたのは事実かもしれないが、戦国時代の遺物があまりないと言うことから、城として使用されたのは短期間だった」、「むしろ、戦国時代の城以前、古代肥前国の役所=彼杵郡家あるいは、その後の彼杵庄の庄園管理役所の歴史が長い」と書いてきました。

これらのことは、このまとめの項目でも(2010年6月現在で)同じです。それと、戦国時代の城と言う以上、やはり自然の地形や規模も長期間だったのか、それとも短期間だったのかも影響あろうかと思います。同じ福重の城として存在した例えば尾崎城江良城今富城と比較しても、この好武城は地形上、規模も小さいし防衛上も平坦な地にあり、戦に明け暮れた時代の城としては、やや難があったのかなあと改めて思いました。

好武城跡(大村市寿古町)

 それと、私の思い違いも今回改めて考え直す機会にもなりました。それは先の項目『5)好武城は、別名「郡城」だったのだろうか?』でも詳細に書いた通り、(大村)郷村記に書かれている大村純治と好武城との関係です。このことから導き出される答えで、私は佐賀から進出してきた大村純治は、ほとんどストレートに今富城(=郡城)に居城したのではないかと言うことです。

  歴史内容は時として、その当時の権力者によって都合良く書かれる場合もあります。特に、江戸時代、大村藩の記述で大村氏に関する事項は創作も多く、しかも、それが後世も金科玉条のごとく信じられてきました。また、それを正そうと1980年代に長崎県内の学者さんや大村史談会の先生方が努力して論文を何回も発表されてもきました。

 しかし、肝心かなめの大村市自らは、2000年代になっても「大村市総合計画」、(大村市の公式ガイドブックとも言える)「おおむら浪漫」、「よって行かんねおおむら」、「大村観光ナビ」サイトなどにも、堂々と偽装の歴史や問題のある記述が継続されている状況です。(この件の詳細は「お殿様の偽装」、「大村の偽装の歴史や表現一覧表など」からご覧下さい) ただし、念のため『歴史の缶づめ』(大村市史料館発行)の内容は、これら一部を修正した記述です。(この『歴史の缶づめ』概要紹介は、ここからご覧下さい)

 このようなことから、「大村藩編纂の古記録(郷村記など)の参照、引用は慎重さが必要だ」と色々な方から教えて頂きましたが、それでも私は、この好武城に関する記述は今まで思い違いをしてきたような気がします。今後も、この「大村の城シリーズ」は続けていきますが、この点の注意や慎重さは重ねていきたいとも思いました。

 好武城のまとめで繰り返しになりますが極簡単に言いますと、現時点で「戦国時代に短期間に使用された城だったのではないか」と言うことです。それ以外では私の推測ながら、「(大村)郷村記に書かれている大村純治は、好武城とはあまり関係なく、佐賀から進出して、ほぼストレートに今富城に居城したもの」と思っていますが、それを述べるにしても、将来、好武城周辺でさらに遺物が発掘されない限り、いずれにしても本当のことは言えないと思います。


今後も、改訂や追加掲載予定
  今回このまとめで一応の区切りとなりますが、これからも何か新たなことを教えて頂いたり、調べ直して記述することがありましたら速やかに改訂や追加掲載していきたいと考えています。今後とも皆様よろしく、お願いします。今までの閲覧に重ねて感謝申し上げます。


初回掲載日:2010年2月27日、第二次掲載日: :2010年3月31日、第三次掲載日: :2010年5月3日、第四次掲載日: :2010年5月6日、第五次掲載日: :2010年5月10日、第六次掲載日: :2010年5月24日、第七次掲載日: :2010年6月19日、第八次掲載日: :2010年6月29日、第九次掲載日: :2015年3月14日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

「大村の歴史」もくじ


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