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お殿様の偽装
22)おおむら浪漫2
大村の歴史を考えるシリーズ
お殿様の偽装
追加文その4、おおむら浪漫(1)

追加文その4、おおむら浪漫(1)
おおむら浪漫(表紙)
おおむら浪漫
(9ページ右側部分)
おおむら浪漫について
 『おおむら浪漫(ろまん)』と言うガイドブック(サイズはA5版、合計30ページ)が、この夏(2006年8月)に発行されました。発行は、大村市商工観光課、(社)大村市観光コンベンション協会、(社)大村市物産振興協会、大村市観光案内所です。

 まず、この冊子は、カラー版で綺麗な写真がたくさん使用され、一目で分かる地図、大村各地で咲く花を網羅した『花ごよみ』、大村産のフルーツや工芸品、さらには豊かな自然あるいは郷土芸能や郷土料理の紹介など、これ一冊でも充分大村のことが分かりやすいガイドブックです。

 表紙(右写真は縮小版。実際はA5サイズ)には、この本の概要紹介として「歴史の街、花の街、大村。<ガイドブック> ここ長崎の地、大村は古代からの歴史と、桜に代表される花の街として人々の心やすらぐ静かな海とともに いにしえから栄えてきた歴史の街です。」と書かれています。

 この概要紹介を見ただけでも、かなり歴史に重点を置かれた記述だなあと直ぐに分かります。また、この冊子を読まれたあるテレビ局の取材クルーの方々と、このことが話題になり、その時あの冊子は、大村の歴史に力を入れられた作りだなあと思った」と私におっしゃっていました。

  そのようなことも含めて、かなり大村の歴史に力点をおかれた記述になっている『おおむら浪漫』が、果たして中身まで正確に書かれているのか、私の意見を申し上げたいと思います。この冊子の中身を見て、「重箱の隅をつつく」ような視点でとらえるならば、これから書いています事項以外にも、近代史含めて、あるいは歴史事項以外にも何項目かあります。

 しかし、この「大村の歴史を考えるシリーズ」、『お殿様の偽装』は、あくまでも歴史の記述間違いや偽装部分を指摘し改善を求めているページです。「現在の大村市の記述や情報を続けるなら大村に来て頂ける観光客の方、あるいはこれから郷土史を勉強されようとしている学生さんや市民の方に、間違いの情報を伝えてしまう。本当の情報は、これです」と言う主旨ですから、大きな部分の大枠を記述していきたいと思います。

大見出しで「千年の歴史」と言いつつ、中身は総て約400年の歴史では?
 『おおむら浪漫』の9ページには、「千年の歴史 城下町大村」(右側の写真をご覧下さい)と言う大見出しがあります。リード=小見出しで<色とりどりの海石を漆喰で固めた「五色塀」。6mを超える藩主の墓石は壮大で見事。>と書かれています。

 その後説明文に入り、「肥前大村藩2万7千石の城下町大村。大村氏は中世から江戸時代を経て明治維新に至るまで大村地方を治めてきた大名です。その拠点は大村館、三城城と移り変わり、1598年には、初代藩主となる大村喜前(よしあき)が三方海に囲まれた要害の地に、玖島城を築きました。 (後略)」と書いてあります。

 さらにその後は、ずっと(現在は屋敷のない)石垣や塀しか残っていない武家屋敷通り、城下町や大村藩主大村家墓所などの紹介が続いています。これらの記述で、いくつか間違い及び誤解を与える内容があると思います。それは、主に下記の事項です。

1)「千年の歴史」は、偽装極めつけの表現
 
まず最初に「千年の歴史」の大見出しについて。もう、このシリーズ何回も繰り返し記述してきた通り、大村「千年の歴史」表現は、偽装中の偽装、極めつけの表現です。(詳細は<大村の偽装の歴史や表現一覧表など>ページから順次ご覧下さい)

2)「千年の歴史」と言いつつ中身と合っていない
 
「千年の歴史」と大見出しに書きつつ、中身の記述は、三城城(1564年に築城)、玖島城=大村城(1598年に築城)など、せいぜい450年にも満たないことばかりなのです。肝心の「千年」の中身の記述が全くないのです。念のため、他のページにも、それらのことは書いてありません。

 「千年の歴史」事項を書こうとすれば、偽装の極めつけの大村市指定史跡の寺島(大村家の始祖が「千年」前、四国から来て上陸したと言われているが、全く何も裏付け根拠のない偽装の歴史事項である。右側写真参照)がありますが、さすがにこれは、今回は掲載されていません。

極めつけの偽装の歴史”案内板
大村市指定史跡の寺島
  また、 ご参考までに、大村の歴史を含む『福重のあゆみの年表』をご覧下さい。この年表は私が意図的に作為を持って現在の大村中心地を省いたものではありません。玖島崎古墳(元々この古墳の所は島だった)や水田条里制の田んぼ以外、平安末期頃まで歴史事項がないのです。

 どちらにしても、この『おおむら浪漫』9ページは、大見出しと中身の文章が合っていないのです。もしも中身の説明文章に「千年」の名に値する歴史的事項の何かが入っていれば、下記の3)ような誤解も招かないと思うのですが。

3)城下町とは戦国時代からを言う
 
大見出しを続けて見るなら(文字色の違いはありますけど)「千年の歴史 城下町大村」です。これは誤解を招く表現です。第一印象まるで城下町が「千年前」から大村にあるみたいにも思えます。まず、城下町とは、辞典で「戦国時代から江戸時代にかけて、大名の居城を中心に発達した市街」(参照:大辞泉)と書いてあります。つまり戦国時代(1467年頃)から城郭を中心に栄えた町並みを言うのです。

 例えば全国的にも有名な小田原城でも北条早雲が今から511年前の1495年に築いたと言われています。また、滋賀県の近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区は、大村市内の石垣だけしかない武家屋敷通りと違って、ここには屋敷も石垣も堀も通りも町並み全体が保存されいて、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。

 この地区は、歴史的には1585(天正13)年、豊臣秀次によって城下町として築かれ、その後商人の街と発展しましたが、築城から換算して約420年前のことです。大村のように元々偽装の表現ながら「千年前」から”城下町”が(全国いくら探しても)ある訳ないのです。

 1000年前と言えば平安時代です。仮にその当時城下町でない街が大村に存在していたとしても、その一番の中心地は、このシリーズで詳細に述べてきた通り、現在の福重、松原、竹松地区などの郡地区(肥前国の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)=後の好武城周辺と言われています。写真参照)です。旧・大村中心地(旧・大村町)は、その時期、人が住んでいなかったとは言いませんが、郡地区ほど人口は多くなかったと思われます。

 この大見出し「千年の歴史 城下町大村」を中身と合わせて、”城下町”の表現に限って、より正確に書くなら「四百年の城下町大村」と言えるでしょう。念のため、城が出来たから直ぐにたくさんの人が住む町並みも整備されたと言う訳でなく実際の城下町形成はもっと遅いと思われます。

佐賀側から進出した大村純治 最初の居城と
言われている好武城跡(大村市寿古町)
大村純治と同一人物と言われている
「大村純伊」築城の今富城跡(大村市皆同町)
4)三城城よりも古い好武城、今富城は何ひとつ書いていない
 この冊子が大村全体のガイドブックと言うなら城などについて、触れざるを得ない事項があります。先に述べた通り、リード=小見出しに大村館、三城城や玖島城のことが書いてあります。(大村館について、これは文字通り城ではなく大きな屋敷=館と思われます。この大村館については機会あれば別のページで記述したい思っています)

 その三城城や玖島城よりも歴史の古い好武城、今富城のことについては、どこのページを見ても、何ひとつ触れられていません。明治維新まで続く大村藩主の大村家は、佐賀から来た大村純治から系図的には続いていると言われています。(この件の詳細は<江戸時代に偽装され大村氏系図ページ>を参照)

 
歴代鎮西志には、「永正四年二月(1507年)(中略) 大村純治もまた郡城に入る」と書かれあります。(この項、外山幹夫氏の『中世九州社会史の研究』参照) この「郡城」は、好武城のことと言われています。(好武城の詳細は、ここからご覧下さい)また、この好武城は小さいため、次に大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」は、今富城を築城しています。(今富城の詳細は、ここからご覧下さい) 

 この城は単に大村純治もしくは大村純治と同一人物の「大村純伊」が居城していた(さらには大村純前、大村純忠なども可能性がある)と言うだけではなく、戦国時代佐賀側との合戦が多いのですが、その守りの意味からも今富城は重要な役割を果たしていました。

 大村純忠時代の戦で有名な『鳥越(とりごえ)・伊理宇(いりゅう)の合戦』時には、この今富城から出兵し、直ぐ近くの鳥越・伊理宇(現在の今富町や立福寺町など)で戦ったのではないかとも言われています。その後、大村純忠は今富城が佐賀側に近いため、郡川と大上戸川の二つの川を渡ってさらに先にある三城城に城を新たに築城しました。

 この冊子で大村館、三城城、玖島城は記述されているのに、歴史上ちゃんと登場している好武城や今富城などを触れないのは、歴史に力を入れて記述した大村全体のガイドブックからすれば、疑問を感じます。最初から大村全体を歴史的に見て記述したものとは思えません。

歴史は大村全体を見て正しく記述して欲しい
 この『おおむら浪漫』のガイドブックは、全体30ページの制約あるいは武家屋敷のない石垣だけの武家屋敷通りを中心に描きたいと言う意図があり、「だから歴史事項として城を述べるなら三城城や玖島城などしか掲載しなかった」と言う理由を言われるかもしれません。

 しかし、この記述方法ついて、これら同種の無料冊子(ガイドマップなど)は単に今回だけではなく、ほぼ毎回同じ描き方なのです。(念のため有料の歴史専門誌は別扱い) ですから「本当に1000年以上の歴史がある郡地区などは、最初から無視して三城城や玖島城などしか記述したくなかったのではないか」と言われても止むを得ないことです。

 観光客の方もあるいは一般市民の方も、分かりやすい(無料の)大村全体のガイドブック(ガイドマップなど)に以前から毎回のように、このような同じ記述方法で繰り返されれば大村の偽装の歴史に触れることはあっても、本当の歴史に触れる機会はないに等しいと想像されます。ですから先のページ<誤解を招くような表現その1、大村中心地>でも、あるマスコミ関係者の大村の歴史認識として「大村って、大村純忠の頃からでしょう。城下町からですよね」と言うことになるのです。

 つまり、本当に大村で歴史ある地域がこのようなガイドブック(ガイドマップなど)に毎回書かれないことにより、事実上無視か抹殺されていることと同じことなのです。これでは、この冊子の表紙で紹介されている「大村は古代からの歴史と、桜に代表される花の街として人々の心やすらぐ静かな海とともに いにしえから栄えてきた歴史の街です。」と、あまりにもかけ離れていると思います。

 約400年くらいの城下町だけの紹介のみで、どうして「大村は古代からの歴史・・・」「・・・いにしえから栄えてきた歴史の街・・・」と言えるのでしょうか。私は、この種のガイドブックに沢山のページや写真を使って上記に述べたことを書いて頂きたいと言っている訳ではないのです。せめて写真数枚か数行くらいでもいいから偽装ではない「大村は古代からの歴史・・・」を表現して欲しいと申し上げているのです。

 大村市の”歴史観光立市”を目指すという方針のもと作成されたガイドブックなら、なんらかのページや内容構成を検討し、大村全体の歴史を正しく記述され、名実ともに「大村は古代からの歴史・・・」に該当する内容にすべきだったのではないでしょうか。

(掲載日:2006年9月17日) 
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